非才理論
ある日ふと、部屋の汚さに嫌気がさして身辺整理をした。するとゴミと一緒にこの原稿用紙が出てきた。最後に見たのはいつだったろう。もう半年以上は経った。熱しやすく冷めやすい俺はこのように様々なことに手をつけてはその物を理解する前に見斬り捨てるのが常だった。この小説もその残骸のひとつに過ぎない。部屋の隅でホコリ被ったアコギ、タンスにしまってあるだろう油絵具、どれも俺が僅かな夢を持って、なにかになれるかもと思って、そして慣れなかった非才の証。見るだけでつまらないそれらは大抵二度と手にすることは無い。だから俺が今見斬り捨てたこの小説を再び書いているのは非常にイレギュラーだと言える。
何があったのか。別に何も無い。掃除していたついでに見つけたこの小説をただなんとなく見返した時、ふと気になった。
俺はいつから未来ではなく、過去を語るようになったのか。
少なくとも小中学生の頃は未来を見ていた。いや、正しくは二三日以上前のことをいちいち思い出す暇がないほど、あの時の俺は今が愛おしく楽しかったのだ。精一杯だった。何もかもが。
過ぎ去っていくものに目を向けず、ただ未来だけを見ていた。形のない光の先にどんな自分がいるのか四六時中考えていた。頭の中じゃ何にだってなれた。どこまでも走って行けるような気がしたから、過去という存在を知らなかった。それがいつからか、俺は光の中を通り過ぎて過去を語るようになっている。上記の小説は常に思い出の中をさまよっている。
いつからだろう。俺はどこかで未来さえも見切りをつけて部屋のどこかに捨ててしまったらしい。
何にもなれなかった、光のない未来を見続ける必要がどこかで無くなった。なにかになれた。光のある過去を見ているしか出来なくなった。目を逸らしてるんじゃない。生きるためには仕方がない。人間、暗闇の中で息をすることは出来ないのだ。
きっと過去と未来の境はそこにある。
生きるために息を吸っていた。過去の俺は確かに生きていた。
死なないために息を吸っている。俺はまだ何とか生きている。
呼吸をする目的が変わった時、未来は過去に変わる。
それが分かったところで俺の人生がどうなる訳でもない。明日生きていることすら想像ができない俺は、もはや三大欲求のみで行動している。野生動物の様相を呈している。人間が人間でいるためには、どうやら何かが足りないらしい。
思いつきで書き飛ばしたこの駄文ももう最後だ。誤字脱字、見返す気力も残っちゃいない。だから当然、これが最後になると思う。
タイトルの非才理論という言葉を回収せずに終わることになるがなんだかそれも俺らしくていい。そもそも俺に大層な理論なんてものはないのだ。この小説を読めば君にもそれがわかるだろう。何も考えちゃいない。誘蛾灯に群がった羽虫が焼きこがれて地面に落ちた、その姿が正しく俺。ただの馬鹿。自明のそれから目を逸らして無理やり自己肯定しようと出てきた言葉がこのタイトルだ。
俺は考えて生きている。誰に何を言われようと俺は俺の信念を持っているんだと言いたいだけだった。
はたから見たら、負け犬の遠吠えに過ぎない。
「もう一回、もう一歩だって歩いたら負けだ」
まだ負けていない。そんな命乞いの延長線に本当の死がある。非才は常に負けていると吠えながら世間に溶け込み、心根で世の中を嘲笑し、喉元に噛み付くチャンスを狙っている。それが非才のとれる唯一の自己肯定と抵抗手段なのだ。
非才理論。後付けでこれをそう呼ぶことにする。