婚約破棄という前提 八
「この、バカ!」
キリエの腹の上に馬乗りになり、叱咤する。
「なぜ自害しようとした!?」
「…………アル……シュ……」
虚ろなキリエの目がアルシュを見上げる。開かれた唇はかわいそうなほどにわなないていた。
「……愛して、いたんだ……」
涙が次々とあふれる。叫び出したいだろう衝動を透明な雫に閉じこめて、頬を伝わせる。
「あの病で、記憶を失ったって、聞いて……そのせいで、以前とは別人のように、なった、って、それでも……僕の愛したエメに、かわりはない、と……でも、彼女は、……彼女は、僕の、こと、を……!」
悲しみを隠さないまま嗚咽混じりに吐き出される言葉は、すべてが痛々しかった。
嘆きを最後まで聞くまでもなくキリエの頭を抱きこむ。噛み締めた奥歯がギリ、ときしんだ音を立てた。
「兄上にまで、見放されて……もう、僕が生きる、意味は……う、うぅぅ……」
胸元が涙を吸って冷たく湿っている。濡れた生地が肌にはりつき、不快な感触ではあるが、それでもアルシュは離すことを厭うた。
深く静かに息を吐く。キリエの自害の阻止に間に合い、最悪の事態を回避できたことで戻ってきた血の気は、再び婚約者エメへの怒りに火をつけた。
キリエは本当にあの婚約者を愛していた。寝ても覚めてもエメの幸せのことを願い、健全な日々へ戻れることを祈り、少しでも理想を実現しようと努力を怠らなかった男だ。
正式に婚約を結んだ関係であると周囲に認可され、祝福を受ける今日という日を、指折り数えて誰よりも楽しみにしていただろう。それなのにいざ蓋を開けてみたら罵られ、拒絶され、別の男を愛しているとさえ告げられてしまった。
本来ならばキリエとアルシュの主張も聞いた上で判断を下さなければならない兄王にも、問答無用で切り捨てられた。
カルブンクルスでは、牢に入れられるのは罪人だけだ。牢に入ったら最後、たとえ無実であっても罪人というレッテルが生涯貼られ続ける。
罪人となった者は名誉も称号も地位も財産もすべて剥奪される。二度とその手に取り戻すことはできない。王族貴族も例外ではない。
今やアルシュの胸に抱かれる男は、共に幸福な未来を歩むはずだった最愛の婚約者を最悪な形で失い、兄王にすら見限られて第二王子としての何もかもを奪われた、ただの幼馴染みだ。