第三話 兄弟は拾われる
人は悲しみを普段通りの生活で少しずつ消化して生きていくように精神がデザインされている。その積み重ねが最悪の結果を選択肢から排除するのだ。
誰しもに忘れる事のできない出来事があるのだろう。けれど反復するその記憶で自分自身を追い詰めなくても良い。ただ自分は辛かった。苦しかったと素直に感じればそれで良い。無理に立ち上がらなくても良い。
けれどもあの日が来れば、また思い出す。涙が溢れる。いつかまた帰ってくると信じてそのままにしてある。
今日もいつもの日常が始まった。夫は仕事に出掛ける。必要最低限の家事を済ませて意識は、ぼーっとする。時計を見ると夕飯の買い出しに行かなくてはと思った。もうそんな時間になっていた。バスケットと財布だけを持って外に出かける。
市場に着いた女性は賑やかな人々の営みがモノクロに映った。早く帰ろう。今日の夕飯も簡単なものにしよう。凝った料理など作る気にはなれない。きっとわかってくれる。そんな帰り、力のない足取りで歩いていると近所のおばさん達が道の端でコソコソと話をしていた。大方私の事を話しているのだろう。聞こえないように、考えないようにする。
真っ直ぐに歩けば目線が合ってしまうだろう。自然を装いながらも反対側の歩道を向いた。そこで彼女は目にした。あれは自分の子だ。間違いない。人攫いに連れて行かれた私の愛する大切な息子なのだ。
女性は車道を横切って走る。荷馬車にギリギリのところで引かれずに済んだ。けれどそんなものは目に入っていない。無我夢中だ。息子を思いっきり抱きしめたい。もう涙で前がよく見えない。足元がおぼつかないながらも何とかたどり着いた。我が息子を抱きしめた。泣けて声がでない。喉に力を込めて積もった思いが言葉になる。
「ラーマー!アンタぁ何処にいたのぉ!どれだけ心配したことかぁ…」
そしてラーマと呼んだその子の顔をよく確かめた。けれどそれは自分が腹を痛めて産んだ我が子ではなかった。
女性はその場にへたり込んでしまう。茫然自失の状態だ。そして笑った。おかしくなった。けれどまた泣いた。
兄弟はそれを黙って観ている。状況が理解できない。ただこの女性が人間である事だけは確かで希望のようなモノを見出していた。他の獣人のように体は毛に覆われていない。元の世界ではただの他人だけれども今はたった3人の裸猿だった。
2人はその女性を頼った。頼み込んだわけではないけれど「ごめんね。おばさんおかしいの。お詫びにご馳走するわ」とクシャクシャになった顔で無理に笑って見せている。
女性は自分が何を言っているのかよく分からなかった。ただこの場でこの2人を置いて去ることは何故か出来なかった。物凄く波長が合っている。母の勘だろうか。兄弟は彼女の自宅まで自然と連れて行かれた。
そこは煉瓦が積み上げられた可愛い様式の家だった。煙突があって見ようによってはサンタさんが侵入しやすそうなお家である。
その夕暮れ、食卓に豪華とまではいかないが食べきれないほどのご馳走が振る舞われた。兄が「頂きます」と食べ始めると弟も真似して食事にありつく。お互いの素性を話さないまま空間に不思議な雰囲気が漂う。そして夫が帰ってきた。
「ただいま…」
夫は熊の獣人でとても大柄だった。玄関で口を半開きにしながら妻と見知らぬ子供2人を交互に見る。そして唾を飲んで状況を確認した。
「カルシャ…。これはどういう事だ?」
カルシャと呼ばれた女性は慌てず冷静に考えていた。もうこうなる事は予想できた。けれど自分達夫婦はここで疑い合うような仲では無い。きっと事情があると信じてくれる。とりあえず食卓に座るように促した。
「おかえりなさいアナタ。話があるのお願いだから座って」
そう言われて男性は「あゝ」と言って自分が仕事で疲れていた事を思い出した。こんなサプライズを立ったまま聞くのは身が持たない。上着と帽子を脱いで横のハンガリーラックにかけた。テーブルに近づくと小さい方の子がピクリと震えた。怯えている。それは自分の図体が大きいからなのだろう。子供はいつもこんな反応をする。
そして大人同士で話が始まる。何処の世界でも大事な話の時に子供は置いてけぼりになる。男性が「なぜ拾った」だのカルシャが「見捨てれなかった」だの言って事情を確認し合っているが蚊帳の外にいる兄弟は不安になるだけだ。そして兄の方が立ち上がりその会話に割り込んだ。
「あの。ぼくたちとても美味しいご飯を食べて元気になりました。明日出て行きます。たけど…今日だけはここに置いてください!お願いします!」
こんな幼い子供が頭を深々と下げた。小さい方も慌ててその真似をする。夫婦は胸が痛んだ。2人は目を合わせる。今日だけとは言わず気が済むまで泊めてやりたい。そんな気持ちが湧き上がるのであった。