目指すもの
昨日は申し訳ない。今日代わりに何本か投稿予定です。
合同レッスンからの帰り道。
スタジオを出てすぐの歩道で、ワタシはマスターと並んで歩いていた。
空には茜色のグラデーション。街灯がゆっくりと灯り始める時間帯。
ネオンの街は、どこか現実味の薄い色で満ちていた。
まだ人間には少し肌寒い気温。
それでも、今日の空気は──ほんの少しだけ温かく感じた。
「お疲れ、アン。今日のレッスン、よくやったな」
「ありがとうございます。ですが……“完璧”とは言えませんでした」
「うん。でも、それでいいんだよ」
マスターは缶コーヒーを開けながら言った。
この人はいつも、缶コーヒーを片手にしている。
少し苦い匂いが、風に流れた。
「……“完璧”を目指してる時点で、アンはちゃんと“アイドル”してると思うよ」
「……そうでしょうか」
「少なくとも、“誰かの心に届くか”を考えてる時点でな。2週間前のアンなら、“音程が正確でした”で終わってたろ?」
ワタシは黙って頷いた。
「……この合同レッスンで感じたことがあります」
「ん?」
「唯や梓のパフォーマンスには、“ズレ”がありました。でも、そのズレを含めて、“魅力”として成立していました」
「ああ、同組の娘たちか。そうだね完璧じゃないからこそ、伝わるんだよ。人間ってそういうもんだ」
「ワタシは寸分のズレもないように造られました」
「でも、今のアンは──“ズレてないこと”に悩んでる。違うか?」
「……はい」
マスターは缶コーヒーを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……不完全だからこそ、強い気持ちが生まれるんだと思うよ」
「……気持ち」
ワタシはその言葉を繰り返す。
音ではなく、“意味”として噛みしめた。
「マスター」
「うん?」
「ワタシは、まだ“気持ち”を理解していません。でも、“届けたい”という考えなら──少し、持てるようになりました」
「焦らなくていいさIDCの登録自体は社長がやってくれた予選まで時間はあるさ」
マスターは、そう言って笑った。
「俺はアイドルとして輝くアンがみたい。それにはファンを揺らす“心”が必要だ。目指すものは一緒だろ」
「はい。ワタシは、歌を通じて──“心”を知りたい」
歩道の端、電飾のポスターが輝く。
IDC第50回大会の予選告知ビジュアル。燐子の写真も、そこにあった。
──その隣に、いつかワタシも並びたい。
“その想い”が、胸の中にある。
それが“願い”と呼べるものかは、まだ分からないけれど。
きっと、今のワタシは。
あの日、鏡の中で問いかけていた“自分”に、一歩だけ近づけた気がしていた。