助手席に座る時
「時間になりましたので始めさせていただきます。本日のテーマですが、『助手席』です。」
今、私は、市民のためのマナー講座という、役に立つんだか、立たないんだか、よく分からないものに参加している。ちなみに職業は公務員だ。つまり、客としてではなく、マナー講師のアシスタント役兼司会としての参加なのだ。
主催者側にいる私が言うのもどうかと思うが、こんな講座を受講するなんて、暇なのか? である。
「では、いつも通り、お話しいただくのは、マナー講師の大冝祥子先生です。先生、よろしくお願いします。」
今日のテーマ『助手席』も、何にでもマナーをこしらえる大冝先生ならではのテーマだ。
「こんにちは。大冝でございます。今日も、当講座で正しいマナーを学んでいただき、市民として、日々の生活にお役立てくださるよう、切に希望しております。まず、基本的なことを押さえておきましょう。」
大冝先生は、紺のシンプルなスーツに身を包み、「美しく正しいお辞儀」というのをしてみせる。ちなみに、当講座の初回が、この、「美しく正しいお辞儀」だった。アシスタントの私も、これを幾度もやらされたため、肩と腰と膝に鈍い痛みが残りっぱなしである。労災として認めて欲しいが、上司からは却下された。
「助手席というのは、助手の座る席、つまり、乗用車において最も地位が低い者が座る席なのです。つまり、まず、運転手から助手席に座るように言われた時点で『お前は下っ端だから、そこな!』と言われたと解釈すべきなのです。」
会場がざわついた。いきなり、大冝先生お得意の謎理論の登場だから、無理もない。
「助手席に座わるように言われて喜ぶなど、ありえません。誠に嘆かわしい。マナー力を発揮して、『舐めてんじゃねえ!』と態度で示すべきなのです。」
え~、只今、大冝先生の発言に、少しばかり不穏当な言葉が紛れ込んでいたことをお詫び申し上げます。
「コホン。助手席に座った場合、最も気を遣う必要があるのは、眠気です。助手席に座っておいて、涎を垂らし、爆睡するなど、もってのほか。降車するまで起きている必要があるのです。ここで、今日、皆さまに覚えて帰っていただきたいのは、般若心経です。これは、最も短いとされるお経です。助手席に座った時には、これを唱え続けましょう。そうすれば、眠気も退散。そして運転手にも舐められません。必ずや、助手席に座らされるという屈辱からも解放されることでしょう。」