5輪①
夕暮れ時、薄暗くなった高校の廊下を早足で駆け抜けて、和音と心春は生徒会室へ向かっていた。
「もうちょっと早くならないんですか、橋留さんっ」
「だ、だってえ……」
「橋留さんが言うから二人で行くって話になったんですよ。これで、もし間に合わなかったら——」
「そっ、それはいやあ……!!」
その足の遅さに心春が発破をかけると、残りの力を絞り出そうとしては、すぐに再び失速する和音。二人はそれを繰り返しながら、その日の活動がまだ続いていることを祈って、部屋の前までやってきた。
幸い、電気はまだ点いているようだった。先駆けて呼吸を整えた心春は、傍らで息を切らしたままの和音を待たずに扉を開けていった。
「あら、五人揃ったのね?」
「ありがとうございます。おかげさまで」
「よかった、こっちへ来て。すぐチェックするから」
中には、生徒会長の葉月が一人。誰が入室してきたか気づくや否や笑みを浮かべ、ほっと一息ついた様子で椅子から立ち上がった。届出を確認し、スムーズに手続きを進めていく葉月だったが、その中にあった若菜の名前を目にすると、ふと手を止めて心春のほうへ顔を向けた。
しかし、口から出てきたはずの問いかけは、遅れて入ってきた和音のほうに注意を逸らされてかき消えてしまった。息も絶え絶えといった有様の和音は、事情を把握し切れていない葉月を困惑させた。
「はあ、はー……間に合ったのかな……」
「だ、大丈夫? 今確認してるけど、設立届なら」
「すっ、すみません……お礼を言いたいと、思いまして……」
何とか答える和音に、そういうことかと葉月は思わず吹き出し、また顔を綻ばせる。
「ふふっ。別に良かったのに、来てくれるとしても明日とかで」
葉月が一安心して手続きの確認を再開すると、今度は心春が茶々を入れた。
「そうです。わざわざ今日来なくてもいいじゃないですか、そんなに疲れてまで」
それが聞き流せない発言だったのか、流石の和音も少しむっとした表情で言外に不満を示した。だが心春はそれに目をくれず、静かに手続きが終わるのを待っていた。
やがて葉月が顔を上げ、労いの言葉をかけるが、二人の喜びはどこかぎこちないものだった。いよいよそれを疑問に感じたのか、葉月は二人を引き止めて話を聞こうとした。
「上手くやっていければいいけど——橋留さん、どうしてそんなにお疲れなの?」
「上手く……本当ですね……し、初日からこんなに参るとは……」
「勧誘? それともミニコンサート?」
「ど、どちらでもなくて……」
尚もその苦労を引きずる和音は、入学して以来最も大きな溜息をついたのだった。
その溜息から二十分程前。若菜が同好会に加わりたいと口にした、その意志が確かなものだと分かるに連れ、第二音楽室は徐々に沸き立っていた。しかしその熱気を感じながらも、一人冷静さを失っていなかったのが心春だった。
「皆さん、合唱同好会が結成できるのは嬉しいですが、先にまず届出を済ませないと」
その一声で現実に引き戻された和音たちは、一斉に心春へと注意を向ける。その心春は、鞄から届出用紙とボールペンを出し、すぐ側にいた和音に手渡した。
「えーと、名前……あっそういえば、私これもう書いてるんだったっ」
「あ、ああ。そうでしたね」
二人が揃って俄に事を急ぎ始めた中、既に記名されていた用紙は、和音から菫へ、菫から紗耶香へと受け渡されていく。だが、紗耶香は記名欄を見るなり、心春に鋭い目を見せた。
「……順に名前を書いていっているけど、これ、貴方が同好会の会長になるんじゃ」
紗耶香が用紙を全員に見せて指差した先、園内心春と書かれたすぐ左隣には、そこが会長の名前を記述する場所であるとはっきり示されていた。それを指摘された心春は、苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、すぐに元の表情に戻り、言い返した。
「なんでしょう。何か問題が?」
「……断りもなく最初から決まっているのはおかしいわ。第一、リーダーは普通上級生がやるものよ」
「肩書きなんてそんなに大事なものでもないです。さあ、急がないと、時間ももうないですから」
「……それとこれとは話が別だわ。それに、立場が大切じゃないとしたら、拘る理由だってないはずでしょう」
「む、むう、そこまで言いますか——でしたら、この中に会長をやりたい方は」
紗耶香の視線に威圧感を覚えた様子の心春は、仕方なく周りを見渡した。しんと静かになった五人の中で、真っ先に口を開いたのは若菜だった。
「一応……私は遠慮させてもらいたいなと。合唱やりたいって言っても、全然経験者とかではないので……」
「ふむ」
二度、三度と頷いた心春が、次に様子を窺ったのは和音だった。どうなんですか、と物言わずとも訴えてくるのが分かった和音は、驚き慌てた。
「わ、私!? まあ、か、会長とか、リーダーとか……向いてるほうではないと思うけど」
「それなら仕方ないですね」
そうして二人の意思を確認した心春は、再び紗耶香を見据えた。
「お聞きしますが、そこまで譲らない先輩はどうなんですか」
「……別に私で良いとは言ってない。ただ、リーダーは全員合意の下で決めるべきだし、一番相応しい人がリーダーであるべきだと言ってるの」
互いに一歩も引かず、あわやこれ以上は威圧的な言葉を持ち出しかねない雰囲気を漂わせる心春と紗耶香。その間で、一人顎に手を当てて考え込んでいた菫は、納得いく答えが見つかったという風の笑顔を見せた。
「いいんじゃないかしら。こはるちゃんが、合唱同好会の会長でも」
「ちょ……ちょっと菫!」
思わぬ意見に戸惑う紗耶香。だが、当の菫は全く動じずに続けた。
「だって、私たちも柄じゃないでしょ? リーダーなんて。自分から同好会を引っ張る意気込みで私たちを集めてくれたんだもの、少なくとも私たちよりはこはるちゃんがリーダーらしいと思うわあ」
「……それは、そうかもしれないけど」
萎らしく返答する紗耶香を見つめた後、菫は心春に近寄っていく。
「それに、いざという時はみんなで支え合うものだし。ね、こはるちゃん——」
「騙されませんからね、そうやってスキンシップを狙ってきても」
「そ、そんなあ……そんなに冷たくしなくても……」
二人のやり取りを横目に、紗耶香も反論を取り下げるのだった。
「……しかたない。菫の意見はもっともだし、それで良いわ。園内さんが会長で、橋留さんが副会長よ」
そうして一件落着、と思いきや、紗耶香が渋々口にした途端、今度は驚いた様子の素頓狂な声が上がった。
「——ええっ!? 私が副会長なんですか……!?」
その声を出した張本人である和音は、またもや慌てふためいていた。
「あら。会長の欄の下に、ちゃんと書いてなかったかしら? かずねちゃん、副会長なら大丈夫って話なのかと」
心春と同じく、和音も同好会を作りたいと考えた上で行動する力があるはずだ——菫は小声で紗耶香と共に確認し合い、今度は目を丸くして顔を見合わせていた。副会長のほうに異論を唱えたメンバーは誰もおらず、結果、和音は満場一致で副会長に選出されることとなった。