3輪②
幼馴染は再び合唱にのめり込んでいっている。彼女がいない時ほど紗耶香はそのことに思いを馳せるようになっていた。同時に、「何も変わっていない自分」がいることもまた気にしていた。
吹奏楽も合唱も好きで、やりたいのは確か。そんな中途半端なままではいけないだろう、と考えれば考えるほど、紗耶香は内心で密かに自分自身の空回りを感じていた。
「――紗耶香さん、紗耶香さん」
吹奏楽部の活動中、休憩に入っていた紗耶香は名前を呼ばれた。我に返り顔を上げると、正面にいたのは葉月。覗き込むようにして立っている。
「あ……すみません」
「大丈夫?」
首を傾げる葉月には目を向けず、紗耶香は視線を逸らした。
「……私一人で、考えたいことが」
「だけど紗耶香さん、調子が良くなさそうだから」
「今日の演奏……問題あったでしょうか」
「それは大丈夫よ。でも、何かあるのよね。やっぱり」
何か、と言いながら、全てを見透かしているような眼差し。それに気づいた紗耶香は、目配せをすると部屋の外へ出ていく。自身の気持ちを考え続けて一週間が経過し、とうとう隠し切れなくなったかと観念した様子だった。
「……先輩、私気づいたんです。私には、心からやりたいと思えることがないって」
「そうなの?」
紗耶香が開口一番に語った言葉は、葉月を不思議がらせるものだった。
「始めたなら続けよう、努力しようとは思って……吹奏楽もそうでした」
「ええ。よく知ってるわ、本当に」
「それが今、別のこと……合唱同好会の話を聞いて、私が本当にやりたいことは何だったんだろうって。合唱も、吹奏楽も……両方手につく気がしない」
「それはどうしてだと思うの? 紗耶香さん」
「え……だから、合唱同好会のことを……」
葉月は紗耶香が言い終わるより早く、目を瞑り黙って首を横に振った。
「それならあの時、すぐに迷っていたんじゃないかしら。本当に、直接の理由だったら」
葉月の指摘に、紗耶香は目を見開いた。しかし、すぐには答えず、言葉を詰まらせる。そんな紗耶香へ、葉月は繰り返した。
「ねえ、紗耶香さん。合唱同好会と吹奏楽部、どちらにいようか迷い始めたのはどうしてかしらね……?」
聞かれるまでもなく、流石の紗耶香も向き合うよりなかった。自分自身の迷いより先に、頭の中にあったのが何なのか。自分のやりたいことに辿り着けていなかった紗耶香は、その答えをあえて避けようとしていたのだろう。口に手を当て、絞り出すようにその思いを漏らした。
「菫――でも私は、結局何にも一生懸命になり切れていない。このままで……行っても良いものなのかと」
「私じゃないわよ、判断するのは。それに、結果がどうあれ話はしたほうが絶対良い。紗耶香さん、あなた自身のためにも」
皆まで言う必要もないだろうと、葉月は微笑んで頷いた。
話は通しておくからと葉月に背中を押され、重い足取りで第二音楽室へと向かう紗耶香。彼女は、自分自身が菫ほど積極的に行動できないのを、再び嫌というほど痛感していた。
目的と手段が一致していれば悩むことはないのに。合唱同好会を設立しようとする彼女たちに、中途半端な思いで加わろうとする自分を紗耶香は嫌悪していた。
しかしそれでも、紗耶香の足は一歩一歩進んでいく。それが望みなのだから、と覚悟を決めて、扉の前に立つと深呼吸してから扉を開けた。
「さやかっ……」
扉を開けた人物に気づいた瞬間、菫は思わずその名を呼ぶ。驚きや、期待、様々な感情がごちゃ混ぜになっているのを押し殺し、返答を待った。
「菫……私も、吹奏楽か合唱か、今選ぶならこっちだと思った。だけど、私は菫ほど合唱に熱意がある訳でも、行動的になれる訳でもない。そんな私が、ここにいて良いのかどうか……教えてほしい」
一言一言を、慎重に口にし、歯を食い縛る紗耶香。聞いていた菫は、小さな一年生が真っ先に返事をしたがっているのを止め、紗耶香のほうにもう一度視線を向けた。
「大切なことを忘れてるんじゃないかしら、さやか? これから、あの曲を歌って見せるわっ」
菫はそう言うと一年生に耳打ちをし、それから第二音楽室の真ん中で合図をした。
その耳に届く曲。それは、紗耶香が一番好きな合唱曲。釣られて紗耶香も自然と歌い出し、菫の近くへ寄っていく。
歌い終わると、菫が紗耶香の手を取る。かつて感じていた合唱の楽しさを紗耶香がもう一度取り戻せたと、二人とも確信していた。そして菫は、紗耶香の目をじっと見て言うのだった。
「その思いに自信がなくなったなら、思い出してもらおうかなって。さやか、今はどう思ってる?」
「ありがとう。私も、一緒に合唱がしたい。これから……よろしくお願いします」
そうして頭を下げる紗耶香に、一人の小さい一年生もまた歩み寄っていく。にかっと笑う心春だった。
「一ノ瀬紗耶香先輩……ですね、話は聞いています。先輩が入ってくださるのなら、色々と助かります。よろしくお願いします」
「こはるちゃんっ、それって私が頼りないってこと!?」
「――ぎゃあっ! だからそれが嫌なんです、すぐべたべたしようとしてくるのがっ」
心春の様子を窺いながら近づき、スキンシップを取ろうとする菫。その腕を掴み、紗耶香は呆れた顔をした。
「やっぱり……そんな調子なのね……」
脱力しつつも、紗耶香は微笑んでいた。菫はそれを見て、元の調子に戻り声を弾ませた。
「そういえばさやか、覚えてないの? 元々合唱を始めたいって言ったのはさやかのほうよ」
「……そうだったかしらね」
懐かしげに思い出すその姿を眺めていた一年生たちもまた、紗耶香を笑顔で歓迎した。沸き立つ中で、和音は若菜へ嬉しそうに言うのだった。
「これで、あと一人だよっ」
「ああ。そうだな」