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忘却術師は透明になる 〜記憶を消して人を救う代わりに、俺は誰からも忘れられる〜  作者: 黄昏
第1章:透明になる忘却術師

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第16話:記憶の庭園


無数の糸が、宙を漂っていた。色とりどりの光。赤、青、金、灰色。蛍のように淡く輝きながら、広大な空間を満たしている。


天井は見えない。どこまでも続いているように見える。白い光が、柔らかく降り注いでいる。


記憶の庭園。削除された記憶が眠る場所。


俺は、その光景に息を呑んでいた。



  *



数時間前。カイの執務室。


「自分が切り離した記憶を、確認させてください」


俺はそう言った。カイは、少し驚いた顔をした。


「記憶に触れたい、ということか」

「はい」


記憶の庭園に保管された記憶への直接アクセスは、依頼人のプライバシー保護のため禁じられている。そのため、許可を求めに来たのだ。


「気になっていたんです。俺が切り離した記憶が、どうなっているのか」


カイは、窓の外を見た。


「……いいだろう。むしろ、見ておくべきだ」

「大佐?」

「忘却術師として仕事を続けるなら、自分が何をしているのか理解しておく必要がある」


カイは、机の引き出しから小さなカードを取り出した。


「俺の許可で、記憶への直接アクセス権限を与える。自分が切り離した記憶を、自分の目で確認しろ」


カードを受け取った。


「それと」


カイは、一枚の書類を見せた。


「今日付で、お前を一級忘却術師とする」

「一級……?」


聞いたことがない呼び方だった。


「これまでは調整師と忘却術師という分け方しかなかった。だが、お前の実績を見て、正式な階級制度を設けることにした」


カイは、俺を見た。


「完全な忘却ができるのは、お前だけだ。一級は、お前のために作った階級と言ってもいいだろう」


俺のために作った階級。その言葉の重さを、うまく受け止められなかった。


「ミラに案内させる。行ってこい」


  *


そして今、俺は記憶の庭園にいる。


「これが、削除された記憶たちです」


隣でミラが言った。


「調整師や忘却術師たちが、長い年月をかけて切り離してきた記憶。その全てが、ここに眠っています」


俺は、ゆっくりと歩き出した。糸が、俺の周りを漂う。手を伸ばすと、柔らかく揺れた。まるで生きているように。


ふと、糸と糸の隙間に、別のものが見えた。


線だ。格子状に走る、薄い光の線。記憶の糸ではない。もっと均一で、無機質な。まるで、この空間そのものを支えている、骨組みのように見えた。


「ミラ。あの線は何だ」

「庭園の基盤構造です」


即答だった。迷いなく、機械的に。


「記憶を保管するための、空間維持機構です」

「……そんなものがあるのか」

「はい。庭園はそのように設計されています」


淀みのない説明。だが、何か引っかかった。設計。誰が、設計したのだろう。聞こうとして、やめた。今は、記憶を確認することが先だ。


「赤黒い糸が、苦しみの記憶か」

「はい。でも、見てください」


ミラが、一本の糸を指さした。赤黒い糸。でも、その中に金色の部分がある。青い部分もある。


「苦しみだけじゃない」

「はい。トラウマを切り離す時、その記憶に込められた感情も一緒に切り離されます」


ミラは、糸を見つめた。


「苦しみの記憶にも、愛情や温もりが込められていることがあるんです」


苦しみの中にも、温かさがある。そうだ。トラウマは、元々は大切な記憶から生まれている。エリカのトラウマはカイルへの愛情から。トーマスのトラウマは部下への責任感から。エマのトラウマは父への想いから。


苦しみと温かさは、同じ根っこを持っている。


  *


一本の糸に、目が留まった。見覚えがある。赤黒い中に、金色の部分。


「これは……」

「エリカさんの記憶です」


エリカの記憶。俺が切り離した、最初の記憶。俺は、糸に手を伸ばした。


「レオン伍長」


ミラが言った。


「依頼人の記憶への直接アクセスは、通常禁止されています」

「ああ。でも」


カードを見せた。


「カイ大佐の許可がある」


ミラは確認し、頷いた。


「……分かりました。アクセスを許可します」


俺は、糸に手を伸ばした。躊躇いがあった。これはエリカの記憶だ。彼女の心の奥にあったもの。でも、知りたかった。俺が切り離したものが、どうなっているのか。


指先が、糸に触れた。


  *


温かさが、流れ込んできた。


愛情。深い愛情。胸が締め付けられる。……施術の時とは、違う。


あの時は、苦しみだけを見ていた。「ありがとう」という言葉で蘇る痛み。カイルが倒れる瞬間。血。伸ばした手。届かなかった。それだけを、切り離した。でも今、この糸から流れ込んでくるのは、苦しみだけじゃない。


どれほど大切だったか。

どれほど一緒にいたかったか。

どれほど失いたくなかったか。


エリカの想いが、胸に響いてくる。俺は苦しみを切り離した。でも、その苦しみの奥にあった愛情の深さを、俺は本当には分かっていなかった。


手を離した。息が荒い。目の奥が熱い。


「……レオン伍長」


ミラの声。心配そうな声。


「大丈夫、ですか」

「……ああ」


嘘だった。涙を堪えるのがやっとだった。


「無理をしないでください」


ミラは、静かに言った。


「私は、あなたの傍にいます」


その言葉が、胸に染みた。


「……ありがとう、ミラ」


ミラは、小さく頷いた。


俺は糸を見つめた。赤黒い苦しみと、金色の愛情が、絡み合っている。


「でも、この糸には、苦しみだけじゃない。カイルへの愛情も、残っている」

「はい。記憶の糸には、切り離された全てが保存されています」


全てが、ここにある。苦しみも。その奥にあった愛情も。エリカから切り離されたけれど、消えてはいない。施術後、エリカは言っていた。


『カイルのことは覚えています。でも、苦しくないんです』

『誰かに、優しくしてもらったような気がします』

『胸の奥が、温かいんです』


あの時は、不思議に思っただけだった。記憶を消したのに、なぜ「温かい」と感じるのか。


「記憶は、ここにある」


俺は、糸を見つめながら言った。


「エリカから切り離された。でも、消えてはいない」

「……はい」

「そして、エリカの中にも、何かが残っている」

「何か、ですか」

「分からない。でも、彼女は言っていた。『胸の奥が温かい』と」


ミラは、黙って俺を見ていた。


「記憶はここにある。エリカの中にはない。なのに、彼女は温かさを感じている」

「……」

「何かが、残っているんだ。記憶とは別の、何かが」


ミラは、何も言わなかった。その目には、何かを知っているような光があった。でも、口を開かなかった。


  *


庭園の中を、歩き続けた。


トーマスの糸を見つけた。灰色の苦しみの中に、青い部分がある。責任感。部下への想い。


マルセルの糸も見つけた。後悔の感情が、強く残っていた。


エマの糸は、小さかった。幼い悲しみ。父を失った痛み。


全部、ここにある。俺が切り離した記憶が、全部。


ふと、仲間たちのことを思い出そうとした。ガロウ。マーク。一緒に戦った仲間たち。顔が、ぼやける。声も、思い出せない。おかしい。何度も死線を越えた仲間だ。なのに、なぜこんなに曖昧なんだ。でも、胸は温かい。会いたいと思う。懐かしいと思う。


「俺の中にも、あるのかもしれないな」

「え?」

「仲間たちの顔が思い出せない。声もぼやけている。でも、胸は温かい」


ミラは、俺を見つめた。


「俺の中にも、何かが残っているんだ。記憶とは別の、何かが」

「……」

「記憶がなくても、残るものがある。そういうことなのかもしれない」


ミラは、何かを言いかけたが、口を閉じた。そして、小さく微笑んだ。


「……そうかもしれませんね」


  *


メモリアルタワーを出た時、夕暮れが近づいていた。オレンジ色の光が、街を染めている。


「レオン伍長」

「ん?」

「記憶の庭園、いかがでしたか」


俺は、少し考えた。


「……行って良かった」

「そうですか」

「俺が切り離したものが、消えていないことが分かった。ちゃんと残っている」

「はい」

「そして、依頼人の中にも何かが残っている。記憶がなくても」


俺は、空を見上げた。


「まだ分からないことだらけだ。でも、悪い気分じゃない」


ミラは、隣に立っていた。


「私も、そう思います」


静かな声だった。


「レオン伍長が気づいたこと。それは、きっと大切なことです」

「……そうか」

「はい。きっと」


風が吹いた、その時だった。左手首が、かすかに温かくなった。


「……?」


青いリボン。温かい。ほんの少しだけ、温かい。


振り返った。メモリアルタワーが、夕日に照らされている。その奥に、何かがある気がした。呼ばれている。誰かに、呼ばれている気がする。


「レオン伍長?」

「……いや、何でもない」


気のせいだろうか。いや、気のせいじゃない。あそこに、何かがある。確かめなければ。


ミラは、何も言わなかった。ただ、静かに俺の隣を歩いていた。夕暮れの街を、二人で歩いた。


リボンのことが、頭から離れなかった。


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