8輪①
大きな課題を一つクリアして迎えた合宿二日目。和音の誕生日でもあるその日の朝、他の同好会メンバーである四人は練習開始前に、合宿で使われる一室を和音が一度離れた途端、その機会を待っていたとばかりに揃って部屋の真ん中で相談を始めたのだった。
「ねえねえみんな、今日のサプライズパーティなんだけど」
話を主導するのは、和音のパーティを提案した菫。きっと大丈夫だろう、という自信を漲らせたように笑顔を見せていた。
「計画はできてるんでしょうかね……」
それに対して真っ先に、心春は不安を示した。元より合宿自体が突発的なものだったためか、心春からしてもあまり本来の目的に差し障るような予定は避けたいようだった。
「五人分のケーキとちょっとした飲み物と、クラッカーとかは用意してあるわ。とりあえず、ね」
「そんなので準備とは——え!?」
どうせ何もできていないと思い込んでいた心春は、思わず耳を疑った。和音の誕生日に気づいたのもつい数日前だったのに……そう口走りそうになった心春だったが、これもお嬢様の行動力なのかと納得し、その口からは代わりの返答が飛び出した。
「その準備ができていて、逆にあと何をするんです……?」
「出来合いのものだけじゃ味気ないから、みんなで作るお料理もいいかなって思って」
「事前に言ったじゃないですか! 合宿にそこまでの時間が取れると思ってるんですかっ」
心春は呆れ混じりに声を荒らげた。やはり楽観的なだけだった——そう思ったであろう心春へ聞かせるように、フォローを入れたのは紗耶香だった。
「……一応、時間を上手く作る方法も考えておくって話だったけれど」
「そうだわ! パートに分かれて練習するから、かずねちゃんに気づかれないように準備できるんじゃないかって」
しゅんとしかけていた菫は紗耶香のおかげで元気を取り戻すと、再び嬉しそうに策を伝えた。一方の心春は、尚も冷静になって計画の整理をする。
「パート分け……橋留さんはソプラノですし、準備がしやすいのはアルト、となると……」
「え!? 私たちってことか!?」
そんな話は聞いていない、と焦り始めたのは若菜だった。
「落ち着いてください。宝条先輩が同じソプラノの時点で却下同然の案ですから」
「た、確かにそうだけど、そんなにあっさり……」
「当たり前でしょうっ」
心春から再び突き放され、落ち込み気味の菫は、今度は紗耶香のほうを向いた。しかし紗耶香も、それ以上のフォローは諦めるしかない、といった顔で目を背けていた。
「……やっぱり、もっと時間を見つけて話し合っておくべきだったわね」
可能な限り豪華に祝いたいとする菫と、合宿の予定を優先したがる心春の間で意見は割れ、最終的に心春が譲歩する形となった。しばらくは項垂れていた心春だったが、気を落としている訳にも行かず、和音が戻ってくるとすぐに自らを奮い立たせて全員に呼びかけた。
「合宿も二日目、気を引き締めて行きましょう。本来の順番とは前後しましたが、今日はまず体操や筋トレをしっかりやるところから始めます」
最初の準備運動は、誰もが体育などで馴染のある内容。屈伸、伸脚、腕回しやアキレス腱、前後屈などを入念にこなしていく。しかしトレーニングともなると、心春を除く四人全員が合唱の練習では初めてのようで、菫はその戸惑いを代弁するように、真っ先に心春へ尋ねていた。
「こはるちゃん……私たちが合唱をやっていた頃は流石に筋トレはしていなかったんだけど」
「構いません、詳しいやり方も指示しますので——最初は皆さん、仰向けに寝転がってください。膝を伸ばしたまま、両足を二〇秒間上げ続けます」
一方の心春は、これと言って問題にしていない様子。曰く、発声時に使う筋肉を鍛えるトレーニングでもあるようで、とりわけ若菜は関心を寄せながら説明を聞いていた。
そんな中で周囲を見渡していた心春は、突然和音に激を飛ばした。
「橋留さん、膝が曲がっています。きちんと意識して伸ばしてください」
「えっ! う、うん」
合唱経験がほとんどなく、運動に慣れていた訳でもない和音にとって、トレーニングのハードルは高かったらしい。心春の注意も向き、一日目にその立場であった若菜は同情した。
「次は仰向けのまま膝を曲げて、上半身を少しずつ起こしてください。辛いと感じたところで一旦止めて、ゆっくり息を吐き、その後完全に上半身を起こします」
メニューが進むと、再び苦しそうな表情を浮かべる和音。その様子に若菜は堪らず助け船を出した。
「和音、大変かもしれないけどお腹を意識してみて」
上体を起こして止めるのは、やり方によっては腰を痛める可能性もある。そのため、このトレーニングは何度も繰り返し行うものではなく、一度に適切な負担をかけ続けるのが重要だ。
運動部に所属していたことからそれを知っていた若菜もまた、心春同様余裕があるようだった。サイドクランチ、腕立て伏せ、と続いていく中で、菫と紗耶香までもが徐々に悪戦苦闘するようになったことから、若菜は心春と分担してトレーニングの指南を始めた。
周囲に気を配る傍ら、心春は若菜に尋ねる。
「中篠さん、トレーニングは問題ないですか」
「まあ、平気かな」
「伊達ではなさそうですね。ゆくゆくは全員がこのくらいできてほしいところですが——」
心春がそう口にしながら三人を見渡していると、そのうち一人が言葉にならない声を上げながら俯せに倒れ込んだ。その時の衝撃音にも引けを取らない、鈍く響く悲鳴に、若菜の腕は思わず止まってしまった。
「和音!?」
「——少しずつ、頑張ってもらいましょう」
心春のほうは顔を顰め、気まずそうに苦笑いをした。
「——皆さん、ちゃんとお腹に力を入れられていますか。あとちょっとです」
準備運動と筋力トレーニングに加えて柔軟を行い、それからブレストレーニングへと移っていった。初心者の若菜や、熟練者からの指導を受けている訳ではなかった和音も、心春から見て大きな問題はないようだ。一方で心春は、このブレストレーニングが発声に及ぼす影響を再三強調してもいた。
「そろそろ、終わりか……?」
「もうワンセット、一六分音符で最後です」
心春の言葉に若菜が戸惑う間もなく、メトロノームはもう一度鳴り始めた。テンポ六〇、つまり四分音符が一分間に六〇拍あるテンポで、一六分音符のリズムに合わせて短く息を吐く。単独のメニューであればさほどの負担にならない練習だが、四分音符、八分音符、三連符、そして一六分音符と間隔を詰めて繰り返されるとなれば話は別。それに加え、八拍に渡り息を吐いて四拍休むなど、様々な変化を付けての練習もあり、その負荷は若菜でも無視できなくなっていく。
「はあ、はあ。何か、カラオケ帰りみたいな感覚になるな」
「ひとまずは上手く行っているようですね。次は発声練習ですが、同じように腹筋を意識してください。それから宝条先輩、ピアノをお願いしたいですが大丈夫ですか」
問われた菫は心春たちに頷いてみせ、その後椅子に腰掛けた。ドレミファソラシド、と菫が弾くピアノに合わせ、全員が同じ高さの声を出す。これを一回ずつ転調させながら繰り返す中で、若菜はこの日も音がずれる度に指摘を受けながら、それでもめげずに練習をこなしていく。
「——また外れています、中篠さん」
「き……厳しくないか?」
「昨日よりは厳しめですよ、もちろん。そういう練習ですから」
「そ、そうか。ならまあ」
まだまだ気を抜けば自らの声が意識できなくなってしまうことを、誰より若菜自身が理解していなければならない。練習中、心春の意図は当人にも確かに伝わったようだった。
「昨日は中篠さんの特訓が中心だったのを思えば、皆さんと一緒に発声練習できるのは充分にすごいことです。恥ずかしがらず胸を張ってください」
そういったフォローも、勝手が分からず手探りな面がより強い若菜にとっては救われるものだった。至って普通に発声を行う和音や菫、紗耶香の様子を前に、若菜もまた練習を楽しめつつあったようで、自然と体を揺らし始めていた。
「中篠さん、またです。しっかりお腹から声が出ているのはいいですが」
「あっ、ご、ごめん」
しかし、楽しみながら外さずに発声を続けられるまでにはまだなっていないようだった。筋力トレーニングでは和音を心配していたが、自分自身もそんな場合ではなかったと思い直し、若菜はどうにか食らいついた。幸い要領を掴むのは早く、音を外す以外に特段ミスもなく練習を終えると、胸を撫で下ろす若菜。そんなところへ、菫が一つ提案をした。
「ねえこはるちゃん。この後の練習なんだけど、昨日と同じパートでやるのがいいと思うの」
「——え!? もしかして私まだまだですかね、先輩」
心春の答えを遮る勢いで反応した若菜に、菫は慌てて説明を加えた。
「う、ううん。そういうことじゃないんだけど——そう、混乱するだけかと思って! 若菜ちゃんに限らずだけど、あんまりころころパートを変えたり戻したりしても、ね」
吃りながらのフォローは的を射ているように見えて、どうやら他の理由もあるらしい。若菜がそれに気づいたのは、隣で苦い顔をしながらも静かに頷いている心春へ目を向けてからだった。
「まあ……なくもないですね。そうしましょうか」
傍目に見ていた紗耶香も、察しはついているようで渋々納得した様子。その光景をただ一人、和音だけは不思議そうな表情で眺めていた。