変化の兆し
◇◆◇◆
────翌日の早朝。
専属侍女のバネッサに文字通り叩き起こされ、私は身支度を整えた。
痛む腕を押さえながら書斎に行き、そこでマーフィー先生と対面する。
今日も今日とて不機嫌な彼女は、冷たい目でこちらを見下ろしていた。
「早くお掛けください」
「はい……」
挨拶もなく投げ掛けられた言葉に、私はただ従う。
『今日もまた地獄のような時間が始まるのか……』と暗い気持ちになる中────視界の端に黒を捉えた。
「おー。おっかねぇ〜先生だな」
そう言って、マーフィー先生の周りをうろちょろするのは昨夜出会った謎の男性……。
『あ、あれってやっぱり夢じゃなかったのね……』と確信する私の前で、彼は人差し指を立てた。
かと思えば、マーフィー先生の頭にニュッと角を生やす。
人や物に触れない特性を活かしたおかげか、妙に完成度は高い。
でも、私はそれどころじゃなかった。
そ、そんなことしたらマーフィー先生に怒られちゃうわ……!
大体、他の人に見つかったら大騒ぎに……って、あら?
全く反応を示さないマーフィー先生と専属侍女のバネッサに、私は目を白黒させる。
だって、彼のことをまるで見えていないように振る舞うから……。
『どういうこと?』と困惑していると、黒髪の男性がふとこちらを向いた。
「ん?あー、そういえば言ってなかったな。俺────他のやつの目には見えないんだよ」
「!?」
「ちゃんと目視出来るのは、お前も含めて三人だけだな」
『だから、俺のことはお構いなく〜』と言い、マーフィー先生で遊んでいる。
悪戯っ子のような笑みを浮かべながら。
そ、それなら良かった……けど、大半の人々に居ないものとして扱われるのは辛くないのかしら?
私だったら、孤独に耐え切れないと思うわ。
『どうして、そんなに前向きでいられるんだろう?』と考え、少しだけ彼のことが羨ましくなる。
────と、ここで思い切り頬を叩かれた。
「ベアトリスお嬢様、聞いてらっしゃいますか?昨日に続き、随分とボーッとしているようですが」
「……ごめんなさい、マーフィー先生」
熱を持つ頬に手を添え、私は縮こまる。
一気に現実へ引き戻されたような気分になり、涙を瞬きで誤魔化した。
『泣いたら、また叩かれる……』と震える私の前で、黒髪の男性は血相を変える。
「お、おい!大丈夫か!?あの女、子供になんつーことを……!」
『虐待だろ、こんなの!』と喚き、男性はマーフィー先生を睨みつけた。
その瞬間────どこからともなく風が巻き起こって、マーフィー先生の髪を切り落とす。
お団子ヘアだったのが災いしたのか、彼女の髪は大分短くなってしまった。
「な、何……!?何なの……!?」
珍しく取り乱すマーフィー先生は、落ちた茶髪を見て戸惑う。
怯えたような表情で数歩後ろへ下がり、辺りを見回した────ものの、当然犯人は見つからない。
「一体、誰がこんな……!?公爵家の中で魔法を行使するなんて……!」
普通では有り得ない事態を目の当たりにし、マーフィー先生は『騎士を呼んできて!』と叫ぶ。
すると、バネッサが慌てた様子で部屋を飛び出した。
これで私と先生の二人きりになる。
ど、どうしよう……?どう動けばいい?どうしたら、マーフィー先生の機嫌を損ねずに済む?
また叩かれるのが怖くてビクビクしていると、マーフィー先生は少しだけ平静を取り戻した。
かと思えば、こちらに鋭い目を向ける。
「……まさかとは思いますが、私の髪を切り落としたのはベアトリスお嬢様じゃありませんよね?」
「ち、違います……」
「本当ですか?私を怯えさせて、屋敷から追い出す魂胆では?」
「いいえ、そんなことは……」
半泣きになりながら否定すると、いきなり顎を掴まれた。
そして、無理やり視線を合わせられる。
氷のように冷え冷えとした青い瞳を前に、私は竦み上がった。
「チッ!おい、手を離せ!クソババァ!」
黒髪の男性は物凄い形相でマーフィー先生を睨みつけ、一歩前に出た。
そのタイミングで、マーフィー先生も手を振り上げる。
ま、不味い……!このままだと、また風を巻き起こすかもしれない……!
かなり興奮している様子の男性を見つめ、私は堪らず
「────もうやめて!」
と、叫んだ。
すると、何故かマーフィー先生がこれでもかというほど目を吊り上げる。
「ハッ……!お嬢様、まさか私に逆らうおつもりですか?奥様の腹を食い破って、生まれてきた分際で?」
「あ?んだと、てめぇ!今度はその口を切り落としてやろうか!」
「やめてください!お願いだから……!もうこれ以上、傷つけないで……!」
必死になって男性を止め、私は何度も首を横に振る。
が、話せば話すほどマーフィー先生の怒りは増していき……それに応じて、男性も声を荒らげていった。
まさに負の連鎖としか言いようがない。
ど、どうしよう……!?
悪化の一途を辿る状況に早くも頭を抱え、私は目尻に涙を浮かべる。
────と、ここで部屋の扉を開け放たれた。
「何の騒ぎだ?」
そう言って、中に足を踏み入れたのは────私の父であり、帝国の希望であるリエート・ラスター・バレンシュタイン。
光に透けるような銀髪と真っ青な瞳を持つ彼は、腰に聖剣を差している。
そして、騎士のように鍛え抜かれた体を押してこちらへやってくると、無表情なまま周囲を見回した。
「魔法攻撃を受けたと聞いたが、これは一体どういう状況だ?何故────貴様が我が娘の顎を掴んでいる?」
心做しかいつもより低い声で問い質す父に、マーフィー先生はハッとしたように息を呑んだ。
『しまった!』とでも言うように頬を引き攣らせ、彼女は慌てて手を引っ込める。
「こ、これは……えっと……そう!ベアトリスお嬢様が魔法を使った犯人だったので、お灸を据えようと思いまして!」
必死に表情を取り繕いながら、マーフィー先生は何とかこの場を切り抜けようとする。
────だが、しかし……父はそれを良しとしなかった。
「何故、貴様がお灸を据える必要がある?」
「えっ?それは……家庭教師、ですし……」
「たかが教師にそんな権限を与えた覚えはないが?」
「っ……!」
『明らかな越権行為だ』と言われ、マーフィー先生はビクッと肩を震わせた。
真っ青な顔で俯くマーフィー先生を前に、黒髪の男性はニヤニヤと笑う。
「よしよし、計画通り……ってのはさすがに嘘だけど、運が向いてきたのは事実だな!」
『ナイス、公爵様〜!』と囃し立て、黒髪の男性はこちらへ身を乗り出した。
かと思えば、真っ黒な瞳をスッと細めた。
「俺が昨日言ったこと、覚えているか?」
酷く穏やかな声でそう言い、黒髪の男性は少しばかり身を屈める。
「公爵様はな、本当にお前のことを愛しているんだ。俺が保証する。だから────」
そこで一度言葉を切ると、男性は父の方を振り返った。
「────ここで全部ぶち撒けちまえ!あの女にやられたこと、言われたこと、嫌だったこと一つ残らず!」




