プロローグ:忘却術師
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【レオン視点】
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「すみません」
カフェのカウンターで、声をかけた。店員が、グラスを磨いている。俺の声は、届いていないようだった。
「すみません」
もう一度。少し、声を大きくした。
店員は顔を上げた。俺を見た。一瞬、不思議そうな顔をした。まるで、今そこに人が現れたかのような。
「ああ……すみません、気づかなくて」
「コーヒーを、二つ」
「はい、少々お待ちを」
店員はカップを用意しながら、首を傾げていた。
「……お客さん、さっきからいらっしゃいました?」
「ええ」
「すみません。ぼんやりしてて」
違う。店員の目は、ぼんやりしていない。
俺は、カップを受け取って席に着いた。窓際の、隅の席。もう一つのカップを、向かいに置いた。
コーヒーに手を伸ばして、止まった。
指先が、揺らいでいる。輪郭が、わずかにぼやける。見つめていると、戻った。
代償だ。
俺は、忘却術師。人の記憶に入り、苦痛を取り除く。戦争で傷ついた人々の、痛みの記憶を切り離す。
その代わりに、俺の存在は薄れていく。人を救うたびに、少しずつ。人々から認識されにくくなり、やがて忘れられる。さっきの店員のように。俺がそこにいるのに、気づかない人が増えていく。
いつか、誰からも見えなくなる。そして、消える。それが、忘却術師の運命だと聞いた。
左手首を、見た。
青いリボンが、巻かれている。色褪せた布。ほつれた端。でも、確かにここにある。いつから身につけているのか、思い出せない。誰が結んでくれたのかも。
外そうとすると、胸が痛む。何かを裏切るような、取り返しのつかないことをするような。そんな気がして、外せない。
触れると、温かい。いつも、温かい。誰かの想いが、宿っている気がする。
……誰の、だろう。
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「レオン伍長」
声がした。顔を上げると、銀髪の女性が立っていた。
ミラ。俺の補佐だ。
青い瞳が、俺を真っ直ぐに見ている。
表情は乏しい。だが、確かに俺を見ている。
この子は、いつも俺を見つけてくれる。存在が薄くなっていく俺を、見失わない。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。座れ」
向かいの席を示すと、ミラは小さく頭を下げて腰を下ろした。コーヒーのカップに、目を向ける。
「お前の分だ」
「……ありがとうございます」
表情は変わらない。でも、受け取る手は丁寧だった。
*
「本日の依頼です」
ミラが、資料を読み上げる。
「依頼人は、エリカ・ハートフィールド。二十三歳。保育士です」
「保育士か」
「戦争で、幼馴染を亡くしました」
「……」
「その幼馴染の最後の言葉が『ありがとう』だったそうです」
コーヒーを置いた。
「以来、『ありがとう』という言葉を聞くと、フラッシュバックを起こします」
ありがとう。
人が最も多く口にする言葉。感謝の言葉。温かい言葉。それが彼女にとっては、苦しみの引き金になっている。保育士なら、毎日聞くだろう。子供たちから。保護者から。同僚から。
逃げ場が、ない。
「……八ヶ月、苦しんでいるそうです」
「そうか」
残りのコーヒーを、飲み干した。苦い。だが、温かい。
「行こう」
俺は立ち上がった。
*
南部の静かな通り。古いアパートの二階。扉の前で、立ち止まった。ミラが、隣に立っている。
「レオン伍長」
「ん?」
「あなたなら、できます」
俺は、ミラを見た。青い瞳。静かな目。表情は乏しい。でも、その目には何かがあった。信頼、だろうか。
「……ああ」
俺は、頷いた。
左手首のリボンに触れた。温かい。いつも通り、温かい。
大丈夫だ。
俺は、扉をノックした。




