■第8話「一人、書けない」──前編 ──副題:こんな文字、誰のために
【11月上旬・放課後/書道部室】
その日、琴音は部室の隅でずっと筆を止めていた。
「……部長、また筆が止まってますね」
つばさが心配そうに声をかけると、琴音は小さくかぶりを振る。
「止まってるんじゃありません。……書けないんです」
「スランプ、ですか?」
「……そうかもしれませんね」
紅葉が笑いながら言う。
「部長にもそんなことあるんだー。てっきり“墨と結婚してる”人かと」
「紅葉さん……」
「冗談だって! でも、なーんか最近の琴音さんの字、硬いっていうか、“らしくない”よね」
琴音は、それには何も答えずに立ち上がった。
「……すみません。今日は先に帰ります」
【帰り道/夕暮れの坂道】
(見透かされた……)
琴音は自分の手を見る。
指先には墨の痕がついているのに、筆が、何も語ってくれなかった。
(“書ける”と“伝わる”は、違う)
(どんなに整った線を書いても、誰かの心に届くとは限らない)
部長として、ずっと“部をまとめる字”を書いてきた。
けれど――
(“自分のために書いた文字”が、ここ最近、ひとつもなかった)
【翌日の部室/沙耶視点】
「……最近の琴音さん、ちょっと元気がない」
沙耶はそっと筆を握り、こっそり“詩”を書き始める。
誰にも見せない。誰にも読まれない。
でも、それでもいいと思った。
(誰かに届くことが前提じゃなくても、誰かを思って書くことは、意味がある)
──その夜、沙耶は部室の引き出しに、小さく折った半紙を一枚、そっと差し込んだ。
宛名はない。ただ、そこには一編の詩が綴られていた。
あなたが書けなくても
私はあなたを覚えている
あなたの字を
あなたの間を
あなたの沈黙を
だから大丈夫
書かなくても、ここにいる
(中編につづく)