第13話:クマさんと約束
その日の朝——少女が、泣いていた。
小さな身体を丸めて——何かを抱きしめている。
古びたテディベア。
茶色い毛並み。
片目のボタンが、取れかかっている。
「っ……痛い……」
額に汗が浮かんでいる。
唇を、噛みしめている。
それでも——テディベアを、離さない。
「痛いよぉ……」
涙が、頬を伝う。
小さな指が、テディベアの背中を掴んでいる。
爪が、白くなるほど——強く。
やがて——少女の身体から、力が抜けた。
荒い息。汗で濡れた髪が、額に張り付いている。
少女は——テディベアを見つめた。涙で濡れた目で。
「……ごめんね、ポポ」
小さな声で、呟いた。
「痛いの……ポポのせいじゃ、ないの」
テディベアは、何も答えない。
片目のボタンが——少女を見つめているだけ。
少女は、テディベアを胸に抱いた。
そっと。痛みが来ない程度に——そっと。
「パパが……くれたんだもん」
「だから……離せないの」
窓の外では、鳥が鳴いている。
でも、少女の部屋のカーテンは——閉じられたままだった。
*
「依頼者は、マリア・ライトウッド」
ミラが、資料を読み上げた。
「娘のエマさん、七歳。施術を希望しています」
七歳。まだ——幼い。
「三年前の戦争で、父親を亡くしました」
「形見のテディベアに触れると——激しい頭痛を起こすそうです」
形見。
俺は、左手首の青いリボンに触れた。
誰が結んでくれたのか——思い出せない。
「分かった。準備をしてくれ」
「了解しました」
ミラは、頷いた。
*
エマの家は、街の南側にあった。
小さな二階建て。
庭には花が植えられているが——雑草が伸びている。
ミラがドアをノックしてしばらくすると、ドアが開いた。
女性が——立っていた。
目の下に、深い隈。
髪は乱れている。
服には——皺が寄っている。
「……お待ちして、おりました」
声が、掠れている。
「忘却術師の……方ですね」
「レオンです。こちらは補佐のミラ」
「マリアと……申します」
女性は、頭を下げた。
「どうぞ……中へ」
*
リビングに通された。
壁には——家族の写真が飾られている。
軍服の男性。
幼い女の子を抱いて——笑っている。
隣に、若い頃のマリア。
三人とも——幸せそうに笑っている。
「夫です」
マリアが、写真を見つめた。
「……優しい人でした」
「……」
「三年前に……徴兵されて」
マリアの声が、震えた。
「それから……帰ってこなかったんです」
「……エマさんは?」
「二階に……」
マリアは、目を伏せた。
「毎日……あの子の泣き声が聞こえるんです」
「……」
「人形を……取り上げようとしたこともありました」
マリアの手が、震えた。
「でも、あの子……『やだ』って……『パパがいなくなる』って……」
涙が、頬を伝った。
「どうしたらいいか……分からなくて……」
マリアは、顔を覆った。
「私は……母親なのに……」
「……会わせてください」
俺は、静かに言った。
「エマさんに」
マリアは、顔を上げた。
涙で濡れた目。
「……お願い、します」
絞り出すような声だった。
「あの子を……助けて、ください」
*
二階に上がった。
廊下の奥に、小さなドアがある。
ドアには——シールが貼られている。
星。花。ウサギ。
でも——端が剥がれかけている。
マリアがドアをノックした。
「エマ……お客様よ」
返事は、ない。
俺は、小さく頷いた。
ドアが、開いた。
部屋の中は——薄暗かった。
カーテンが閉じられている。
目が慣れてきて——部屋の様子が見えた。
小さなベッド。古い机。
床には——おもちゃが散らばっている。
でも、どれも埃を被っている。
壁には——絵が貼られていた。
クレヨンで描かれた絵。
大きな人と、小さな人と、茶色いクマ。
そして——ベッドの上に、小さな影が、あった。
少女が——何かを抱きしめている。
テディベアを——胸に抱いている。
「エマ……この方が、あなたを助けてくれる方よ」
マリアが、言った。
少女——エマは、ゆっくりと顔を上げた。
目の下に、隈がある。
唇が、乾いている。
頬が——少し痩けている。
でも——目は、まっすぐだった。
俺を——見ている。警戒するように。
「……」
エマは、何も言わない。
テディベアを——抱きしめたまま。
「マリアさん」
俺は、振り返った。
「少し、二人にしてもらえますか」
マリアは、不安そうな顔をした。
でも——小さく頷いた。
ドアが、閉まった。
*
俺は——エマの前に、しゃがみ込んだ。
目線を、合わせる。
「俺は、レオン」
「……」
「君を助けに来た」
エマは、俺を見つめた。何も言わない。
「……そのクマさん、大切なんだね」
エマの腕に、力が入った。
テディベアを——庇うように。
「……取らないよ」
俺は、言った。
「取らない」
「……」
エマは、俺を見ている。
まだ——信じていない目。
「名前は?」
「……」
「クマさんの、名前」
エマは——少し、驚いた顔をした。
「……ポポ」
小さな声。
「パパが……つけたの」
「ポポか。いい名前だ」
「……」
「ポポは、どこから来たの?」
「……分かんない」
「そうか」
俺は、テディベアを見た。
古びた毛並み。
でも——大切にされてきたのが分かる。
擦り切れた部分。縫い直された跡。
「ポポ、長い間エマと一緒にいるんだね」
エマは——小さく、頷いた。
「ずっと……一緒」
「そうか」
「……パパがね」
エマが、口を開いた。
「お出かけする時……ポポをくれたの」
「……」
「『エマが寂しくなったら、ポポを抱きしめて』って」
エマの目に、涙が滲んだ。
「『そしたら、パパがいつでも一緒だよ』って……」
「……」
「だから……」
エマは、テディベアを見つめた。
「ポポがいないと……パパ、いなくなっちゃう」
小さな手が、震えている。
「でも……」
声が、詰まった。
「抱きしめると……痛いの」
「……」
「頭が……すごく痛くなって……」
エマの目から、涙がこぼれた。
「パパがいなくなった時のこと……思い出しちゃって……」
俺は——黙って、聞いていた。
「ママが泣いてた」
エマは、小さな声で言った。
「紙を持って……すごく泣いてた」
「……」
「エマ、分かんなかった」
涙が、頬を伝う。
「でも、ママがすごく泣いてて……」
「エマも……泣いたの」
小さな身体が、震えた。
「それから……ポポを抱きしめると、痛くなった」
エマは、テディベアを見つめた。
「でも……離せない」
「離したら……パパ、どっか行っちゃう」
涙が、ぽたぽたと落ちた。テディベアの頭に。
「痛いの……やだ」
「でも……パパいなくなるのも、やだ」
エマは——泣いていた。
*
「エマ」
俺は、静かに言った。
エマは、顔を上げた。涙で濡れた目が——俺を見た。
「俺は——記憶を扱う仕事をしている」
「きおく……?」
「ああ。思い出のことだ」
「……」
「痛い思い出を、楽にすることができる」
エマの目が——少し、揺れた。
「パパとの思い出は、消さない」
「パパと遊んだこと。パパに抱っこしてもらったこと。パパが笑ってたこと」
「全部——残る」
「……」
「ただ——痛みの原因になっている、ほんの一部だけ」
「それを、取り除く」
エマは、俺を見つめた。じっと——見つめた。
「……ほんの一部?」
「ああ」
「パパのこと……忘れない?」
「忘れない」
俺は——エマの目を、まっすぐ見た。
「ポポを抱きしめても、痛くなくなる」
「パパのこと、思い出せるようになる」
「痛みなしで——思い出せる」
エマは——テディベアを見つめた。
長い間——見つめていた。
「……ほんとに?」
「ああ。約束する」
「……」
エマは——俺を見た。
そして——テディベアを見た。
小さな手が——テディベアを、ぎゅっと抱きしめた。
「っ——」
顔が、歪む。痛みが——来ている。
でも——エマは、離さなかった。
数秒——耐えた。そして——力を緩めた。
荒い息。額に、汗。
「……お兄ちゃん」
エマは、俺を見た。
「ん?」
「パパのこと……忘れないって、約束する?」
「ああ。約束する」
「……」
エマは、テディベアを見つめた。
「ポポ」
小さな声で、話しかけた。
「お兄ちゃんに……お願いしていい?」
テディベアは——何も答えない。
片目のボタンが——エマを見つめているだけ。
エマは——小さく、頷いた。
まるで——テディベアから、許可をもらったように。
「お兄ちゃん」
エマは、俺を見た。
その目には——決意があった。
「お願い」
「痛いの……もう、やだから」
「でも……パパのこと、忘れないようにして」
「ああ」
俺は、頷いた。
「任せてくれ」
エマの口元が——少しだけ、緩んだ。
小さな——でも確かな、笑顔。
*
マリアを呼んだ。
「施術を行います」
そう、俺は言った。
マリアがエマを見ると、エマは——小さく、頷いた。
マリアの目に、涙が浮かんだ。
「エマ……」
「ママ」
エマは、言った。
「エマ、頑張るから」
「だから……泣かないで」
マリアは——エマを抱きしめた。
何も言わず——ただ、抱きしめた。
*
施術の準備を整えた。
エマは、ベッドに横たわっている。
テディベアを——胸に抱いたまま。
「怖くないよ」
俺は、言った。
「眠っている間に、終わるから」
「……うん」
エマは、小さく頷いた。
そして——テディベアを見た。
「ポポ」
小さな声で、言った。
「一緒に……行こうね」
俺は——左手をかざした。
「始めるぞ」
光が——広がった。
エマの意識が——沈んでいく。
テディベアを——抱きしめたまま。
俺は——エマの記憶の世界へ、入っていく。




