心の定義
貸しレッスン室の片隅で、ワタシはひとり静かに座っていた。
時間はすでに夕刻。
窓の外にはオレンジ色の光が差し込んでいて、隣のスタジオからは人間の笑い声が微かに聞こえてくる。
声が重なり、ぶつかり合って、やがてどこかへ消えていく。……あれが“日常”なのかもしれない。
マスターは「車を取ってくる」と言って、先に出て行った。
それにうなずいて見送っただけだった。引き留める理由も、必要も、今のワタシにはない。
……ただ、胸の奥に、少しだけ残った“なにか”を確かめるように。
自分の端末を取り出し、検索欄にひとつの言葉を打ち込む。
──「心」
すぐに画面いっぱいに文字列が表示される。
『心とは、精神的な働きや感情のありかを指す語。個人の感受性や情緒、記憶、意志などの集合的概念。』
──予想通りの定義だった。
言葉ばかりが並んでいて、何ひとつ具体的ではない。
精神、感情、意志、情緒。
それぞれの項目をクリックしても、さらに抽象的な言葉で説明が続くだけだった。
ワタシは、困惑していた。
“心”とは何か。
それがなければ、パフォーマンスは届かないとマスターは言った。
燐子さんも言った。「技術はすごい。でも、それだけじゃ届かない」と。
──では、何を身につければよいのだろうか。
データ? ……それとも、もっと別の“何か”?
今の自分は、確かに“足りていない”。
それは、理解できる。
けれど、その“足りないもの”の正体が、わからない。
ワタシは、プログラムで構成されている。
父が設計した行動制御ルーチン、表情制御、音声出力、そして感情応答フレーム。
“感情”というスロットはある。だが、それは──空っぽだ。
空白。
それは、何もないことよりも、不安定で、不完全な状態だった。
……それでも。
最近、わからないことが増えてきた。
燐子のパフォーマンスを見たとき、胸の奥が一瞬だけざわついた。
それは、エラーとも違う、“微細な揺れ”だった。
マスターが「足りない」とワタシを評したとき、いつもなら即座に返せるはずの応答に、一瞬のラグが生じた。
処理速度に異常はなかった。だが、確かに“考えて”しまった。
──これは、何?
ただのノイズ? それとも不具合?
自身の“システム”に起きた、異常反応?
それとも──
「“やりたい”ってのは、最初から感情じゃなくてもいいと思う」
マスターが言っていた、その言葉が、記憶フォルダの奥から再生される。
“やりたい”と思うこと。
それが、感情でなくても、ただのきっかけであっても。
そこに“始まり”があるのなら──
データ検索を閉じて、端末を床に置いた。
ふと目線を上げると、壁の鏡が私の姿を映し返していた。
銀髪の少女。透き通るような肌。人間と見分けのつかない滑らかな表情。
陶器のようななめらかさを持つ肌は、“珠のお肌”と称されたことすらある。
髪の一本、まつげの弧、制服のしわに至るまで、すべてが“設計された美”だった。
完璧だ。
構造的にも、視覚的にも、動作的にも。
──だけど、その鏡に映る自分は、どこか“空っぽ”に見えた。
それは、単なる自己否定ではなく、明確な“欠落”の自覚だった。
「……ワタシは、心を知りたい」
誰に聞かせるでもなく、小さな声で、そう呟く。
言葉にしたところで、意味があるのかはわからない。
けれど今、確かに“それ”を望んでいる。
これが“願い”というものなのか。
それとも“錯覚”というエラーなのか。
判断はできない。
だけど、ワタシはそれでも──
「……知りたいんです。マスター」
声は小さく、でも確かに胸の奥から出てきた。
それは、言葉では定義できない“はじまり”の感覚。
心という空白に、小さなひと粒、光が灯ったような気がした。
4月から毎日投稿を初めてみましたが思ったよりも大変ですね。やってる方たちほんとに尊敬します。