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ファント

 東に留まる青い太陽、今朝は少し肌寒い。出来立てのゆで卵がくしゃみをする。

 沸かしたお湯でインスタントコーヒーを淹れていると、私の膝にペットのセイウチが駆け寄って来る。このセイウチは名前をファントといい、ファントにはこの家に家具がない時期にとてもお世話になった。ファントはときに食卓、ときに肉切り包丁、ちょっとした冷蔵庫やベル付きのトースターなんかになってもらったこともある。ファントは本当に賢くて可愛くて、心の穏やかな最高のペットだ。さて、一緒にコーヒーを飲もう。ファントはミルクも砂糖も要らないんだったな。

 それじゃあファント、行ってくるよ。玄関を後に、ファントの野太い返事。空は暗いが東の厚い雲の裏に青い太陽が隠れているのが透けて分かる。あの様子では今日は夜まであの場所を動くことはなさそうだった。感覚を狂わせないために時計は欠かせない。コンクリートの崖から伸びた鉄骨から向かいの鉄骨へと跳んで移る。この動きも私の歳ではそろそろ限界が来るだろう。いずれ自分でなんとかしなければいけない。道の端の膨らんだ雑草が寄せて来た海水をかぶる。潮の香りの泡が溶けたところから細やかに蟹が霧散し、外の青い光から逃げるようにして雑草の奥へ潜っていく。上昇する海面はミルクココアの色だった。しぶきを上げて単体のスクリューが遠く海の上を横断している。それを追いかける水兵たちの手漕ぎ船。それを歩きながら眺めていたら、貨物トラックが私のすれすれを横切る。脛くらいまで伸びたねこじゃらしが数本抜けてズボンの生地に引っ付いたままはずれない。特段はずそうとも思わなかったが。

 遠いコンビニを選んだ訳じゃない。ここには遠いコンビニしかないのだ。冷凍食品を買い込む。私もファントもお世話になっている。帰りの方向からは空に太陽が見えない。そうか、私の家からコンビニは東の方角だったんだな。そんな方角なんて考えたこともなかった。相変わらず海面はミルクココアの色をしている。あれは時間帯のせいなのかと思っていたが別にそうではないらしい。1時間は歩いて来た。太陽は東に留まったまま青い光を放っている。そうやって背後を向いていたらまた別の貨物トラックがすれすれを横切る。こんなことで死ぬことを連想したくはない。私も歳なんだ。

 コンビニから40分ほどの地点、浜に一匹のセイウチが黄昏れている。

 ……ファントか? あのセイウチの背中は埃のたまった本棚のようだった。そんなセイウチは私のファントしかいないし、この辺には私のファントしかセイウチはいない。ファント、出てきちゃダメだって言ったじゃないか。私は声を出して駆け寄る。

「ファントー! ファントー! ダメじゃないかー!」

 砂浜に響くファントの野太い返事。ファントの方も私に駆け寄る。そして衝突。体重差によって私はファントの下敷きになっていた。

「ファント、ファント。勝手に外出たらダメだろ? よしよし。」

 ファントの小さな謝罪。ファントのヒゲが弾いたハープみたいに震えている。

「いいんだ。さあ、帰ろう。ファントのために今川焼をたくさん買ったんだ。」

 帰って食べよう。ファントを横にどかせて起き上がり、するとファントは自分の背中を向けてくる。これは乗って行けという合図だった。ファントの背中は埃のたまった本棚みたい。だから決して乗り心地は良くないが、ファントは私の最高のペットだった。一緒に居られさえすれば何時間かかったって構わない。ファントが這って砂浜に跡が残る。その跡を波が整えてくれる。東の空から西の地平線へ壮大な弧を描いた太陽が唐突に沈んで、私たちが家に着いたのは夜遅くのことだった。なんだか二人そろってくしゃみをしていた。

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