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湖城での療養 十四



「兄上からの要求が、届いているのですか……?」



 自室の窓から抜け出したその後のカルブンクルスを、キリエは知らない。アルシュが語らなかったからだ。

 アルシュも知らなかったのか、知っていてあえて黙ったのか。

 国王の首が横に振られる。



「いいえ。音沙汰がないので、我が国に滞在していることは存知ないでしょう。自国をしらみつぶしに調べるのに忙しいようですから」



 時間の問題だ。キリエがカルブンクルスにいないと知れば、今度は各国に便りを出す。そうなれば。



「……ですが、仮にクレド王からあなたの身柄を要求されても、私は……いえ、サプフィールはその要求を跳ね除けましょう」


「えっ」



 思いがけない言葉に目を瞠った。余裕のある笑みがキリエに向けられている。



「何事にも抜け道があるものですよ。当然、この条約にも。──例えば、あなたが罪人となる前に、すでにサプフィールの民としての永久居住権を取得していたならば。我が民を理不尽な要求から守る、という十分な効力を持った名分が生まれます」


「えっ!? へ、陛下、それは一体、どういう……?」



 国王が執務机から一枚の羊皮紙を取り出した。キリエに差し出す。

 隣から覗きこみ、上から下までさっと目を通したアルシュが、ああ、と細い顎を撫でさすった。



「無知につけこんだのか。さすが母上、策士が過ぎる」


「人聞きが悪いですよ。本人の合意はきちんと得ています」



 羊皮紙に連ねられていたのは、サプフィールの民の一員として永久に居住権を与え、王族と同等の身分を授ける、という旨の文脈だった。本物の権利証である。

 その下には国王の認印と、キリエの直筆のサインがあった。

 こんな、使い方によってはサプフィールの根本を揺るがしかねない大事なものにサインをした覚えはない。どういうことだ。

 己の名前の筆跡を見て、気づいた。この、書き慣れていないような歪な形は。……間違いない、幼少の頃の文字だ。



「こ、これは……」


「ふふ。実は昔、あなたをアルシュの許婚にしようと思っていたのですよ。これはその時にあなたから快くいただいたサインです。残念ながらあなたにはすでに許婚がいると後に聞かされたので、婚約は断念せざるを得なかったのですが」



 な、何をしているんだ、昔の僕……。

 顔を手で覆い、天を仰ぎたい気持ちに駆られた。

 きっと国王の言葉に笑顔で頷き、意気揚々とサインしたであろう過去の自分を嘆く。第二の父母として、サプフィール国王夫妻に無邪気に甘えていた時期だろう。

 今でも慕う気持ちに変わりはない。ないが、弁えなければならない立場を自覚した現在では、あの頃のような無邪気さを装うことは二度とできない。




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