逆行
「────ベアトリス・レーツェル・バレンシュタイン、ここまでだ」
そう言って、私に剣先を突きつけてきたのは────ルーチェ帝国の第二皇子であり、私の婚約者であるジェラルド・ロッソ・ルーチェだった。
ルビーを彷彿とさせる赤い瞳に殺意を滲ませ、歩み寄ってくる彼は艶やかな金髪を揺らす。
ゾッとするほど美しい顔立ちからは、何の感情も窺えなかった。
ただ、『殺す』という意志しか感じ取れない。
「じぇ、ジェラルド……どうして、こんなことを?私達、愛し合っていたんじゃないの?」
結婚式を翌日に控えたこのタイミングで何故、刃傷沙汰になるのか分からず……私は目を白黒させる。
確かに『結婚式の前に一度、二人きりでこっそり会いたい』と言われた時は驚いたが、このような扱いを受ける謂れはなかった。
だって、七歳の頃から今日まで本当に仲睦まじく……お互いのことだけを想って、過ごしてきたのに。
『何か誤解があるのかもしれない』と思案する中、ジェラルドはハッと鼻で笑った。
「愛し合っていた?誰と誰が?」
「えっ……?」
「言っておくが、僕は────君を愛したことなど、一度もない」
「!?」
恋愛結婚だと信じて疑わなかった私は、まさかの発言に目を剥いた。
じゃ、じゃあ……私に優しくしてくれたのも『君を一番に想っているよ』と言ってくれたのも、全部嘘なの?
貴方だけが私を愛してくれると思っていたのに……。
家に居場所がなく、ずっと孤独だった私はもうジェラルドしか居なかった。
だから彼の要求に応え、お父様を説得し、皇位に就けるよう尽力したのに……。
「皇太子の座を手に入れた時点で、君はもう用済みだ。僕の人生に必要ない」
「そんな……」
ショックを受けて崩れ落ちる私は、ただ呆然と地面を見つめる。
ただ利用されて終わる人生なのかと思うと、虚しくて……。
そっか……ジェラルドの欲しかったものは公爵令嬢で、私自身じゃないんだ。
きっと、貧しい田舎娘だったら……見向きもしなかっただろう。
『貴方だけは他の人と違うと思っていたのに……』と絶望し、一筋の涙を流す。
もはや、この場から逃げ出す気力さえ残っていなかった。
「君には感謝している。きっと、僕の力だけではこの地位に就けなかったからね。だから、一時はこのまま結婚するのもいいかと思っていた。でも────君を見ていると、無性に腹が立つんだ」
私の喉元に軽く刃先を食い込ませ、ジェラルドはスッと目を細めた。
「君と生涯を共にするのは、僕にとって拷問も同じ。よって、切り捨てることにした」
淡々とした口調でそう言い、ジェラルドは一度剣を下ろす。
そして、ゆっくり構え直すと────何の躊躇いもなく、私の首を刎ねた。
最後の慈悲として苦痛なく死なせてくれたのか、痛みはない。
あるのは、海より深い悲しみと虚しさだけ。
嗚呼……どうして、こうなってしまったんだろう?
私はどこで間違えたんだろう?
『愛されたい』と願うのは、それほど悪いことだったんだろうか?
飛び散る血を目で追いながら、私はそっと目を閉じる。
目の前の現実を拒絶するように。
『もう嫌だ……全部終わらせてくれ』と祈る中、
「愛だの恋だのくだらない」
と、吐き捨てるジェラルドの声が聞こえた。
◇◆◇◆
「……さ……して……」
ぼんやりとする意識を遮るように、聞き覚えのある声が耳に届く。
でも、上手く聞き取れなくて黙っていると……
「ベアトリスお嬢様!聞いていらっしゃいますか!」
と、耳元で怒鳴られた。
『ひゃっ……!?』と変な声を出す私は、耳を押さえて飛び上がる。
と同時に、声の主へ視線を向けた。
「ま、マーフィー先生……?どうして、ここに……?」
幼い頃、私の家庭教師をしていた茶髪の女性が目に入り、動揺を示す。
だって、彼女はここを去った後すぐに────亡くなったから。
つまり、本来存在しない人物ということ。
えっ?どういうこと?死後の世界だから、マーフィー先生も居るの?
でも、それにしては随分と若々しい……部屋だって、昔のままだし。
キョロキョロと辺りを見回し、私は幼い頃使っていた書斎だと気づく。
『まるで、過去に戻ってきたみたいだわ……』と困惑する中、マーフィー先生は細い棒のようなもので机を叩いた。
「何をそんなに驚かれているのか分かりませんが、授業に集中してください────公爵様にこれ以上、幻滅されてもいいのですか?」
物心ついた時から繰り返し言われてきた言葉を口にし、マーフィー先生は顔を覗き込んできた。
海のように真っ青な瞳は、ゾッとするほど冷たくて……ビクッと肩を震わせる。
「奥様の命を犠牲にして誕生した貴方が、このような出来損ないでは……公爵様もさぞショックでしょう」
私を出産したせいで亡くなった母の話を持ち出し、マーフィー先生はカチャリと眼鏡を押し上げた。
「いいですか?貴方はこれから先ずっと奥様と公爵様に懺悔し、生きていくのです。幸せになろうなどと、思わないように」
────という宣言のもと、私はみっちり躾けられた。
まるで、家畜のように叩かれながら……。
母親の腹を食い破る野蛮な子供に言葉は通じないから、と。
今日は一段と酷かったな……でも、おかげで────
「────夢や幻じゃないと確信出来たわ」
自室の姿見で自分の容姿を確認し、私は一つ息を吐く。
誰も居ない室内を見回し、胸辺りまである銀髪に軽く触れた。
どういう理屈か分からないけど────私は過去に戻ったみたい。
所謂、死に戻りというやつかしら。
「ジェラルドに裏切られた今、私に生きる意味なんてないのに……」
唯一の希望であり幸福であり最愛だった存在を思い浮かべ、私はそっと眉尻を下げる。
鏡に映る自分はとても情けない表情をしていて……母親譲りのペリドットの瞳も、淀んで見えた。
いっそ、全部投げ出したい衝動に駆られるものの……小心者の自分では、逃亡も自殺も出来ない。
一人になるのも、もう一度死を体験するのも怖くてしょうがないから。
「結局、ずっと耐えるしかないのかな……」
「────何でだよ?お前には、超頼もしいパパが居るじゃん」
「!?」
突然見知らぬ男性の声を耳にし、私は慌てて後ろを振り返った。
すると、そこには────若干透けている男性が……。
歳は十八歳くらいだろうか。
男性にしては細身だが、まだ七歳の私から見れば凄く大きい。
「だ、誰……!?どうして、ここに居るの……!?」