2輪②
上級生らしきその生徒の微笑みは、心春からすれば嫌に不敵な物として映っていた。
「どうしたの……?」
「ど、どうしたもこうしたもないです!」
何か良からぬことをしてしまったか、といった風で少し申し訳なさそうにする生徒へ、心春は立ち上がってはっきりと目を吊り上げた。入り交じる狼狽と警戒に、側の和音と若菜も固唾を呑む。
「あの―……ご用件は」
二人の仲介をするように、若菜がおそるおそる尋ねた。
「そうそう! あなたたち、合唱同好会を作るのよね?」
「はい、え―と、こっちの二人が――」
「こんなに小さくてかわいい子が、素敵だわあと思って、それでお近づきに……」
若菜を遮る勢いでなされたその反応が不躾に感じられたからか、心春の中では徐々に嫌気も差していった。
「け、結構です! そんな用件でここにいられても困ります。どこかへ行ってくださいっ」
「その……ごめんなさい。言い方が悪かったわ、ええと」
「行かないならこっちが別の場所に行きますからっ」
声を荒らげて一息に言い切る心春。しかしその上級生にも何か思惑があるようで、堪らず彼女は心春を引き止めようとした。
「待って!」
その拍子に、上級生は心春のほうへ腕を回して抱き締めていた。手ぐらいは引かれるかもしれないと覚悟していた心春も、それほどの大胆な行動に出られるとは思わず、驚きで甲高い悲鳴を上げた。
「ひゃあああっ!? 何するんです!!」
ここへ至り、流石に非常事態だと真っ先に考えたのが若菜だった。思い切り心春を引き剥がし、和音共々腕を引いて走り出す。
「先輩すみません――二人とも、一旦ここを離れよう!」
若菜の足は速く、体育会系でもなければ到底追いつけないほどだった。そんな若菜がいきなり逃げていったとなれば、その生徒も止めようがなかったらしい。彼女はその場に、一人だけ取り残されることとなった。
それからしばらくして、若菜たちが走り去っていった方から、また別の生徒がやってきて彼女を呼んだ。
「……あなたまた何かやったわね、菫。突然どこに行ったのかと思ったら」
淡々と落ち着いた推測に、菫と呼ばれた彼女は弱々しく反論した。
「何もしてない、と思う……だってあの子たちも、同じことをやってるんだもの。私たちがやりたかったこと」
「それで、どうしたの」
「頭がごちゃごちゃしてたけど、嬉しくて、せめて顔を合わせて話してみたかったのは確かで……怖がられたみたいだったから、つい無理に抱き止めようとして」
「……抱き止める? 引き止めるの間違いじゃなくて?」
「いいえ、違わない」
「……全く。何かやったって言うのよ、そういうのは」
自身の振る舞いが悪かったことをようやくまざまざと自覚した彼女の名前は、宝条菫と言った。菫が反省し、項垂れるのを目にしながら、同学年であるもう一方の生徒・一ノ瀬紗耶香は深くため息をついた。
合唱同好会を設立しようと勧誘に励む新入生の存在を知り、菫の心はざわついていたのだった。
二年D組の教室の自分の席で、頬杖を突いて考え込むだけの時間が増えた菫。それを気にかけていた紗耶香は、昼休憩の時間になる度に彼女の様子を窺っていた。二人は元から一緒に行動することが多かったが、新学期以来、更に多くなった。紗耶香はその昼もまた、弁当を持って菫の側へ近づいた。
「菫。お昼は?」
「まだ、食べてない」
「……分かってるわ。食べないの、ってこと」
「私今日、お弁当持ってきたっけ……」
紗耶香は菫と近い席の椅子を借り、菫の机に自身の昼食を広げていく。菫も弁当を家に忘れてきたりはしていなかったようだが、ぼんやりしたまま鞄を覗く菫はやはり上の空で、様子を眺めていた紗耶香はまたため息をついた。
「……重症ね。一言で済む話でしょう、それを三日も四日も続けて」
「私たち、諦めていた側だもの。それを――まさか合唱同好会を作りたがってる子たちが、また新しく入ってくるなんて」
自分たちにできなかったことを目指している新入生への、羨みと憧れ。一年前それができず、上級生から誘いを受けて別の部に所属した自分自身への引け目。全てが菫にとっては、和音たちを眩しく見せる要因となっていた。
「……だからってあの子たちを驚かせて、あんなに追いかけてどうするのよ。むしろ勧誘の妨げだわ」
「さやかぁ、そんなストレ―トに言わないでっ」
「……というか、メンバ―が五人集まるかどうかよ。もっと大事なのは」
紗耶香が持ち出した問題は、菫にとっても耳の痛いものだった。もしあの新入生たちが同じ目を見たとしたら。そんな可能性が脳裏をかすめ、菫の手は弁当を開きかけたところで止まる。
「それは……だめっ」
押し殺したような喉声を漏らす菫。それを聞いた紗耶香は、菫の目を真っ直ぐ見つめた。
「菫は、どう思ってるの」
「私……合唱も好きだし、吹奏楽も楽しいって思ってる。吹部や、部のみんなにはお世話になってるし……あの子たちも気になるし、また合唱同好会にいられなかったらって思うと……」
「……それで、どうするの?」
「私どうしたらいいのかしら……さや姉っ」
さや姉――その呼び方をする菫は、途方に暮れていた。そして紗耶香も、そんな菫が自分自身ではどうにもならなくなっていることを理解していた。静かに、それでいてはっきりとした声で、紗耶香は菫の奥底にある意思を引き出そうと問いかけた。
「菫。そうじゃないわ。どうしたいか、よ」
「私の、やりたいこと――」
好きなものに真っ直ぐになる時の勢いは、菫の確かな長所。紗耶香はそう伝えて、菫の思いを後押しした。
「……大丈夫よ。吹部のみんなも事情は知ってるんだし。あの子たちだって、ちゃんと話せば分かってくれるわ」
今また合唱同好会を結成しようとしている新入生がいることを、改めて葉月からも聞かされた菫と紗耶香。だが二人はそれより前から、和音たちをその目に焼きつけた時点で予感していた。過去の自分たちのように、その場所を中心として活動が始まるはずだということを。
「さやか。私の思い、伝えに行くわ。だから……力を貸してっ」
紗耶香に背中を押されたことで決心ができた菫は、その日最後の授業を終えると、荷物をまとめて教室から駆け出した。
選ぶべきなら、選んでいいなら――一番やりたいことを、自分自身で選ぶのなら。頭の中で繰り返しながら、菫の答えは既に出ていた。
後ろからは、同じように息を切らして走る声が聞こえてくる。それが誰のものなのかは、菫自身も確信を持っていた。菫が迷えば、その背中を押すのはいつも紗耶香だった。そんな紗耶香への感謝と、これから一緒に望みを果たす仲間への思いを胸に、菫が向かった目的地は第二音楽室。上がった息を整えるより前に、菫は入口の扉を開いた。
「あのっ――あれ!?」
中はもぬけの殻。生徒のものであろう荷物も、人がいた気配もない。
自分の間違い、早とちりだったのだろうか。涙を浮かべそうになりながら、菫は振り返る。すると、後ろにいる紗耶香の更に向こうで、唖然としている一年生たちがいた。
「あっ、あなたたち……! あのね、私も、一緒に歌いたくて……だから、合唱同好会に、みんなの輪の中に入れてくださいっ……!」
一心不乱に伝える菫。それに戸惑う生徒の中で、一人が前へ出て菫に問いかけた。
「もしかして先輩が、生徒会長の言ってた人――す、好きな合唱曲とか、ありますか?」
「橋留さん、まだこの人と決まったわけではっ」
「う、うん。だから、聞きたいなって。園内さんみたいに」
菫の顔を見て、警戒を解けない心春。しかしその制止をものともせず、和音は進み出ていく。菫も応えるように頷くと、第二音楽室の中へ先に足を踏み入れた。
「見てて! 今、教えてみせるからっ」
和音たち三人にも、紗耶香にも聞こえるように。教室を出る直前、紗耶香からその手に預けられたリボンを菫は握り締め、大きく息を吸ってから歌い始めた。
それは、和音と心春もよく知っている曲だった。気づけば和音は、前に立つ菫と一緒に歌詞を口ずさんで いた。
歌い終わった後、彼女は辺りを見渡す。嬉しそうに顔を輝かせる和音、なおも困惑したままの心春、笑顔で拍手をしながら目の前の光景を見守る若菜。三者三様の姿を見つめ、再び深呼吸してから彼女はその名前を告げたのだった。
「二年生の、宝条菫って言います。みんな、これからよろしくねっ」