第12話:街の温もり
施設の一室。朝の光が、窓から差し込んでいる。
ミラは、椅子に座って資料を整理していた。いつもなら、レオンがいる。でも今日は、カイ大佐との会議で、朝から不在だった。
*
一時間後。
ドアが開き、レオンが入ってきた。
「ミラ」
「はい、レオン伍長」
ミラは、立ち上がった。
「頼みたいことがある」
レオンは、封筒を取り出した。
「この書類を、街の役所に届けてほしい」
「役所……ですか」
「ああ。依頼人の記録を正式に登録する必要がある」
レオンは、封筒をミラに渡した。
「俺は、午後もカイ大佐との打ち合わせが続く」
「……分かりました」
ミラは、封筒を受け取った。
「一人で、大丈夫か」
レオンが、聞いた。
「はい。地図情報は把握しています」
「そうか」
レオンは、少し考えた。
「役所の周辺は、古い街区だ」
「地図データベースに載っていない近道もある」
レオンは、微笑んだ。
「もし迷ったら、人に聞くといい」
「……人に、ですか」
「ああ。地元の人は、地図にない道を知っている」
レオンの目が、優しかった。
「この街の人は、親切だから」
「……分かりました」
ミラは、頷いた。
「じゃあ、頼む」
「はい」
*
施設を出た。朝の街が、目の前に広がっている。
いつもはレオンと一緒だった。でも、今日は一人。視界が、広い。音が、近い。一人で歩くと、全てが違って感じる。
ミラは、歩き出した。
*
石畳の通りを、歩く。朝の街は、穏やかだった。店が開き始めている。
パン屋から、香ばしい匂い。
花屋の前には、色とりどりの花。
人々が、挨拶を交わしている。
ミラは、ふと立ち止まった。
街灯が並んでいる。等間隔に。石畳の一枚一枚が、同じ大きさだった。誤差が、ない。建物の窓。左右対称に配置されている。隣の建物も。その隣も。ミラの中で、何かが引っかかった。
地図データベースと、照合する。建物の配置間隔、正確に同じ。戦後三年の復興で、ここまで均一に再建できるものだろうか。視界の隅で、建物の壁面が、ちらついた気がした。
「……」
光の加減だろう。ミラは歩き出した。
道の脇に、小さな慰霊碑があった。花が、供えられている。新しい花。
戦争。レオン伍長が、経験したもの。でも今は、人々は笑っている。
*
角を曲がろうとした、その時。
「わっ!」
小さな体が、ミラにぶつかった。
目の前に、小さな男の子。五歳くらいだろうか。尻餅をついて、座り込んでいる。手に持っていた風船が、空に舞い上がっていく。
「あ……風船……」
男の子の目から、涙が溢れた。
「うえぇ……風船……」
声が、大きくなる。道行く人が、振り返る。ミラはどうすればいいか、分からなかった。泣いている。どうすれば泣き止むのだろう。レオン伍長なら、どうするだろうか。
ミラは、男の子の前にしゃがんだ。目線を、合わせる。
「風船——取ります」
「……え?」
男の子が、顔を上げた。
ミラは、立ち上がり、風船を見上げる。赤い風船。近くの街灯の飾りに引っかかっている。街灯に手を伸ばす。背伸びをする。指先が、風船の紐に、届いた。
「……取れました」
ミラは、風船を男の子に渡した。
「あ……」
男の子は、風船を受け取った。涙を拭って——。
「ごめんなさい! ありがとう、おねえちゃん!」
満面の笑みで、そう言った。
「……いえ」
ミラは、首を横に振った。
「こちらこそ、ぶつかって、ごめんなさい」
「おねえちゃん、すごい!」
男の子は、嬉しそうに風船を握りしめた。
「ありがとう!」
そう言って、駆けていった。
ミラは、その背中を見送った。さっきまで、泣いていた。でも、今は笑っている。風船を取っただけ。それだけで——笑顔になった。胸の奥が、ふわりとした。
*
役所への道。
ミラは、地図情報を確認しながら歩いていた。しかし——。
「……?」
目の前の通りが、工事中だった。
「戦災復興工事中 迂回をお願いします」
看板が、立っている。
ミラは、地図情報を確認した。複数の迂回ルートが、表示される。しかし、どれも大幅に遠回りになる。
人に、聞く。知らない人に、話しかける。
「……」
レオン伍長の言葉を、思い出す。
『もし迷ったら——人に聞くといい』
『この街の人は、親切だから』
ミラは、周囲を見回した。
近くに、パン屋があった。店の前で、おばさんが店先を掃除している。丸い体型。エプロン姿。鼻歌を歌いながら、箒を動かしている。
「……」
ミラは、少し迷った。知らない人に、話しかける。それは——でも。ミラは、おばさんの元へ歩いていった。
「あの——」
「はい?」
おばさんが、振り返った。丸い顔に、柔らかい笑み。
「あら、お嬢さん。どうしたの?」
「役所への道を、教えていただけますか」
「役所? ああ、この道が工事中だからね」
おばさんは、箒を壁に立てかけた。
「大通りを迂回すると、随分遠回りになるわよね」
「はい……」
「そうだ。裏の路地を通るといいわ」
おばさんは、店の脇の細い路地を指差した。
「あの路地をまっすぐ行って、教会の前を右に曲がるの。すぐに役所の裏に出るわよ」
「……ありがとうございます」
「いいのよ」
おばさんは、ミラの肩をぽんぽんと叩いた。
「綺麗なお嬢さんね。どこかのお使い?」
「はい。忘却術師の補佐をしています」
「まあ! 忘却術師の!」
おばさんの目が、輝いた。
「あの方たちには、本当に感謝してるのよ」
おばさんは、店の中を見た。奥で、若い男性がパンを焼いている。真剣な顔で、生地をこねている。
「うちの息子もね、忘却術師の方にお世話になったの。昔は、サッカー選手を目指してたんだけど、戦争で怪我をして。夢を諦めなきゃいけなくなったの」
おばさんは、微笑んだ。
「でも、忘却術師の方のおかげで、サッカー以外の世界が見えるようになって」
「今は、パン職人として頑張ってるのよ」
ミラは、奥の息子を見た。生地をこねる手つき。真剣な。でも、楽しそうな表情。
新しい道。失ったものの代わりに見つけたもの。私には、そういうものが、あるだろうか。レオン伍長の補佐。それが、私の道なのだろうか。
おばさんは、ミラの手を握った。
「だから——あなたも、大変なお仕事だと思うけど、応援してるわ」
「ありがとう、ございます」
ミラは、深く頭を下げた。
「いいのよ。さあ、行ってらっしゃい」
おばさんは、手を振った。
ミラは、教えられた路地へ歩き出した。
*
細い路地を、抜ける。古い石造りの建物が、並んでいる。確かに、地図データベースには、ない道だ。でも、確かに近道だった。
路地の奥に、小さな教会が見えた。白い壁。尖った屋根。鐘楼から、鐘の音が響いてくる。正午を告げる、鐘。この音を、レオン伍長も、聞いているだろうか。
ミラは、教会の前を右に曲がった。開けた通りに出ると、役所の裏口が、見えてきた。
*
役所に着いた。受付の女性に、封筒を渡す。
「忘却術師レオンの補佐、ミラです」
「ああ、お待ちしていました」
女性は、封筒を受け取った。三十代くらい。眼鏡をかけている。封筒を開けて、書類を確認し始めた。しばらくして——。
「書類に不備がありますね」
女性が、眉をひそめた。
「ここに、日付が抜けています」
ミラは、書類を見た。確かに、日付欄が空白だった。レオン伍長に確認すべきだろうか。でも、会議中だ。連絡を取ると、迷惑をかけてしまう。
ミラは、考えた。日付は、今日の日付で問題ないはず。届け出の日付。間違いない。
「……私が、記入してもよろしいでしょうか」
ミラは、言った。
「補佐として、責任を持ちます」
女性は、少し驚いた顔をした。
「……分かりました。では、お願いします」
ミラは、日付を記入した。
「確認できました」
女性は、微笑んだ。
「ありがとうございます」
「失礼します」
ミラは、役所を出た。
*
帰り道。
ミラは、来た道を戻ることにした。あの路地を、もう一度通ろう。
細い路地を、抜ける。教会の鐘が、また鳴った。一時を告げる、鐘。
路地を出ると、パン屋が見えた。店の前に、さっきの息子さんがいた。焼きたてのパンを籠に入れて、店先に並べている。真剣な顔。でも、どこか誇らしげな。
「あら」
おばさんが、ミラに気づいた。
「もう帰り? 早かったわね」
「はい。教えていただいた道のおかげです」
「そう、良かったわ」
おばさんは、微笑んだ。
息子さんが、顔を上げた。ミラを見て、少し驚いた顔をした。そして、小さく会釈した。ミラも、小さく会釈を返した。
息子さんは、笑顔で働いている。新しい道を歩いている。さっき聞いた話が、目の前にある。
ミラは、少しだけ目を細めた。こういうのを——「嬉しい」と言うのだろうか。
「気をつけて帰るのよ」
おばさんが、手を振った。
「はい。ありがとうございました」
ミラは、頭を下げた。そして、歩き出した。
*
施設への道を、歩く。
風船を取った。
道を聞いた。
会釈を返してもらった。
みんな——温かかった。
ミラは、空を見上げた。青い空。穏やかな、空。レオン伍長が、いつも救おうとしている人たち。こんなにも、温かい。だからレオン伍長は、救いたいのかもしれない。
ミラは、歩き出した。施設へ、戻ろう。
*
施設に戻ると、レオン伍長がいた。
「おかえり」
「ただいま戻りました、レオン伍長」
「無事に届いたか」
「はい。役所で確認していただきました」
「そうか。ご苦労様」
レオンは、微笑んだ。
「何かあったか」
「……はい」
ミラは、少し考えた。
「色々、ありました」
「……色々?」
「風船を取りました。道を聞きました。会釈を返してもらいました」
レオンは、少し笑った。
「何だ、それは」
「……私にも、よく分かりません」
ミラは、胸に手を当てた。
「でも……嬉しかったです」
「そうか」
レオンは、頷いた。
「あと——」
ミラは、続けた。
「書類に、日付の記入漏れがありました」
「……すまない。俺のミスだ」
「いえ。私が——記入しました」
「……お前が?」
「はい。補佐として、判断しました」
レオンは、ミラを見つめた。少し、驚いた顔。
「……そうか」
レオンは、微笑んだ。
「よくやった」
「成長してるな、ミラ」
レオンは、静かに言った。ミラは——微笑んだ。自然に、微笑んだ。
「……ありがとう、ございます」
小さく、答えた。
*
その夜。ミラは、窓の外を見ていた。
月が、出ていた。街の灯りが、遠くに見える。あの街に、あの人たちがいる。
風船の男の子は、もう眠っているだろうか。
おばさんは、明日も店を開けるだろう。
息子さんは、またパンを焼くだろう。
「……私も」
ミラは、呟いた。
「明日も——歩こう」
窓の外、月が、静かに輝いていた。




