婚約破棄という前提 七
アルシュはキリエの突然の逃走にざわめく貴賓達を次々と押しのけた。小さな迂回すらまどろっこしくて、真っ白なテーブルクロスがかかった丸いテーブルも踏み越える。二方しかない出入口の扉に詰まり、もたもたと順番を待つ兵の背中を容赦なく蹴飛ばした。
「邪魔だ! どけ!」
悲鳴が響くホールを出たあとは、ひたすら全力で回廊を駆け抜ける。
この日のために用意した深い青紫のマーメイドドレスの裾は、足に絡みついて走りにくいという理由だけで破り裂き、後ろで一つに結んだ。足元を不安定にさせるヒールはとっくに脱ぎ捨てている。
はしたない格好だが、大事な幼馴染みの命には変えられない。急げ。焦燥感が足を急かす。心臓が冷えるような嫌な予感がひしひしと迫っていた。
アルシュが目指すのはキリエの自室だ。彼は昔からひどく気落ちすると、すぐに自室にこもって静かに泣き、感情をやり過ごそうとする癖がある。
いや、今回に限っては泣いているだけならいい方だ。最悪、絶望に駆られるがままに己の命を捨ててしまう可能性が高い。何せ彼をこの世に引き止める者は、もうなくなってしまったのだから。
見えた扉を勢いのままに蹴り開けると、案の定だった。
執務机のすぐ隣にキリエの姿がある。アルシュから見て机の背後に窓があるため、差しこむ明かりが逆光となっていた。目を細めてしまうほどには眩しい。
後光によって、キリエの姿は影になりがちだった。だが何をしようとしているのかは、シルエットでも丸わかりだ。
喉を仰け反らせ、両手には柄を逆さに握ったナイフ。きらりと照り返す鋭い切っ先が狙いを定めるのは、無防備にさらけ出された首だ。
まさに、今にも自害しようとする体勢。目に入れた瞬間、アルシュの血の気が未だかつてないほどに引いた。
「やめろ!!!」
一足で飛びかかる。力がこめられようとした手を捻り、刃物をはたき落とした。
「痛……っ」
すぐさま肩を強く押し、床に倒す。キリエから痛がる声が上がったが、後頭部を打ちつける音は鳴っていない。キリエの部屋の床には、毛足が長くふわふわふかふかな絨毯が敷きつめられている。多少手荒に扱っても怪我をさせることはほとんどない。
一拍遅れてサク、とナイフが刺さる音がした。