逃げない《ルーナ side》
「いいから、とにかく逃げるんだ!走れ!」
怒号とも悲鳴とも捉えられる声色でそう叫び、アッシュはこちらに強い風を放った。
まるで、背中を押すように。
「ちょ、ちょっと待って!逃げるなら、アッシュや□□□も一緒に……!」
「ダメだ!」
「なっ……!?どうして!?」
エルフのアッシュはさておき、□□□は普通の人間の子供。
怪物に対応出来るような強さは、持ち合わせていない。
今ここで一緒に逃げるべきだろう。
『置いていくなんて、有り得ない!』と考える私の前で、アッシュはギシッと奥歯を噛み締めた。
「落ち着いて、聞いてくれ。あの怪物を作り出したのは────□□□なんだ」
「!?」
ハッと息を呑む私は、動揺のあまり腰を抜かしそうになる。
でも、こんなところでアッシュが嘘をつく筈ないので疑う余地はなかった。
それによく考えてみれば────□□□が一番怪物の近くに居るのに、怪我を負うどころか攻撃の対象として見られている様子もない。
これこそが、アッシュの発言を裏付ける証拠だった。
じゃあ、□□□はさっき私を攻撃しようとしたってこと……?
い、いや待って。ただ、手を伸ばしただけで害するつもりはなかったんじゃ……。
まだ親子の絆というものを信じたくて、私は淡い希望を抱く。
でも────□□□の死んだような……心底失望したような目を見て、『そうじゃない』と悟った。
『あの子は本気で私のことを襲う気なんだ……』と青ざめる中、アッシュは風の刃を複数顕現させる。
「ルーナ、あいつはもうお前の知っている□□□じゃない……!僕がそうさせてしまった!」
「!!」
「その尻拭いとして、僕はここに残る!だから、君だけでも逃げるんだ!今、街の方に大貴族の騎士団が来ているらしいから、そこまで行けば……!」
助かる道を必死に示し、アッシュは風の刃を放つ。
が、□□□の身へ届くことはなく……怪物によって、防がれた。
『やはり、まずは怪物の方から片付けないとダメか』と呟くアッシュの前で、突如怪物の数は増える。
い、一体どこから……?いや、それよりもこれは……明らかにアッシュの方が劣勢。
先程より大きくなった戦力差を前に、私も参戦するべきか迷う。
でも、自分一人の力なんてたかが知れているため、私は別の役割をこなすことにした。
「アッシュ、ここからは立ち去るけど────私は逃げないからね」
『最後まで貴方と一緒だ』と告げ、私は踵を返した。
すると、怪物があとを追い掛けようとしてくるものの……アッシュによって、阻まれる。
その隙に私は自宅へ帰り、アッシュの作ってくれた収納型魔道具の指輪を発動した。
□□□はきっと、コレをただの結婚指輪だと思っている筈……。
だから────ここに詰め込めるだけ、情報を詰め込む。
いつか、誰かが指輪の存在に気づいて□□□を止めてくれるように。
『私達には、多分無理だから……』と考え、心底自分を情けなく思う。
私は□□□の親なのに、と。
「いや、私に□□□の母親を名乗る資格はないわね……さんざん苦しめてきたのだから」
己の過ちの責任を全て押し付けてきたことに、私はようやく気がつく。
これまでは『家族となるために仕方のないこと』と思ってきたが、それはこちらの事情で……□□□に我慢を強いていい理由には、ならなかった。
『あの子には何の罪もないのだから』と涙ぐみ、ギュッと胸元を握り締める。
□□□を出産した時、私は直ぐにでもアッシュの元を去るべきだった。
それなのに、好きな人と一緒に居たいがあまり欲を掻いて……結果的に二人とも傷つけた。
一番悪いのは、確実に私自身だわ。
『愛しているからこそ、離れるべきだった』と後悔し、私は唇を噛み締めた。
────と、ここで一際大きい破壊音が鼓膜を揺らす。
「アッシュ、□□□……」
今も戦っているであろう二人を思い浮かべ、私はクシャリと顔を歪めた。
が、『落ち込んでいる暇はない』と己を叱咤し、アッシュの部屋へ駆け込む。
「確か、いつも私に見られたくないものはここに隠してあった筈……」
本棚の奥を覗き込み、私は必死に目を凝らす。
すると、本くらい分厚い資料の束を発見した。
多分、これが────□□□に行っていた実験の資料ね。
こういう機密情報はエルフ語で書いているから、間違いないと思う。
本棚の奥から資料の束を取り出した私は、迷わず白い靄の中に突っ込んだ。
そして、他にも何かないか確認してから、今度は自分の部屋へ向かう。
日記代わりに使っていたノートがあるから、それも収納しましょう。
他人に読まれるのは恥ずかしいけど、実験の資料だけではことの経緯や詳しい事情を把握出来ないし。
などと思いつつ、私は自室へ入り机の引き出しを開けた。
そこから日記を取り出し、ついでにペンも手に取った。
最後のメッセージを残そうと思って。
『あまり時間がないから、早くしなきゃ』と焦りを覚える中、私は日記の最後のページを開いた。
「えっと……私は許されない罪を犯しました。どうか、□□□を止めてください。エルフ語で書かれているものは、恐らく実験の資料です。解読は困難を極めるでしょうが、お役立てください」
走り書きでメッセージを残し、私はペンを置く。
と同時に、日記も白い靄の中へ放り込んだ。
『あとはコレを隠すだけ』と思いながら魔道具の発動を停止し、指輪を外す。
「ありったけの魔力を込めて、結界を……」
万が一にも壊れないよう半透明の壁で指輪を覆い、私は洋間へ戻った。
『この辺りに外れやすい床板があった筈……』と考え、身を屈める。
普通に外へ出て埋めてもいいけど、土を掘り起こしたような跡があれば□□□に気づかれるかもしれない……。
だから、出来る限り分かりづらいところに保管したい。
『室内は言うまでもなく、アウト』と思案しながら、私は例の床板を外した。
露わになった土を前に、私は十センチほど穴を掘る。
本当はもう少し深く掘りたかったが、先程から物音がしなくなったため焦りを覚えたのだ。
もうアッシュを殺されてしまったかもしれない、と。
もし、そうならいつこちらへ来てもおかしくないため、私は急いで指輪を埋めた。
床板も元に戻し、何とか役割を終える。
────と、ここで窓から差し込む日の光を何かに遮られた。
と同時に、家の壁を壊される。
いや、腐らされると言った方が正しいか……。
「□、□□□……」
恐ろしい怪物達を従えて現れた少年に、私は本能的な恐怖を覚える。
『嗚呼、これから殺されてしまうんだ』と悟る中、□□□はゆっくりとこちらへ手を伸ばした。
それに合わせて、一体の怪物が身を乗り出し────私の頬を鷲掴みにした。
かと思えば、天井まで持ち上げられる。
体に力が入らない……これも怪物の能力かしら?それとも、恐怖のせい?
『それに何故か、腐敗臭が……』などと考えていると、勢いよく床へ叩きつけられた。
『っ……!』と声にならない声を上げる私は、身を縮める。
と同時に、また頬を鷲掴みにされ、持ち上げられた。
そして、再び落とされる……この繰り返し。
多分、□□□は出来るだけ長く私を苦しめるつもりなんだわ。
自分の受けてきた痛みを少しでも返そう、と思って。
『なら、受け入れるべきよね』と肩の力を抜く中、鈍い音が鳴り響いた。
その瞬間、頭に激痛が走る。
恐らく、当たりどころが悪かったのだろう。頭から、血を流していた。
床に広がる赤い液体を前に、私は自分の死期を悟る。
これが最後……最期なんだ。
グッと手を握り締め、僅かに視線を上げる私は霞む視界で必死に金髪赤眼の少年を探した。
最期にこれだけは伝えておきたい、と思って。
「□、□□……」
か細い声で我が子の名前を呼び、私は僅かに目を細める。
「ご、めんね────愛しているわ」
本当は謝罪だけのつもりだったのに、つい言ってしまった。
我が子を慈しむ言葉を。
『私にそんな権利ないのに……』と後悔しつつも、もう弁解する気力なんて残っておらず……睡魔に誘われるまま、そっと目を瞑った。




