第14話:パパとの約束
光の中を、落ちていく。
エマの記憶の世界。七歳の少女が、三年間、抱え続けた痛み。
その中へ——。
*
目を開けた。暖かい部屋だった。午後の陽射しが、窓から差し込んでいる。柔らかい光が、部屋を包んでいる。リビング。床には、クレヨンと画用紙が散らばっている。
小さな女の子が、絵を描いていた。三年前の、四歳のエマ。
「パパ、見て見て!」
エマが、画用紙を持ち上げた。大きな丸。棒のような手足。にっこり笑った顔。
「できた!」
「おお、上手だな」
父親が、エマの隣に座っていた。優しい目で、娘の絵を見ている。
「これ、パパだよ!」
「そうか、パパか」
父親は、嬉しそうに笑った。
「似てるな。特にこの笑ってるところ」
「えへへ」
エマは、照れたように笑った。
「じゃあ、パパもエマを描いていいか?」
「うん!描いて描いて!」
父親は、クレヨンを手に取った。真剣な顔で、ゆっくりと描いていく。小さな女の子。ふわふわの髪。大きな目。満面の笑顔。
「できた」
「わあ!」
エマの目が、輝いた。
「エマだ!かわいい!」
「だろう?エマは可愛いからな」
「パパ、絵、上手だね」
「そうか?エマに褒められると嬉しいな」
父親は、エマの頭を撫でた。大きな手。温かい手。エマは父親に抱きついた。
「パパ大好き!」
「パパもエマが大好きだ」
父親は、エマを抱きしめた。優しく。強く。
「世界で一番——大好きだ」
幸せな光景だった。何気ない午後。何の変哲もない日常。でも、かけがえのない時間。
*
記憶が切り替わった。同じ部屋。でも、空気が違う。
夕日が、窓から差し込んでいる。オレンジ色の光が、部屋を染めている。父親が、ソファに座っている。膝の上には、エマ。
父親は、何かを抱えていた。テディベア。新しい、茶色いクマのぬいぐるみ。
「エマ」
「なに?」
「これ、エマにあげる」
「クマさん?」
エマの目が、輝いた。
「くれるの?」
「ああ。パパが選んだんだ」
父親は、テディベアをエマに渡した。
「エマにぴったりだと思って」
エマは、テディベアを受け取り、両腕で抱きしめた。
「ふわふわ!」
「気に入ったか?」
「うん!大好き!」
エマは、テディベアを頬に当てた。嬉しそうに笑っている。
「名前、つけていい?」
「もちろん」
「じゃあ……ポポ!」
「ポポか。いい名前だ」
父親は、笑った。でも、その目には、どこか影があった。
「エマ」
「なに?」
「パパはね……明日、遠くに行かなきゃいけないんだ」
「え……?」
エマの顔が、曇った。
「どこに行くの?」
父親は、しばらく黙っていた。そして、深く息を吸った。
「……戦争に、行くんだ」
「戦争……?」
エマは、その言葉の意味が分からないようだった。首を傾げている。
「パパ、行かないで!」
突然、エマが父親の首に抱きついた。テディベアを片手に抱えたまま。
「行かないで、パパ!」
父親は、娘を抱きしめた。その腕が、震えている。
「エマ……」
父親の声が、かすれた。
「パパは、エマとママを守るために行くんだ」
「守る……?」
「そうだ。悪い人たちから、この国を守るんだ」
父親は、エマの頭を撫でた。
「だから——」
彼は、エマの腕の中のテディベアを指差した。
「ポポが、パパの代わりにエマを守ってくれるよ」
「……ポポが?」
「ああ」
父親は、優しく微笑んだ。だが、その目には、涙が浮かんでいる。
「エマが寂しくなったら、ポポを抱きしめて」
「そうしたら、パパがいつでも一緒だから」
「……」
エマは、テディベアを見つめた。そして、ぎゅっと抱きしめた。
「それから、エマ」
父親は、エマの小さな肩に手を置いた。
「ポポはね、とても大切なものなんだ」
「大切……?」
「そう。だから、約束してほしい」
父親の声が、震えた。
「ポポを、大切にするんだよ。絶対に、壊しちゃダメだ」
「うん」
「そして——」
父親は一瞬、言葉を選ぶように沈黙した。その手が、微かに震えている。
「エマが大人になったら……二十歳になったら、ポポの中を見てもいい」
「ポポの、中……?」
エマは首を傾げた。
「そう。でも、それは大人になってからだ。約束できるかい?」
父親の声には、普段にない緊張が含まれていた。その瞳は、必死に何かを伝えようとしている。
「うん。約束する」
エマは真剣な表情で頷いた。父親がこれほど真剣な顔をしているのを見るのは初めてだった。だから、これはとても大切な約束なのだと、幼心に感じ取っていた。
「いい子だ」
父親はほっとしたように微笑み、エマを抱きしめた。
「必ず、必ず守るんだよ。パパとの、約束だからね」
「うん……」
エマは、父親の胸に顔を埋めた。テディベアを——抱きしめたまま。
*
記憶が、切り替わった。
朝。玄関の前。朝の光が差し込んでいる。父親が、軍服を着ていた。背中には、荷物。エマと母親が、見送っている。
「パパ……行かないで……」
エマが、泣きながら父親の足にしがみついた。テディベアを片手に抱えながら。
「エマ……」
父親は、しゃがみ込んだ。娘と目線を合わせる。その目には、涙が浮かんでいる。父親は、必死に笑顔を作ろうとしている。だが、顔が歪んでいる。
「大丈夫……パパは強いから……」
声が、震えている。
「必ず……必ず帰ってくるよ……」
「……本当?」
「本当だ」
父親は、エマを抱きしめた。強く、強く。まるで、この腕の中の温もりを忘れないように。
「いい子で待っててね。ポポと一緒に」
エマは、テディベアを抱きしめた。
「……うん。待ってる」
父親は、立ち上がった。母親を抱きしめる。
「すまない……」
「……無事に、帰ってきて」
母親の声も、震えていた。父親は、二人から離れた。そして、玄関のドアに手をかけた。
「パパ!」
エマが、叫んだ。父親は、立ち止まった。振り返ろうとして——。だが、できなかった。振り返れば、自分の感情が崩れてしまう。振り返れば、もう歩き出せなくなる。父親は、目を閉じた。涙が、頬を伝う。
「……愛してるよ、エマ、マリア」
小さな声で、呟いた。そして——ドアを開けて、外に出た。
「パパ!パパ!」
エマの叫び声が、背中に突き刺さる。父親は、歩き続けた。振り返らずに。前だけを見て。ドアが——閉まった。
エマは、テディベアを抱きしめていた。涙を流しながら、抱きしめていた。
「パパ……」
小さな声が、響いた。
「……待ってるね」
*
記憶が、暗転した。
どれくらいの時間が経ったのか。数週間か。数ヶ月か。記憶の中の時間は、曖昧だ。
暗い部屋。カーテンが——閉じられている。リビング。母親が、座っている。手には、一枚の紙。その顔は、真っ青だ。窓の外は、雨が降っている。
「ママ……?」
エマが、不安そうに見ている。テディベアを抱きしめながら。
「ママ……どうしたの?」
母親は、エマを見た。その目は、絶望に満ちている。
「エマ……」
母親の声が、震えた。
「パパが……」
「……パパ?」
エマは、首を傾げた。
「パパ、帰ってくるの?」
「……」
母親は、答えられなかった。ただ、涙が零れ落ちた。
「ママ……?」
エマの顔に、不安の色が広がる。
「パパが……もう、帰ってこないの……」
「え……?」
エマの目が、大きく見開かれた。
「どうして?パパは、帰ってくるって……約束したのに……」
「戦争で……パパは……」
母親の声が、途切れた。
「パパは……死んじゃったの……」
エマの視界が、真っ暗になった。頭が——割れるように痛い。
「パパ……?」
エマの声が、震える。
「パパ……死んだ……?」
テディベアを、強く抱きしめた。
「嘘……嘘だよね……?」
だが——母親は、首を横に振った。
「嘘じゃ……ないの……」
瞬間——エマの中で、何かが壊れた。
「パパ……パパ……!」
叫んだ。何度も、何度も。テディベアを抱きしめながら。頭が、痛い。胸が、苦しい。呼吸が、できない。
パパが。パパが。
もう——帰ってこない。
もう——抱きしめてもらえない。
もう——一緒に絵を描けない。
もう——「大好き」って言ってもらえない。
「パパァ……!」
エマの叫び声が、部屋に響いた。
*
ここだ。
この瞬間、エマの中で何かが壊れた。父親の死を告げられた、あの瞬間。その衝撃が、テディベアと結びついてしまった。父親は言った。
『ポポを抱きしめたら、パパがいつでも一緒』と。
だから、テディベアを抱きしめるたびに、父親を思い出す。父親を思い出すたびに「あの瞬間」が蘇る。暗い部屋。母親の泣き顔。雨の音。『パパは死んじゃったの』という言葉。頭が割れるような、あの痛み。それが、エマを苦しめている。三年間、ずっと。
*
俺は、記憶の核心に、手を伸ばした。
消すべきは何だ。父親との思い出、ではない。父親の死という事実、でもない。「二十歳の約束」でもない。消すべきは「あの瞬間」の記憶だ。
暗い部屋。雨の音。母親の泣き顔。『パパは死んじゃったの』という言葉。頭が割れるような衝撃。あの——瞬間の記憶。
父親が死んだという「事実」は、消せない。消す必要もない。エマは、父親が死んだことを知っている。時間が経って、少しずつ、受け入れてきた。でも、「あの瞬間」だけが、傷として残っている。テディベアを抱きしめるたびに、あの瞬間が蘇る。だから、苦しい。
俺がやるべきことは——「あの瞬間」の記憶を、切り離すこと。そして、時間をかけて受け入れた「父親の死」と、繋ぎ直すこと。衝撃ではなく、穏やかな理解として。
「パパは、もういない」「でも、パパは愛してくれた」
その二つが、静かに繋がるように。
俺は、忘却術を発動した。
光が、溢れた。
*
「あの瞬間」の記憶に、手を伸ばす。暗い部屋。雨の音。母親の泣き顔。『パパは死んじゃったの』という言葉。その記憶を、慎重に、掴む。
熱い。痛みが、伝わってくる。四歳の少女が受けた、あまりにも大きな衝撃。俺は、その記憶を、切り離していく。ゆっくりと。丁寧に。
——「あの瞬間」が——遠ざかっていく。
暗い部屋が——薄れていく。
雨の音が——消えていく。
母親の泣き顔が——ぼやけていく。
代わりに——別の記憶が、浮かび上がってきた。一緒に絵を描いた——あの午後。
『パパ、見て見て!』
『上手だな』
クレヨンの匂い。画用紙に描いた、笑顔のパパ。テディベアをもらった、あの夕暮れ。
『ふわふわ!』
『気に入ったか?』
新しいぬいぐるみの手触り。「ポポ」という名前。父親に抱きしめられた、あの温もり。
『パパ大好き』
『パパもエマが大好きだ』
大きな手。温かい胸。それらの記憶が、光になって、広がっていく。そして——。
「パパは、もういない」
その事実が、静かに、繋がる。衝撃としてではなく。悲しみとして——でも、受け入れられる悲しみとして。
「パパは、もういない」
「でも——パパは、愛してくれた」
「ポポを抱きしめたら——パパがいつでも一緒」
その言葉が、痛みではなく、温もりとして響くように。光が、収束していく。
記憶の世界が、静かになった。
*
エマの記憶は変わった。
「あの瞬間」は、もう、ない。暗い部屋も、雨の音も、母親の泣き顔も、あの瞬間の記憶は、消えた。
でも、父親が死んだという事実は、残っている。時間をかけて、エマ自身が受け入れた形で。父親との幸せな思い出は——全て残っている。「二十歳の約束」も——残っている。そして——ポポを抱きしめた時。
もう、あの瞬間は蘇らない。代わりに、父親の温もりを、感じられる。『パパがいつでも一緒』という言葉を、信じられる。それが——俺にできる、精一杯のことだ。
*
記憶の世界が、白く、染まっていく。施術は終わった。俺は、現実へ戻っていく。
その刹那、白い光の向こうに、何かが浮かんだ。数字だ。
「01001——」
記憶の糸ではない。記憶世界そのものに刻まれた文字列。読み取ろうとした——瞬間、意識が浮上した。
*
目を開けた。
エマの部屋。薄暗い、あの部屋。エマは、まだ眠っている。テディベアを、抱きしめたまま。穏やかな寝顔。さっきまでの、苦しそうな表情はない。
「……」
俺は、左手を見た。輪郭が、揺らいでいる。前より、強く。代償。また、薄くなった。
俺は、左手首のリボンを見た。
さっき見た記憶を、思い出す。父と娘が、笑い合っていた。「大好き」と、言い合っていた。
……俺にも、いたのだろうか。あの父親のように、俺を愛してくれた人が。このリボンを、結んでくれた人が。分からない。思い出せない。
でも——このリボンは、温かい。それだけは、分かる。だから、きっといたのだと思う。俺を、愛してくれた人が。
「……」
俺は、エマを見た。
この子はいつか、父親の想いを受け取る。二十歳になった時、ポポの中を見る。その時、父親が残した何かを見つける。
俺には分からない。ポポの中に何があるのか。でも、あの父親の必死さは、伝わってきた。娘への愛が込められている。それだけは、確かだ。
「……レオン伍長」
ミラの声が聞こえた。
「施術は……」
「終わった」
俺は、言った。
「あとは——エマが目を覚ますのを待つだけだ」
「……ミラ」
「はい」
「施術中に、記憶の糸とは違うものが見えた」
ミラが、わずかに動きを止めた。
「糸じゃない。数字のようなものだ。記憶の世界の向こう側に——」
「……その情報は」
ミラが、口を開いた。
「——私の管轄外です」
不自然な言い方だった。ミラ自身も、今の自分の言葉に、驚いたように見えた。
「……管轄外?」
「……申し訳ありません。私にも、なぜそう言ったのか、分かりません」
ミラは、困惑した顔をしていた。
俺は、それ以上聞かなかった。
エマは、静かに眠っている。テディベアを、抱きしめたまま。その顔には、安らぎがあった。




