第六節 血の契り
改稿部分、やっと終わりです。次回からリシャーリス王女が大活躍。
初まりの院は魔王城の一番奥にある、レンの私生活の領域だ。
書院裏側の扉から門をくぐり、中庭を囲む通路を経由し、自然の洞窟を通って辿り着く。
「洞窟の岩は十万年前からあるから、ちょっとくたびれてるかも」
下にまかれている砂利以外、壁面全てに魔光苔が付着して赤い月と同じ色の光を放っている。
「前の世界では、十万年前は人間の祖先がやっと世界に広まった頃かな」
「綺亜の世界はおそらく変化する世界だから。この世界は神の関与が大きいから、最初からあまり変わっていない」
「世界が滅びなかった場合の三百億年後では、人間は土饅頭になっていた」
「輪廻の無い世界は、神も飽きちゃうんじゃないかな。ネイトは別として」
万事過保護なこの世界の神にあって、無償の恩恵は与えず、必ず召喚に応じ、必ず代償を要求する最高神ネイトだけは、ある意味中立の神だ。
魔光苔の洞窟を抜けると、断崖にせり出した岩棚の上に木造の建物が見える。
まるで東京における書院造りの館のように、濡れ縁で囲われて引き戸で仕切られている。
「ここが私の私室、岩の端から落ちないでね」
「僕は他人の私室に一人で入った経験が無いんだ」
何度か誘われたけれど、真島の部屋には行く機会が無かった。
「十万年期にして魔王が初めて私室に招く客人なんだから、ただで帰れるとは思わないでね」
「レン、僕が告白していなければどうしたんだい」
「手籠めにしていた」レンがくすりと笑う。僕は、挽肉でも満足だったけれども。
館の中は板敷きで、寝室である一部屋と飲食のための子部屋に別れていた。
玄関で履物を脱ぐと、使用人に足を洗ってもらい板間に裸足で上がる。
床板が軋む音に、立川にあるお婆ちゃん家を思い出す。
「草のマットの上に寝具が直敷きだけど、綺亜は初めて見るでしょう?」
「『畳』に『布団』はむしろ見慣れているんだ」
情報の修士課程を終了したけれども、満足する職を得ることが出来ず、ベッドを買う機会が無かった。
ただレンの寝具は草のマットが一枚なので、東京で言うならば鎌倉期の形式だ。
「六万年前より昔はベッドが無かったから、私もこちらの方が好き」
「じゃあ座って、始めるよ」
草のマットの横に座ると、眼鏡を床に置いた。
「正座できるんだ」
レンも同じように正座すると金糸の角飾を外し、結い上げたシルバーグレイの髪から飾金を取った。
カドミウムレッドの鮮やかな月の光が、開け放たれた引き戸から寝所に差し込む。
「綺亜、これは綺亜を一度滅ぼして再生させるもの。今の綺亜と、再生した綺亜は厳密には違うもの」
「僕は、僕が演じてきた全ての仮面を捨て去るんだ。再生した僕は綺亜ではなく、レンの綺亜だ」
僕が額に手を当てて前髪を除けると、レンは僕に体重を預け顔を近づけた。
彼女は僕の唇に爪でわずかに傷を付け、滲み出した血を舐めとる。
「人間の血の味は、濃い紅茶の味」
そして、レンは僕の頭を両手で包み、浅く、浅く、そして少しだけ深く口付けをした。
僕の初めてのキスは、血の味がして、とても柔らかく、そして心地よかった。
彼女は僕をとらえてはなさず、されるがまま甘い唇の味と苦い血の味を楽しんだ。
酸欠で気が遠くなり始めた頃、レンは僕の肩に爪を食い込ませて唇の間にわずかな隙間を作った。
彼女に上手く誘われた僕の舌は、わずかに開いた口の外に突き出される。
レンは機を逃さず、舌先にその鋭い犬歯を立てた。痺れた舌に、痛みが走る。
舌の先から驚くほど大量の血が流れ出し、レンの足に落ちて大きな水玉を作る。
僕の血は彼女の太ももの間を満たし、床に流れ下ってあたり構わずアリザニン・クリムゾンに染めた。
レンは自らの舌先を噛むと、滴り落ちるバーミリオンの血を僕の舌の上にたらす。
彼女に肩を拘束された僕は、舌を流れ下る魔族の王の血をなすがまま飲み続けた。
僕の中の古い血が失われた後、ふらつきを感じてアリザニン・クリムゾンの寝具に倒れ込んだ。
レンも同様にふらついて寝具に身を預け、僕の血だったものが跳ねて彼女の体を彩った。
「レン」
「綺亜、どんな感じ?」
「僕が飲んだレンの血が体を侵して行くんだ」
「成功して良かった。初めてだから」
東の空に沈み始めた赤い月が、僕達をカドミウムレッドに照らす。
月の光が僕を抱擁して、暖かく、いい香りで、綺麗な色をして、静寂に包まれ、とても心地が良かった。
「レン、僕の視界が赤い。そして赤い月から力を受けとるのが見えるんだ」
「赤い月がもたらす原初の力によって、私の血が綺亜を満たし始めてるの」
レンが僕の手を握ると、血と血がつながり力が二人の間を行き来した。
「綺亜、綺亜はこれで私と同じ時を生きる不可分の一つになったんだよ」
「僕はレンのものだ」
「浮気はしないでね」
「千年間?」
「千年間」
レンと僕はしばらくアリザニン・クリムゾンの中に沈んだまま、静寂を楽しんだ。
「綺亜、私の血は体を満たした?」
「体の傷が、全て癒えたみたいだ」
「全て、赤い月が人間界から収奪した力だからね」
「全て、僕が選択した結果であることは分かっている」
レンと僕は寝具から起き上がって、一面血に濡れた床板に立った。
「綺亜、包帯は外しましょう」
「レン、肩のものは僕がほどくよ」
「お願い」
レンの肩の包帯に手をかける。したたるほど僕の血だったものに濡れ、ほどきにくい。
ほどきながら僕は、彼女のきめ細かいゴールドオーカーの肌に目を奪われた。
「綺亜、どうしたの?」
僕はレンの胸の間から、鎖骨を通り、首筋を上がり、あごを越えて、頬をかすめて、シルバーグレイの毛先まで口を近づけてなぞった。
「僕は血がこの道筋をたどるのに欲情してレンに恋をした。そして人間を裏切ったんだ」
「綺亜は、勇者として失格ね」
そして鋭くなった犬歯で、レンの耳たぶに歯を立てた。
レンのバーミリオンの血は、砂糖より甘くて水銀の味がした。
「綺亜、戦争の後処理が終わったら覚悟なさい」
◇◇◇
僕はわがままで、人間を裏切った。ただ一人、魔王のためだけに。
――僕は魔王に恋をした。
流されるままに、勇者の役割を負った。派遣社員の頃に、そうだったように。
世界が救われるその瞬間、僕は欲情に任せ、聖剣のかわりに魔王の手を取った。
――僕は世界の滅びを確定させた。
滅びにむかう千年紀、世界が滅びるその日まで、僕は魔王と同じ枕で眠る。