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12輪②

 るいと話を付けられるよう息巻いていた若菜だったが、翌日の昼に向かったC組の教室には、るいの姿はなかった。代わりに若菜を迎えたのは事情を把握しているうちのもう一人である弥生だったが、その弥生は他人事のような言い方でおどけてきた。

「あらー、やっぱり断られちゃったみたいだねえ」

「お前のせいでもあるんだぞ……」

 教室から場所を変え、廊下の突き当たりまで向かう途中、茶化してくる弥生に半ばうんざりした格好の若菜。しかし、それでも弥生の調子は変わらない。

「その言い方、若菜もやってほしいんでしょ」

 それどころか、もう分かっているとばかりに自信たっぷりの弥生。またもや核心を突かれた若菜だったものの、やはり物申したい意思は堅かったようだ。

「はぐらかすなよ。もうちょっとやり方を考えなきゃ——」

 そこに至ってようやく、弥生も真面目な表情になっていた。その眼差しが湛えていたのは、つい今し方まで苦言を呈していた若菜もよく理解し、同調する願い。

「——だってああしないとるい、ずっと今のままじゃん。それにああしたくなるくらい、私もるいの演奏が好きだし」

 形が違えど、二人の思いは同じだった。るいの演奏を純粋に楽しんで、耳を傾け続けてきた若菜と弥生。出会ってすぐの頃からそうだったからこそ、自分たちは言うに及ばず、より多くの人にその演奏を聴いてほしいと考えるようになっていた。

「はあ……それならもう一度考えなきゃな。るいの思いも、私たちの望みも」

 壁際の若菜は溜息をつきながらも、ようやくくすりと静かに笑って弥生を見据えた。

 今のるいに寄り添おうとする若菜と、その手を引こうとする弥生。双方の懸念は、今のるいが人前でピアノを弾かなくなった理由の根幹に至れば解決する筈だと、二人とも悟っていた。

 そうであれば、同好会の件よりるいの内心をより分かってやるほうが先決だ。見解が一致した二人は、るいにとって因縁のある出来事の記憶を掘り起こしていた。

 三人が中学二年生だったあの日、合唱コンクールの伴奏選考で振るい落とされたるい。実力は他の奏者と拮抗していたが、直前に開かれた演奏会で大きな失敗をしていたるいはそれを引き摺ってしまい、思うように力を発揮できなかった。

「槇岡さんも、とっても素敵だったよ」

「大丈夫、そんなに思い詰めることないよ。今回は残念だったけど、来年また出番があるかも——」

 クラスメイトが手を差し延べてもそれを撥ね除け、るいは教室を飛び出していった。若菜と弥生はそれを追いかけたが、二人も語る言葉を上手く見つけられないまま。辛うじて呼び止めようとするのが、その場で出来る精一杯だった。

 階段を駆け上がり、屋上へ通じる閉ざされた扉の前で、自身の後ろを走ってくる足音に気づいたるいは、振り向いて静かに口を開いた。

「何よ二人とも、慰めに来たの?」

「な……私らはるいが選ばれると思ってたよっ。それを慰めって言うなら——」

 弥生も間髪入れずに返すが、るいは目を背けたまま続けた。

「——何も間違ってないじゃない。どっちにしたって、こんな私はお呼びじゃないのよ」

 そんな冷え切った目を前に、若菜もどうにか温かい言葉をかけようとしていた。

「な、なあ。もしるいにとって上手く行かなかったんだとしても、いつも聴かせてくれる演奏は何も変わってないだろ」

 一方のるいはそれに対しても、冷たい返答をした。

「そうよ……いつもなら出せるものが出せなかった、私はいつでも全部出し切れる私でいたかったの。悪かったわね」

 その期待に応えられなくて——一瞬だけ二人に視線を送って呟くと、るいは一人にしてくれと言うように階段を駆け下りていったのだ。

 だがそれ以上に、この出来事について触れられなくなった決定的要因はそこからだった。明くる日の若菜と弥生が改めて励まそうとすると、るいは必ず無理矢理話を逸らすようになった。その時の繕った顔が酷く痛々しかったことで、若菜と弥生も暗黙のうちにピアノの話題を次第に控えていったのだった。

 三人の間のそんな不文律に今、弥生が直接のきっかけとなって切り込もうとしていた。

「好きなことほど自分に厳しいよねえ、るいって」

「そうとも、言えるかもな……」

 元からその現状を良しとしなかった弥生も、それにとうとう感化された若菜も、吹っ切れたような笑顔になっていた。しかし決して気楽に構えていた訳でもなく、その口ぶりは真剣そのもの。二人はしばらく語り合い、その中で若菜からるいにメッセージを送っておくこととなった。

『六限が終わったら、ちょっとだけ教室で待っててくれないか』


 そして放課後、若菜は逸る思いを抑えながらC組の教室へと向かった。中の生徒たちがまばらになり、ほとんど人気がなくなっているのを確認した後、足を踏み入れると、るいはすぐに気づいた様子だった。

「若菜、伴奏のことでしょ。一応残ったけど私は——」

「ごめん、るい。あの時のこと知ってるのに、園内さんを止められなかった。やっぱりまだ気にしてるんだよな……」

 いきなり頭を下げられるとは思っても見なかったようで、るいは僅かに狼狽えたが、すぐに平静を取り戻して返した。

「今更ね。用ってそれだけ? まあどっちにしても、それは若菜より弥生に文句を言いたいところだけど。全くどこに行ったのかしら……」

「へへ、どこにも行ってないよーっ」

 それに続いて弥生も、若菜と反対側の出入口からすかさず顔を出す。

「何、いたの?! 言わせてもらうけどあんたね、勝手に話を進めすぎなのよ! 若菜も何か言ってやってよっ」

 やっとのことで一度不平を止めたるいだったが、弥生だけでなく若菜にも、躊躇いはもうなかった。

「いや——るいに伴奏をお願いしたいんだ。私たちから改めて」

「私の話を聞きなさいよ……! やるつもりはないって言ってるじゃないっ……」

「本当はずっと思ってたんだ。るいの演奏、やっぱりもっと聴きたいって。たくさんの人たちに聴いてほしいって」

 返す言葉を失ったるいに、弥生も歩み寄っていた。

「こういう方法がよくないのは、私も分かってる。けど、こうしてでもまたピアノを披露してほしくて」

 二人の押しの強さに、るいは少しずつ言葉の勢いを失っていく。その果てに口を突いて出てきたのは、耐え難い不安だった。

「でも、また失敗するかもしれないじゃない……そうしたら、若菜たちにだって迷惑かけるでしょうっ」

「失敗しない人とか、誰にも迷惑かけない人とか、そんなのいないよ。私もみんなも、それを責めたりはしない。それに、失敗したからもう二度とやらないなんて、るいはそれでいいのか?」

「それは……」

 あの日から燻っていたのはるいだけではなく、若菜も弥生も同じだった。

「いつでも全部の力を出し切りたいんだろ。私たちはそれを応援したい。だからるいも、いつだって全部出し切れるように、チャレンジしてくれないか。私たちは、るいの力を借りたいんだ。今、必要なんだよ」

 だから、もう後悔しないように。若菜と弥生もまた、今出来る限りの思いを伝えた。それを最後まで聞かされたるいは、顔を赤く染めてその場から立ち去ろうとしていた。

「もう……もうっ」

「お、おい! どこに行くんだよ?」

 手を掴もうとした若菜たちだったが、上手く振り解かれてしまった。またもやその背中を追いかけていく二人だけに聞こえるよう、るいは声を漏らした。

「決まってるでしょ……今回、だけだからっ」


 るいが向かっていた場所は、他でもない第二音楽室。基礎が終わり次の練習へ移ろうとしていた矢先、息を切らして飛び込んできたるいの姿に、一同は驚いて固唾を呑んだ。

「ま、槇岡さん? 大丈夫ですか」

 普段は他のメンバーを落ち着かせる役回りになりがちな心春までもが、目を点にして戸惑う中、るいは徐にピアノの前の椅子へ腰かけ、深呼吸をして一つの曲を奏で始めた。それは若菜と弥生に、るいが初めて演奏して聴かせた曲だった。

 音楽の素養がなくとも、一度は耳にした経験があるだろうクラシックの曲。しかしそれは小学三年生当時と比べても、あるいは人前でピアノを弾かなくなる直前の頃と比べても、確実に上達を遂げていた。そう確信を持って感じたのは、すぐ後に第二音楽室へと入ってきていた若菜と弥生。

 人知れず積み上げ続けた研鑽が二人だけに分かる、そんなるいの両手は、二人の想い出を呼び起こしながら、優雅にかつ堂々と鍵盤の上を踊っていく。そこから紡ぎ出されるメロディは、時に強く、時に優しげに、時に切なげに響き渡り、第二音楽室を満たした。

 その中で、若菜と弥生は安堵し、心の底から喜びを噛み締めていた。

「やっぱりすごいね、るいの演奏。こうやって同好会の人たちにも聴いてもらえて、本当によかった」

「事が丸く収まるか気が気じゃなかったけどな、私は……本当によかったよ、それと同じくらい」

「強引なやり方しかできないからさー、誰かさんと違って」

「調子のいいやつ……一度断るのも承知だったな、さては?」

「ふふん。どうだろうねえ」

 二人は軽口を叩き合いながらも、抑え切れない笑顔で全員の様子を窺った。今まさにピアノと向かい合っているるいも、未だに後ろから見て分かるほど顔を赤らめており、どうやら緊張は完全にはなくなっていないらしい。そんな状態でこれほどまでの演奏をしてみせるるいに、同好会のメンバーも目を見張り、うっとりしていた。ピアノの経験者でもある菫と紗耶香までが「素敵……」と呟いたこともまた、二人にとってはこの上なく誇らしかった。

 やがて、長いようで短い数分が経った頃、その演奏が鳴り止むと、るいはメンバーのほうを振り返った。

「私の演奏で、何かを感じてくれたなら……!」

 それは、同好会への協力を了承する回答。るいが改めて答え終わるや否や、同好会の面々は大きく湧き立ち、思い思いに歓喜の声を上げていた。

「本当ですか!?」

「じゃ、じゃあ! これからの練習の話を——」

 喜びの余り、食い入るようにるいの顔を覗き込んだのは心春と菫。その二人を紗耶香は制止しながらも、やはり表情には高揚感が滲み出ていた。

「……二人とも落ち着きなさい。それに菫、後で良いことは後で伝えれば良いでしょう」

「そ、そうですね。何はともあれ、こんなにすごい演奏——伴奏を断るなんてどれだけもったいないことか。お手伝いしてもらえて、本当に嬉しい限りです」

 心春の言葉と共に、その場にいた六人は思い出したように拍手を始めた。演奏に感激し、ピアノ奏者であるるいを暖かく受け止めるその音は、廊下まで響いたまましばらく止む兆しを見せなかった。

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