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9輪①

 迎えた合宿最終日。練習部屋へ集まった五人の中で、菫はやけに楽しげな雰囲気を漂わせていた。

「先輩、何かいいことでもあったんですか?」

「実はね……じゃーんっ」

 和音が不思議に思って尋ねると、待っていたとばかりに菫は持っていた紙袋の中から冊子を取り出した。表紙の真ん中には、女声合唱曲集という文字が大きく書かれている。一目見た和音が目を輝かせ始めるその横で、今度は紗耶香が溜息を一つ吐いた。

「……また相談もせずに、そうやって」

「いいじゃない。あると便利よ、合宿の後も使えるもの」

「……それはそうだけど」

 呆れる紗耶香の目は、静観したまま考え込む心春のほうを向く。その視線に気づいた心春の口振りは、特段問題はないが気掛かりはある、といった風だった。

「出してもらってよかったんです? 寧ろ」

「もちろん! それに、私が個人的に欲しかった、って言ったらどうかしら」

 いつものにこやかな笑顔で言ってのける菫を、存外強かなのかと心春は半ば感心したようだ。中身を確認しようと、菫にジェスチャーして楽譜を受け取った。

「では、お言葉に甘えさせてもらいましょう——ふむ、思ったよりバリエーションがありますね」

「ええ。それで、今日はどの曲をやりましょうか」

「きょ、今日!? いきなりすぎないですか、流石にっ」

 しかし、別に予定していた曲があったのか困惑する心春。一方の菫も、すぐ使うつもりで楽譜を渡したらしく、手を止めた心春が開きっぱなしにしていたページの曲を指差し、全員の視線を集めた。

「あら……ごめんなさい。ちょうどこの曲とか、いいと思ったんだけど」

「確かこれ、有名な映画の主題歌でしたっけ」

 菫と若菜が話し合いながら眺めているページにあったのは、『ひこうき雲』という曲だった。それをやや遅れて覗き込んだ和音は目の色を変え、声を張り上げて嬉しそうにした。

「えっ、あの映画!? 私何回も見てて……そっかあ、この曲、合唱曲になってたんだあ」

 まるでもうこの曲を練習すると決定したように、先の菫を思わせる喜びようの和音。他方で、それを呆気に取られながら目の当たりにしている姿もあった。

「……私は初めて見たわ、この曲」

「私もです」

「……これでもう、決まりなのかしら。問題は……別にないけれど」

 話へ付いていけていない紗耶香は、諦め半分に了承し、残りは心春の意向のみ。無邪気にはしゃいでいた和音が打って変わっておずおずとした表情を見せると、心春は再びしばらく考え込んでから、落ち着き払って結論を出した。

「まあ、今日の予定に大きな影響はないでしょう。ですが皆さん次第ですよ、ちゃんと歌うところまで行けるかは」

「うんっ」


 練習に入ると、この日も基礎から始まっていく。準備運動や柔軟、ブレストレーニングなどをこなす中で、和音と若菜はそれぞれが習熟していないメニューで互いを励まし合っていた。

「和音、しんどくないか?」

「な、何とか。若菜ちゃんもお疲れっ」

 その様子に菫は顔を綻ばせながら、次のメニューを心春に尋ねた。

「それで、今日はどういう風に進める予定かしら」

「本格的に三部の曲を歌うに当たって、パートを確定しておこうかと」

 その答えの後、心春は改めて四人に呼びかけ、説明を始めていった。

「さて、今日はまず皆さんの声域を見ていきます。これまで、中学の頃のパートに添って練習をしていましたが、今後はここで決まったパートに分かれてもらうことになります——中篠さん、女声三部合唱のパート分けはどうなっていましたか」

「ええっ!? えーと、ソプラノ、メゾソプラノ、アルト……上からこの順だよな」

「大丈夫そうですね」

 不意を突いて出された問題にも答えられるようになった若菜。それに心春も満足した様子で、より踏み込んだ解説をしていく。紙とペンを取り出し、即席で五線譜を描いてみせた。

「各パートの一般的な声域はこんなところですかね。これと同じものを、皆さんの声についても作ってみましょう」

 段取りとしては、発声練習の要領でドレミファソラシドの音を半音ずつ上げていき、限界になったら挙手で伝える。それを下げていくほうでも行い、全員が歌えなくなったら終了、という寸法だ。

「では、橋留さんと宝条先輩からです。一ノ瀬先輩、ピアノをお願いしても大丈夫ですか」

「……分かったわ」

 そうして、心春と若菜が見守る中で声域の確認が始まった。若菜はただ二人がどこで合図をしてくるかに集中していた反面、心春はその声域に心なしか感嘆しているようだった。独学と大差ない環境に身を置いてきた和音にも、しばしば練習で余裕を見せるだけのことがある菫にも。

「——細かい話は後にしますが、なかなかのものですね。お二人とも」

 声を出し切った様子の和音たちを労い、続いて心春は若菜と紗耶香に準備をするよう促した。しかし、そこで若菜は一つ疑問を感じたようだった。

「園内さんはやらないのか? そういえば」

「自分の声域は把握済ですので。それより、問題なければ始めたいところです」

「そ、そうか。分かった」

 それからしばらく経ち、全員——正確には四人——の声域確認を終えると、心春は再び紙を取り出して講評に入った。

「皆さんの出せる声はこのような感じです。宝条先輩は高音域がとても強いですね。橋留さんは、練習を続ければ更に高い声が出るようになるはずです。一ノ瀬先輩もこれだけ低音を出せるとなれば心強いです、高音と違って練習しても出せない人は出せないですので。中篠さんは……今の時点なら充分でしょう、やはり練習次第です」

 心春が言い切ると、四人も安心したらしく大なり小なり表情が緩んだ。その中で、菫は本題に入ろうと心春に問いかける。

「あとは、肝心のパート分けね」

「人数の都合上、ソプラノかメゾを一人にしないといけないですが……皆さんの力量も踏まえてパートごとのバランスを取ると——」

 心春が紙に書いたパートは、和音と菫がソプラノ、若菜と紗耶香がアルト、心春一人がメゾソプラノ、という具合。唯一未経験者だった若菜は三人の反応を待っていたが、特に異論は出てこなかった。

「……まあ、妥当かしらね」

「大変になるかもだけど、よろしくね。こはるちゃん」

 紗耶香と菫の言葉に頷き、心春は手を叩いて音頭を取った。

「では、これに従ってパート練習をしましょう」


 そうして三組に分かれた同好会メンバーだったが、その中で他のパートよりぎこちなさを垣間見せていたのがアルトの二人。

「先輩、この曲知らないんですよね?」

「……ええ」

「あの、すごいですね。すぐ弾けるなんて、初めて見る曲なのに」

「……楽譜だけでだいたい分かるわ、ピアノをやっていれば……伴奏もそんなに難しい訳ではないし、菫だって出来ることよ」

 課題と位置付けた曲をまず実際に聞いて確かめるため、菫が用意した電子ピアノで弾いてみせる紗耶香。その手に全く迷いがなかったことで、若菜は感嘆の声を漏らした。しかし肝心の会話があまり弾まず、若菜はどこか距離を感じていた。

 一度曲を弾いた後、二人はそのまま音取りに入ったものの、意思の疎通に相変わらず難儀し続けた。フレーズごとに区切って歌うという、音痴の矯正時にも繰り返した練習でありながら、緊張の解れない若菜には自信を持って声を出すことも難しい様子だった。加えて、上手く音取りが出来ないことから若菜は一層焦り出していく。それを見兼ねた紗耶香は、最初のサビを歌っている途中で、突然伴奏を止めたのだった。

「せ、先輩?」

「中篠さん、少し休憩にしましょう」

「でもまだ、始めてそんなに経ってない気が」

「……先走りすぎるのは良くないわね……中篠さんもせっかく基礎を身につけてきているんだもの、必要以上に不安がる必要はないから」

 淡々とした言葉でありながら、そこには確かな配慮があった。その提案には驚きを隠せない若菜だったが、意図を悟れたことで落ち着きを取り戻し、静かに頷く。それから深呼吸を一つした後、顔を上げて紗耶香に尋ねた。

「先輩、聞きたいことがあるんですが——」

「……何かしら」

「その、先輩はどうして合唱を始めたんですか」

 一方の紗耶香は、それを聞いた途端目を見開き、あからさまに戸惑っていた。曲に関する質問が来ると思い込んでいた紗耶香にとって、至って個人的な質問をされるのは想定外だったらしい。

「……た、大した理由はないわ。音楽が好きだけど、あまり目立つのは緊張するし苦手で……合唱なら他の人が一緒にいてこそ出来るものだから」

 仄かに顔が赤らむ様子を目にし、若菜は内心でほっとしていた。既に多くの場数を踏んでいようと、いつでも余裕でいられるとは限らない。返ってきた答えからそれを感じ取った若菜はようやく、紗耶香とも上手くやっていけると確信が持てたようだった。

「素敵な理由ですね。それに、みんながいるから出来るってところが、私も合唱に魅力を感じた理由の一つかも——」

 そして何より、良い合唱をするには周囲との足並みを揃えるのが欠かせないと、経験者の口から聞くことができたのも大きかった。堅かった若菜の表情が緩んでいったことで、紗耶香もまた練習を再開しても問題なさそうだと判断した。

「……そういえばこの曲は、アルトが主旋律なのよね……頑張りましょう」

「えっ!?」

「……大丈夫。これからソプラノを歌いながら、ピアノはアルトのパートを弾いてみるわ。ピアノを参考にして、ハモる時の感覚を掴んでみて」

「は、はいっ」

 若菜が曲へと慣れていけるように、手を変え品を変えサポートする紗耶香。それを若菜も頼もしく感じながら、練習に打ち込んでいった。

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