表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘却術師は透明になる 〜記憶を消して人を救う代わりに、俺は誰からも忘れられる〜  作者: 黄昏
第1章:透明になる忘却術師

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/66

第14話:パパとの約束


光の中を、落ちていく。


エマの記憶の世界。七歳の少女が、三年間、抱え続けた痛み。


その中へ——。


  *


目を開けた。暖かい部屋だった。午後の陽射しが、窓から差し込んでいる。柔らかい光が、部屋を包んでいる。リビング。床には、クレヨンと画用紙が散らばっている。


小さな女の子が、絵を描いていた。三年前の、四歳のエマ。


「パパ、見て見て!」


エマが、画用紙を持ち上げた。大きな丸。棒のような手足。にっこり笑った顔。


「できた!」

「おお、上手だな」


父親が、エマの隣に座っていた。優しい目で、娘の絵を見ている。


「これ、パパだよ!」

「そうか、パパか」


父親は、嬉しそうに笑った。


「似てるな。特にこの笑ってるところ」

「えへへ」


エマは、照れたように笑った。


「じゃあ、パパもエマを描いていいか?」

「うん!描いて描いて!」


父親は、クレヨンを手に取った。真剣な顔で、ゆっくりと描いていく。小さな女の子。ふわふわの髪。大きな目。満面の笑顔。


「できた」

「わあ!」


エマの目が、輝いた。


「エマだ!かわいい!」

「だろう?エマは可愛いからな」

「パパ、絵、上手だね」

「そうか?エマに褒められると嬉しいな」


父親は、エマの頭を撫でた。大きな手。温かい手。エマは父親に抱きついた。


「パパ大好き!」

「パパもエマが大好きだ」


父親は、エマを抱きしめた。優しく。強く。


「世界で一番——大好きだ」


幸せな光景だった。何気ない午後。何の変哲もない日常。でも、かけがえのない時間。


  *


記憶が切り替わった。同じ部屋。でも、空気が違う。


夕日が、窓から差し込んでいる。オレンジ色の光が、部屋を染めている。父親が、ソファに座っている。膝の上には、エマ。


父親は、何かを抱えていた。テディベア。新しい、茶色いクマのぬいぐるみ。


「エマ」

「なに?」

「これ、エマにあげる」

「クマさん?」


エマの目が、輝いた。


「くれるの?」

「ああ。パパが選んだんだ」


父親は、テディベアをエマに渡した。


「エマにぴったりだと思って」


エマは、テディベアを受け取り、両腕で抱きしめた。


「ふわふわ!」

「気に入ったか?」

「うん!大好き!」


エマは、テディベアを頬に当てた。嬉しそうに笑っている。


「名前、つけていい?」

「もちろん」

「じゃあ……ポポ!」

「ポポか。いい名前だ」


父親は、笑った。でも、その目には、どこか影があった。


「エマ」

「なに?」

「パパはね……明日、遠くに行かなきゃいけないんだ」

「え……?」


エマの顔が、曇った。


「どこに行くの?」


父親は、しばらく黙っていた。そして、深く息を吸った。


「……戦争に、行くんだ」

「戦争……?」


エマは、その言葉の意味が分からないようだった。首を傾げている。


「パパ、行かないで!」


突然、エマが父親の首に抱きついた。テディベアを片手に抱えたまま。


「行かないで、パパ!」


父親は、娘を抱きしめた。その腕が、震えている。


「エマ……」


父親の声が、かすれた。


「パパは、エマとママを守るために行くんだ」

「守る……?」

「そうだ。悪い人たちから、この国を守るんだ」


父親は、エマの頭を撫でた。


「だから——」


彼は、エマの腕の中のテディベアを指差した。


「ポポが、パパの代わりにエマを守ってくれるよ」

「……ポポが?」

「ああ」


父親は、優しく微笑んだ。だが、その目には、涙が浮かんでいる。


「エマが寂しくなったら、ポポを抱きしめて」

「そうしたら、パパがいつでも一緒だから」

「……」


エマは、テディベアを見つめた。そして、ぎゅっと抱きしめた。


「それから、エマ」


父親は、エマの小さな肩に手を置いた。


「ポポはね、とても大切なものなんだ」

「大切……?」

「そう。だから、約束してほしい」


父親の声が、震えた。


「ポポを、大切にするんだよ。絶対に、壊しちゃダメだ」

「うん」

「そして——」


父親は一瞬、言葉を選ぶように沈黙した。その手が、微かに震えている。


「エマが大人になったら……二十歳になったら、ポポの中を見てもいい」

「ポポの、中……?」


エマは首を傾げた。


「そう。でも、それは大人になってからだ。約束できるかい?」


父親の声には、普段にない緊張が含まれていた。その瞳は、必死に何かを伝えようとしている。


「うん。約束する」


エマは真剣な表情で頷いた。父親がこれほど真剣な顔をしているのを見るのは初めてだった。だから、これはとても大切な約束なのだと、幼心に感じ取っていた。


「いい子だ」


父親はほっとしたように微笑み、エマを抱きしめた。


「必ず、必ず守るんだよ。パパとの、約束だからね」

「うん……」


エマは、父親の胸に顔を埋めた。テディベアを——抱きしめたまま。


  *


記憶が、切り替わった。


朝。玄関の前。朝の光が差し込んでいる。父親が、軍服を着ていた。背中には、荷物。エマと母親が、見送っている。


「パパ……行かないで……」


エマが、泣きながら父親の足にしがみついた。テディベアを片手に抱えながら。


「エマ……」


父親は、しゃがみ込んだ。娘と目線を合わせる。その目には、涙が浮かんでいる。父親は、必死に笑顔を作ろうとしている。だが、顔が歪んでいる。


「大丈夫……パパは強いから……」


声が、震えている。


「必ず……必ず帰ってくるよ……」

「……本当?」

「本当だ」


父親は、エマを抱きしめた。強く、強く。まるで、この腕の中の温もりを忘れないように。


「いい子で待っててね。ポポと一緒に」

エマは、テディベアを抱きしめた。

「……うん。待ってる」


父親は、立ち上がった。母親を抱きしめる。


「すまない……」

「……無事に、帰ってきて」


母親の声も、震えていた。父親は、二人から離れた。そして、玄関のドアに手をかけた。


「パパ!」


エマが、叫んだ。父親は、立ち止まった。振り返ろうとして——。だが、できなかった。振り返れば、自分の感情が崩れてしまう。振り返れば、もう歩き出せなくなる。父親は、目を閉じた。涙が、頬を伝う。


「……愛してるよ、エマ、マリア」


小さな声で、呟いた。そして——ドアを開けて、外に出た。


「パパ!パパ!」


エマの叫び声が、背中に突き刺さる。父親は、歩き続けた。振り返らずに。前だけを見て。ドアが——閉まった。


エマは、テディベアを抱きしめていた。涙を流しながら、抱きしめていた。


「パパ……」


小さな声が、響いた。


「……待ってるね」


  *


記憶が、暗転した。


どれくらいの時間が経ったのか。数週間か。数ヶ月か。記憶の中の時間は、曖昧だ。


暗い部屋。カーテンが——閉じられている。リビング。母親が、座っている。手には、一枚の紙。その顔は、真っ青だ。窓の外は、雨が降っている。


「ママ……?」


エマが、不安そうに見ている。テディベアを抱きしめながら。


「ママ……どうしたの?」


母親は、エマを見た。その目は、絶望に満ちている。


「エマ……」


母親の声が、震えた。


「パパが……」

「……パパ?」


エマは、首を傾げた。


「パパ、帰ってくるの?」

「……」


母親は、答えられなかった。ただ、涙が零れ落ちた。


「ママ……?」


エマの顔に、不安の色が広がる。


「パパが……もう、帰ってこないの……」

「え……?」


エマの目が、大きく見開かれた。


「どうして?パパは、帰ってくるって……約束したのに……」

「戦争で……パパは……」


母親の声が、途切れた。


「パパは……死んじゃったの……」


エマの視界が、真っ暗になった。頭が——割れるように痛い。


「パパ……?」


エマの声が、震える。


「パパ……死んだ……?」


テディベアを、強く抱きしめた。


「嘘……嘘だよね……?」


だが——母親は、首を横に振った。


「嘘じゃ……ないの……」


瞬間——エマの中で、何かが壊れた。


「パパ……パパ……!」


叫んだ。何度も、何度も。テディベアを抱きしめながら。頭が、痛い。胸が、苦しい。呼吸が、できない。


パパが。パパが。

もう——帰ってこない。

もう——抱きしめてもらえない。

もう——一緒に絵を描けない。

もう——「大好き」って言ってもらえない。


「パパァ……!」


エマの叫び声が、部屋に響いた。


  *


ここだ。


この瞬間、エマの中で何かが壊れた。父親の死を告げられた、あの瞬間。その衝撃が、テディベアと結びついてしまった。父親は言った。


『ポポを抱きしめたら、パパがいつでも一緒』と。


だから、テディベアを抱きしめるたびに、父親を思い出す。父親を思い出すたびに「あの瞬間」が蘇る。暗い部屋。母親の泣き顔。雨の音。『パパは死んじゃったの』という言葉。頭が割れるような、あの痛み。それが、エマを苦しめている。三年間、ずっと。


  *


俺は、記憶の核心に、手を伸ばした。


消すべきは何だ。父親との思い出、ではない。父親の死という事実、でもない。「二十歳の約束」でもない。消すべきは「あの瞬間」の記憶だ。


暗い部屋。雨の音。母親の泣き顔。『パパは死んじゃったの』という言葉。頭が割れるような衝撃。あの——瞬間の記憶。


父親が死んだという「事実」は、消せない。消す必要もない。エマは、父親が死んだことを知っている。時間が経って、少しずつ、受け入れてきた。でも、「あの瞬間」だけが、傷として残っている。テディベアを抱きしめるたびに、あの瞬間が蘇る。だから、苦しい。


俺がやるべきことは——「あの瞬間」の記憶を、切り離すこと。そして、時間をかけて受け入れた「父親の死」と、繋ぎ直すこと。衝撃ではなく、穏やかな理解として。


「パパは、もういない」「でも、パパは愛してくれた」


その二つが、静かに繋がるように。


俺は、忘却術を発動した。


光が、溢れた。


  *


「あの瞬間」の記憶に、手を伸ばす。暗い部屋。雨の音。母親の泣き顔。『パパは死んじゃったの』という言葉。その記憶を、慎重に、掴む。


熱い。痛みが、伝わってくる。四歳の少女が受けた、あまりにも大きな衝撃。俺は、その記憶を、切り離していく。ゆっくりと。丁寧に。


——「あの瞬間」が——遠ざかっていく。

暗い部屋が——薄れていく。

雨の音が——消えていく。

母親の泣き顔が——ぼやけていく。


代わりに——別の記憶が、浮かび上がってきた。一緒に絵を描いた——あの午後。


『パパ、見て見て!』

『上手だな』


クレヨンの匂い。画用紙に描いた、笑顔のパパ。テディベアをもらった、あの夕暮れ。


『ふわふわ!』

『気に入ったか?』


新しいぬいぐるみの手触り。「ポポ」という名前。父親に抱きしめられた、あの温もり。


『パパ大好き』

『パパもエマが大好きだ』


大きな手。温かい胸。それらの記憶が、光になって、広がっていく。そして——。


「パパは、もういない」


その事実が、静かに、繋がる。衝撃としてではなく。悲しみとして——でも、受け入れられる悲しみとして。


「パパは、もういない」

「でも——パパは、愛してくれた」

「ポポを抱きしめたら——パパがいつでも一緒」


その言葉が、痛みではなく、温もりとして響くように。光が、収束していく。


記憶の世界が、静かになった。


  *


エマの記憶は変わった。


「あの瞬間」は、もう、ない。暗い部屋も、雨の音も、母親の泣き顔も、あの瞬間の記憶は、消えた。


でも、父親が死んだという事実は、残っている。時間をかけて、エマ自身が受け入れた形で。父親との幸せな思い出は——全て残っている。「二十歳の約束」も——残っている。そして——ポポを抱きしめた時。


もう、あの瞬間は蘇らない。代わりに、父親の温もりを、感じられる。『パパがいつでも一緒』という言葉を、信じられる。それが——俺にできる、精一杯のことだ。


  *


記憶の世界が、白く、染まっていく。施術は終わった。俺は、現実へ戻っていく。


その刹那、白い光の向こうに、何かが浮かんだ。数字だ。


「01001——」


記憶の糸ではない。記憶世界そのものに刻まれた文字列。読み取ろうとした——瞬間、意識が浮上した。


  *


目を開けた。


エマの部屋。薄暗い、あの部屋。エマは、まだ眠っている。テディベアを、抱きしめたまま。穏やかな寝顔。さっきまでの、苦しそうな表情はない。


「……」


俺は、左手を見た。輪郭が、揺らいでいる。前より、強く。代償。また、薄くなった。


俺は、左手首のリボンを見た。


さっき見た記憶を、思い出す。父と娘が、笑い合っていた。「大好き」と、言い合っていた。


……俺にも、いたのだろうか。あの父親のように、俺を愛してくれた人が。このリボンを、結んでくれた人が。分からない。思い出せない。


でも——このリボンは、温かい。それだけは、分かる。だから、きっといたのだと思う。俺を、愛してくれた人が。


「……」


俺は、エマを見た。


この子はいつか、父親の想いを受け取る。二十歳になった時、ポポの中を見る。その時、父親が残した何かを見つける。


俺には分からない。ポポの中に何があるのか。でも、あの父親の必死さは、伝わってきた。娘への愛が込められている。それだけは、確かだ。


「……レオン伍長」


ミラの声が聞こえた。


「施術は……」

「終わった」


俺は、言った。


「あとは——エマが目を覚ますのを待つだけだ」


「……ミラ」

「はい」

「施術中に、記憶の糸とは違うものが見えた」


ミラが、わずかに動きを止めた。


「糸じゃない。数字のようなものだ。記憶の世界の向こう側に——」

「……その情報は」


ミラが、口を開いた。


「——私の管轄外です」


不自然な言い方だった。ミラ自身も、今の自分の言葉に、驚いたように見えた。


「……管轄外?」

「……申し訳ありません。私にも、なぜそう言ったのか、分かりません」


ミラは、困惑した顔をしていた。

俺は、それ以上聞かなかった。


エマは、静かに眠っている。テディベアを、抱きしめたまま。その顔には、安らぎがあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ