ようこそMikageプロへ
「……ここが、Mikage芸能事務所、ですか」
アンがぽつりと呟いた。
ネオ・ナゴヤの中にある古びた雑居ビル三階。
扉の横には小さなプレートで“株式会社Mikage芸能事務所”と記されているが、塗装は剥げかけ、全体にくたびれた空気が漂っていた。
「まあ、なんだその……中はなるべくきれいにはしてるから…」
トオルは苦笑しながら先に立ち、ドアを開けた。
ガチャリ。重い音がして扉が開き、かすかにコーヒーと紙タバコの匂いが鼻をくすぐる。
薄暗い室内には、中身が少し露出したソファと、誰かが食べかけたコンビニのおにぎりが放置されたデスク。──事務所と言うには少々抵抗のある光景が広がっていた。
「……すごいです。清掃効率が非常に低い空間です」
「正直な感想ありがとう。でもそこは声に出さなくていいからな」
奥のソファには、初老の男性が横たわっていた。
「社長、戻りましたよ。新しい子、連れてきましたー」
声をかけると、手をゆっくり上げながら体を起こしこちらへ向き直る。
「おう、おかえり。話は聞いてるぜ……で、その子が、あれか? 都木戸んとこの娘か」
「はい。“都木戸アン”さんです。地下街で歌っていたのを見つけました。今日から正式にウチに所属します」
アンはトオルの合図で、丁寧に一礼する。
「はじめまして。都木戸アンと申します。これからよろしくお願いいたします」
その声は落ち着いていて、透き通っていた。
社長──御影雄二はじろりとアンの全身を見たあと、いつの間に吸い始めたのか軽く煙草を吹かす。
「……まぁ、顔はいい。動きも無駄がないし、礼儀もちゃんとしてる。うちには似合わねぇくらい、出来すぎだな」
「ありがとうございます。動作最適化は随時アップ……更新しております」
「ん?」
「ええと、毎日トレーニングしてます」
「ふーん。……まあいい。芸能界なんてな、見た目と根性があればなんとかなる。あと少しの運な」
御影は灰皿にタバコをねじ込むと、アンにパスカードを手渡した。
「これがうちのIDカード。いろいろ手続きも進めといた。今日から、うちの正式な“所属アイドル”だ」
アンはカードを両手で受け取ると、じっと見つめた。
──この一枚が、自分の“スタートライン”なのだと。どこか、感情ではない感覚で理解していた。
そのとき、背後から控えめな足音が聞こえた。
「おかえり、トオル。……その子が?」
現れたのは、制服姿の黒髪少女。ハーフアップの髪型に、カーディガンを羽織っている。
楚々とした立ち居振る舞いと、柔らかい声。だが、その奥に一瞬の鋭さが潜むのをトオルは知っている。
「燐子、ちょうどよかった。こっちは新入り。都木戸アン、今日から所属だ」
「都木戸さんね。よろしく。私は花咲燐子、燐子でいいわ」
「私もアンで大丈夫です。よろしくお願いします、燐子さん」
アンはすっと頭を下げる。所作は綺麗で、言葉もはっきりしている。
燐子は笑顔のまま、じっとアンを見つめ──
「……肌、きれいすぎない? なんか、ほら。陶器みたい。珠のお肌ってこういうの言うんだ」
「ありがとうございます。表皮素材の選定には特に──…いえ、肌質にはこだわっています」
「へぇ……やっぱケアとかちゃんとしてるのかしら。羨ましいわ、ほんと」
どうやら燐子はアンがアンドロイドだなんて微塵も疑っていなそうに見える。
むしろ、どこか変わった新人にちょっと興味を持ち始めたようにさえ見えた。
そもそも、一般人にとってアンドロイドなんて“都市伝説”みたいなものだ。
「本物にそっくりな機械」なんて、まるで映画かゲームの話だと誰もが思っている。
トオルはホッと胸をなでおろす。
(……バレてない。よし、このままいける)
「じゃ、燐子。新入りの教育は頼んだぞ。最初は……まあ、いろいろ戸惑うだろうけど」
「……私が教えるの? いや、まあ、別にいいけど。アンタ、アンだっけ?ちゃんとついてきなさいよ」
「はい。よろしくお願いします」
はじめての出会い。だけど、どこか悪くない空気が流れていた。
──そう、これはまだ始まりにすぎない。
このあと、この二人がどうぶつかって、どう歩んでいくのか。
その物語は、静かに幕を開けたばかりだった。
まだギリギリセーフ?仕事がいそがしくてどうしても深夜更新になってしまうちなみにストックありません。