婚約破棄という前提 九
だからだろう。脳裏にそれが閃いたのは。
悪魔の囁きにも近いはずなのに、最良の案だと思えたのは。
「……キリエ。よく聞け」
髪を梳きながらゆっくりと言葉を紡ぐ。いやに喉が渇いたが、生唾を飲みこんでごまかした。
「確かに、お前は尽くしてきた婚約者に捨てられた。カルブンクルス王にも罪人の烙印を押された。今のお前には何も残っていない」
「……」
「だが本当にそうか? お前にはたった一つだけ、残っているものがあるだろう」
「…………え?」
キリエの顔が緩慢に上向いた。泣き腫らして真っ赤に染まった双眸がアルシュを映す。
涙に濡れた頬をそっと片手で包んだ。逸らすことは許さないとばかりに覗きこむ。
「今、お前の目の前にいるのは誰だ? ん?」
「…………アルシュ……」
「そうだ。お前の、キリエの親友で悪友で、きょうだいのようにともに育ってきた幼馴染だ。そして、私はサプフィールの王族の人間でもある」
アルシュは笑みを作った。それは悲しみに暮れた者を慰めるものではなく、悪どいことを思いついた悪い大人の顔だった。
「今の私の身分は『姫』だ。何もかもを失って、王子ではなくなったお前よりも偉い。だから、命じようではないか。──キリエ、自害するくらいなら私の国に来い」
「え……」
目に見えてキリエが戸惑った。
抱きこんだせいで髪型が崩れ、前髪が額にかかっている。元々の童顔もあいまって迷い子のようだ。
そういう表情は相変わらず可愛い。脳裏の端で思いつつ、アルシュはさらに言葉を重ねた。
「言っておくが、返事は『はい』か『イエス』しか受けつけないからな」
強引な言い草だとは、アルシュ自身も理解している。だが力づくででも目の届くところに置いておきたかった。
これ以上にないほど不安定になっている幼馴染を、敵陣と化したこの国に置いたままにはできない。例え牢に閉じこめられたままだとしても、目を離した隙に呆気なく命を絶つだろうから。