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7輪②

 こんな調子で、合宿は成功するんだろうか……ぼうっと考えていて足の進みが遅くなりかけた若菜は、右肩を叩かれたことでびくりと跳ね上がる。手が伸びてきたほうを向くと、話しかけてきていたのは隣を歩く和音だった。

「ね、すごいね先輩のお家! こういうお屋敷ほんとにあるんだね」

「あ……ああ。そうだな」

「せっかく、こ、こんな素敵な場所を使わせてもらえるんだし、合宿も上手くいくよねっ」

 声は戸惑いを隠し切れていなかったが、それでも高揚感を窺わせる和音。その姿には若菜も、今あまり考えすぎるより目先のことが優先だと思い直した。

 そんな若菜たちの懸念も露知らず、菫は紗耶香に小言を聞かされ続けながら、長い廊下の途中にある扉を開けた。

「——さて、使う部屋はこんな感じなんだけど。こはるちゃん、大丈夫そう?」

 五人が入った場所は、ホームコンサートに使われる可能性を考えても一際大きな一室だった。その隅には、おあつらえ向きにグランドピアノまで置いてある。椅子を並べれば二〇人は優に入りそうな部屋を直に見たことで、心春もとうとう菫の余裕に納得がいったらしく、そそくさと持ってきた荷物を開け始めた。

「も、申し分ないです。さっそく始めましょう」

「いよいよか……」

 思わず身震いする若菜。だが、それを耳にした心春から返ってきたのは想定外の答えだった。

「まず今日は基礎からです。さしずめ座学ですね」

「えっ!?」

 拍子抜けした声の若菜に、心春はすかさず切り返す。

「何か不満ですか」

「いや、そうじゃないんだけど……みっちり声を出す練習をやるんだと思ってて」

「音痴を治すのも目的の一つですが、目標はもっと先です。例えば、皆さんがこれまでやってきたのは混声合唱だと思いますが、今の同好会では女声合唱をやることになります。中篠さんは女声のパート分け、ちゃんとご存じですか?」

「え、ええっと」

 不意を突かれたとばかりに混乱する若菜を他所に、心春は続けた。

「ソプラノとアルトに、メゾソプラノが加わって三パートになります。橋留さん、音域の高さの順は大丈夫ですね」

「メゾソプラノ……はソプラノとアルトの間だよね」

「そうです。こういった覚えるだけで済むものもあれば、もちろん実践と合わせて身につけていくものもあります。ひとまず皆さん、私の作ってきたテストを解いてみてください」

 突然のテストを宣告されても、三人には取り立てて問題にする様子はない。若菜だけが、状況を飲み込めずに困惑していた。

「テ、テスト……」

「今知らない知識があるのは何も悪くありません。これから合唱を続けていっても分からないままの知識が残っている、なんてことに比べれば」


 三〇分後、心春手製のプリントを前に、若菜はほとんど固まったまま手も足も出せずにいた。

「——そろそろ終わりにしたいんですが、まだ続けますか」

「ああ、もうそんなに経つのか。あ、あはは……」

 力なく笑う若菜の答案は半分ほどが空白で、残りも辛うじて聞き覚えのあった単語を適当に記入しただけのものだった。音符や記号ですら名称も意味も全く知らない物がこれだけあるんだ、と放心してプリントを渡した若菜に、和音が優しく寄り添った。

「大丈夫だよ若菜ちゃん。す、すぐに慣れるからっ」

「そ、そっか」

 そんな和音へ向けて、採点途中の心春が横槍を入れた。

「橋留さんは自分の心配をしてください。全休符と二分休符が逆です」

「うそ!? は、恥ずかしい……」

 その言葉が突き刺さり、真っ赤になった顔を覆う和音。それを他所に、心春は次いで菫と紗耶香の分を採点し、答案を返した。

「先輩方は満点です。流石経験者、といったところですかね」

「うふふ。新鮮でいいわねえ、音楽でこういうテストを受けるのも」

「……私は、ちょっと変な気分。落ち着かない……というか」

 思い思いの感想を口にする二人を、若菜は青い顔でぼんやり眺めていた。この際点数が低いのは分かり切っているから——と割り切るように内心で繰り返しながら、プリントが返されるのを待った。そんな若菜から見て、涼しい顔であるはずの心春からは、言外の強い圧が感じられるようだった。

「中篠さんは、まあ未経験者ですしこのくらいでしょう。基本の知識なので、なるべく早く覚えてほしいところです」

「ひえっ……」

 赤い文字で大量の修正が入れられた答案を目にする若菜だったが、落ち込んでいる余裕すらもなく、心春はすぐさま全員に向けて呼びかけた。

「さて、それじゃあそろそろ——」

 しかし、それと同時に二つの声が心春を遮った。五人が辺りを見渡すと、言いたいことがあって挙手していたのは菫と紗耶香。先に話を切り出したのは、菫に促された紗耶香だった。

「……練習を始めるんだと思うけど、楽譜はどうするの? 女声合唱はみんな未経験でしょう、きっと」

「それは、そうですね……なので今回も、歌ったことがある混声の曲を二パートに分かれて歌ってみようと思います」

 その提案に紗耶香も、妥当といった様子で同意して頷く。続いて、菫が口を開いた。

「みんな、お昼はどうするのかしら? 私そろそろかと思って……」

 照れ臭そうに話す菫の姿を前にし、四人は脱力した。


 昼食を提案した菫には、ゆったり英気を養ってから練習に移ろうとの意図があったらしい。しかしそれは、心春の立てたスケジュールを尽く狂わせた。

「——もう五〇分近くも経ってるじゃないですか! 食事休憩にこれだけ時間を取るつもりなんてなかったんですけどっ」

「大丈夫よ、私一時間くらいゆっくりするつもりだったもの」

「全然大丈夫じゃないです、先輩ももう食べ終わるんですから始めますよっ」

 すぐ近くの店で弁当を買ってきて食べるくらい、三〇分程度もあれば済むだろう。そんな計画をしていた心春は焦りに焦り、悠々とする菫を急かしていた。

 その影響もあり、渋々残りを手早く口に運ぶ菫。他のメンバー同様に後片付けを終えると、心春は待ちかねたとばかりに、一つ咳払いをして練習の説明をし出した。

「この合宿では、『翼をください』を歌っていきます。中篠さんの音痴を治す目的もあるので、少し変則的ですが中篠さんは橋留さんとパートを入れ替わってもらいたいと思います」

「じゃあ私がアルトで、若菜ちゃんはソプラノってこと?」

 気がかりな様子の和音に対し、心春は特に心配する必要もないだろうといった風で答えた。

「橋留さんなら問題ないはずです。あまり声域に差はないですので」

「そ、そっかあ」

 その言葉がお墨付きのように感じられたのか、和音はうきうきした様子で紗耶香と共にその場を離れていった。残ったのは若菜、心春、菫の三人。

「じゃあ私、伴奏やるわね」

 一瞬驚いた心春だったが、裕福な家を見れば察せられたことだろうと首を縦に振り、練習メニューを始めた。

「まずは、実際に出している声の高さを意識してもらうための練習です」

 ピアノが鳴らす音と同じ高さの声を出すよう、若菜に指示をする心春。最初の音は問題なく出せたようだが、二回、三回と続けるうち、若菜はすぐに外れた調子になっていった。

「ずれてますね。もう少し上です——ああ、今度は高すぎます」

 心春の指摘を受ける度、若菜はその通りに高さを変えようとするが、若菜はなかなか付いていけず、歯痒く感じたようだった。菫はそれに気づいたのか、一度手を止めて助言を与えたりもした。

「わかなちゃん、耳を片方塞ぎながら歌ってみて。自分の声が分かりやすくなると思うわ」

「はっ、はい」

 言われるままに片耳を抑えて歌うと、今度は自分の声がよく聞こえる感覚に戸惑う若菜。

 徐々に訂正を受ける回数も減っていったが、そのペースは若菜自身が考えていたよりずっとゆっくりだった。その上早く慣れたいというプレッシャーも、却って余計に若菜の慣れを遅らせた。

「一つ一つじっくり合わせていきましょう、そのための練習ですから」

 そのプレッシャーを減らすべく、心春はそう辛抱強く若菜に伝えた。


 一時間もした頃には、若菜たちも課題曲である『翼をください』の練習に移っていく。しかし、そこからが若菜にとって更なる茨の道だった。

「若菜ちゃん、どう? れ、練習大変……?」

 練習が始まって二時間以上が経ち、心春の下で休憩を取っていた若菜に、休憩が重なったタイミングで和音が話を聞きに来た。応える若菜は着実に結果が出ていることに満足感を覚えているようだったが、その顔には確かな疲れも見えていた。

「まあ、やっぱりそう簡単には治らないもんだよなあ……ちょっとずつ良くなってるとは言われてるけど」

「そ、そんなに。どんな練習なんだろう……」

 若菜の様子に震えながらも、どこか興味津々の和音。それに若菜と代わって答えたのは、部屋へ戻ってきた心春だ。

「中篠さんにとっての基礎練習を続けているだけです。今は実際に曲を歌ってもらっていますが」

「そうなんだ! じゃあ、そろそろ合わせられるのかなあ」

「ペースは人それぞれですから……橋留さんも、ちゃんと休めたら自分の練習に戻ってください」

 心春は若菜をまた焦らせたりしたくなかったようだが、和音には厳しく感じられる言い方だったらしい。寂しそうに紗耶香を待つ和音を見送り、心春は若菜に練習の再開を告げた。

「だいぶ改善されたところも多いですが、ずれが直っていない部分はまだまだあります。先程の続きから行ってみましょう」

 若菜は頷き、ピアノの前にいた菫とも目を合わせる。大きく息を吸い、伴奏が始まるとそれに従って歌い始めた。


「伸ばすところはまだ音が大きく外れがちですね。『夢に』からもう一度」

 一つの曲を区切りながら歌い、ずれの目立つ部分をより細かく区切って集中的に繰り返し、形になってきたら歌う範囲を広げてみる。よくある練習だが、そこまで行けている分の進歩が間違いなくある、とは心春の談。前の練習メニューと比べても更に時間はかかったものの、時に心春の指摘を受け、ある時は菫から再び片耳を塞いでみることを提案され、またある時は心春に合わせて声を出し、何度となく反復していく。

 そのうち、心春からも止められず通せる程になっていった。若菜は最後まで歌い切ると、心春の様子を窺った。

「まだ完璧ではないですが、ひとまずは合わせてみても良いでしょう」

 窓の外から西日が大きく入り込んできた頃、遂に五人全員での練習となった。分かれて練習していたアルトパート担当の和音と紗耶香は、二人を呼びに行った心春から見ても充分仕上がっているようで、特に問題もなく合流した。ソプラノとアルトで練習状況について共有した後、五人は菫の伴奏を合図に合わせて声を出し始めた。


 しかし、少し歌ったところで心春は一度止め、再び若菜のほうを向く。

「アルトに釣られています、中篠さん。他のパートと一緒でも、自分の出す声を意識し続けてください。慣れるまではまた片耳を塞いでも構いませんので」

 差し当たってのゴールまではもう少し、と続ける心春。その言葉に若菜が首を縦に振ると、再び最初から歌い出した。長い個別練習の賜物か、片耳を塞いでいれば止められる箇所もそうなく、最後まで歌い切ることができた。

 その後、詰まった箇所を歌い直して再確認し、改めて冒頭から歌い出す。


 サビに達した時、若菜も自分なりの感覚を掴めたのか、ようやく声を合わせる面白さを味わうことができたようで、自然と笑顔が溢れていく。特段止められる部分もなく、最初から最後まで歌い終えた時、若菜はもう心春の表情を注視することもなくなった。

「ひとまずは合格点ですね。少なくとも自分の出す声の高さを把握して、見失わずにいられるところまでは、中篠さんも来ているはずです」

 心春からの講評を受け、嬉しそうに手を握り締める若菜。それを眺めながら、和音も自分のことのように喜びを全身で示した。

「やったね若菜ちゃん!」

「ああ。少しでも、ハモる楽しさがやっと分かった気がするよ」

 音痴だったとしても、決して歌えないなどということはない。それを実体験として身につけた若菜からは、ようやく大きな肩の荷が一つ降りたのだった。

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