従者の力
両手をハワトの小さく丸みを帯びた肩に置けば彼女は浪々と、高らかと、そして名状し難き悪意の詰まった祝詞を謳いあげる。
「 」
彼女に渡した『ネクロノミコン』はギリシャ語で書かれているが、もちろん彼女にギリシャ語の素養など全くない。それどころか彼女の言を信ずるならばこの世界の文字さえも理解できるか怪しいらしい。
そんな彼女が『ネクロノミコン』を読めると言うのは偏に私の魔術でサポートしているという事もあるが、それよりも『ネクロノミコン』の狂気を理解できてしまう”心”があるからだ。
そもそも人間とは深層に共通のイマジネーションを持っており、それは連中が夢想した陳腐なおとぎ話によく姿を見せる。
その一種に人間は長い進化の歴史の中で表層的に忘れ去ってしまった宇宙的恐怖を心の底の底にしっかりと記憶している。それを少し刺激してしまえば忌まわしき狂気は連鎖的に表層に浮かんでくると言うものだ。
もっとも世界が変わってもその恐怖があるのは行幸だった。おかげで私がハワトに施しているサポートもだいぶ手が抜けている。
「あの娘を殺せ!」
勘の良い盗賊の頭領と思わしき男が恐怖に顔を歪めながらあらん限りに叫ぶ。
だが遅い。
すでに呪文は紡ぎ終わり、それに応えるように虚空から一頭の龍が舞い降りて来る。いや、龍などと高貴な存在では無い。
サイズこそ象を遥かに超えるほどの巨体を誇っているため龍に見えなくも無いが、その背に生える翼は蝙蝠のような被膜の張られたそれであり、頭は馬に似た気色悪い容姿をしていた。
あのおぞましい生物の名はシャンタク鳥。私がよく使役する下級の奉仕種族だ。
「くすくす。ゾンビの創造だけでは無くシャンタク鳥を招来させるとは――! これは中々の逸材かもしれませんね」
そう言えばノーデンスによればこの世界には魔法と言う物が普及していると言う話だった。つまり素養からして地球の信者や従者共よりこの世界の者は魔法への適正が高いのかもしれない。
これは良い拾い物をした。今はまだ『ネクロノミコン』などに頼っているが、ゆくゆくは魔導書のようなサポートアイテムがなくても魔法が使えるように調教してやろう。
「な、モンスター!? ドラゴンかあれは!? お前等! 飛び道具を用意しろ!」
頭目が目を見開いて悲鳴に似た声をあげるも、彼は即座に部下達の統率に入る。ふむ、精神的な動揺が少ない。
あぁそう言えば森を彷徨っている最中に角の生えた狼の他にも色々な異形の生物を見かけたが、もしかすると連中はそうした人ならざるモノが数多く生息するのを“当たり前”と思っているからそれらに対する恐怖が薄いのかもしれない。持続する恐怖とは恐怖足りえないものだ。どのように過激なモノでも恒常的な刺激と言うものはいずれ慣れて刺激では無くなってしまう。
もっとも神格ほどのモノを目にする経験はそうないようだ。私の悩殺ボディに耐えられたのがハワトだけだった事からそれが伺える。
……いや――。
狂気に怯えていた碧眼は狂喜に染まっている。ふむ、私に耐えこそしたが、すでに精神は擦り切れていると考えるべきか?
「あはは!! すごい! わたしがあれを呼んだのですか!? ナイアーラトテップ様! あれは一体なんなのでしょうか!?」
「あれはシャンタク鳥と言います。とても良い乗り心地の奉仕種族です」
「乗れるんですか?」
「えぇ。今度乗せてあげましょう」
「本当ですか!? あはは!! すごい! すごいです!!」
もっとも寝過ごしたり油断しているといつの間にか宇宙の中心の中心――我が父アザトース様の玉座まで飛んで行ってしまうお茶目なモノでもある。
昔、とある人間を騙してアザトースの玉座まで連れて行くよう算段を整えた事があったが、残念ながら途中でそれに気づかれて計画は頓挫した事があったな……。
今思い出してもあれは胸糞悪い出来事だった。もう少しであいつは永遠の狂気に取りつかれて――。いや、今嘆いても詮無き事か。
それに今回は別の意味で楽しめそうだ。それを証明するかのようにシャンタク鳥は群小な人間共の頭上から宣布するようにすりガラスをひっかくような鳴き声を轟かせる。
「くそ! 慌てるな! 引きつけてから攻撃しろ!」
それにしてもあの男、中々手練れなのかもしれない。状況判断が早い。
だが所詮人の身である。いくら統率を図ろうと人の心に萌芽した恐怖を消す事は出来ないし、何より人間如きがシャンタク鳥に勝てるものか。
耳障りな鳴き声と共に上空を旋回していたシャンタク鳥が急降下――。必死に弓矢を放っていた盗賊の一人に襲い掛かるや馬のような頭が裂け、てらてらと光る舌と牙を覗かせた口を開ける。
「ひぃ!? い、いや――」
悲鳴を上げる慈悲も無く盗賊の頭と胴体が分離し、頭を失った首から噴水のような血しぶきが吹きだす。赤い噴水を思わせる奇妙なオブジェクトを作った当のシャンタク鳥は返り血を浴びる前に上空へと舞い上がり、頭部を咀嚼していた。
そしてその頭を飲み下すやシャンタク鳥は新たな獲物を見定め、急降下する。
今度は槍を持った男だ。その男はシャンタク鳥が口を開けるタイミングを見計らい、裂帛の気合いと共に鋭い薙ぎの一閃を放つ。
「せやッ!!」
突きではなく薙ぎにしたのは長柄系武器の利点である遠心力をのせた重い一撃を放つ為だろう。
確かにその一撃はシャンタク鳥の頭部を捕らえた。人間がくらえば簡単に頭蓋骨が粉砕できるほどの重い渾身の一撃。
だがシャンタク鳥には傷一つついておらず、むしろ槍が二つに折れてしまった。
「くすくす。言い忘れていましたがシャンタク鳥にも魔術的な装甲が付与されているのですよ。そう簡単に倒せるとは思わぬ方が良いでしょう」
もっとも装甲は一時的な物でダメージを受ければ当然その耐久値は減る。恐らくあの一撃で装甲は破壊されてしまっているだろう。次の一撃からはシャンタク鳥そのものにダメージが通るはずだが、残念ながら槍使いの心が槍と共に折れてしまったようだ。
「お、オレの、槍が――」
槍使いの顔が一瞬で戦士のそれから弱者のそれに塗り替えられた。
頼みの槍技を無効にされ。
眼球を痙攣させ。
泣いているようにも、笑っているようにも見える顔で。
こんな死に方、まったく望んで無いと叫ぶように――。
「た、たすけ――」
槍使いが震える声で言葉を紡いだその瞬間、シャンタク鳥が無遠慮に食事を始める。
牙を立て腕を、肩を、腹を、腿を。修練を積んだ男の肉を鋭利な牙で抉り取っていく。
生きたまま肉を裂かれる激痛に人間らしさなど残してはいられない。壮絶に泣き叫ぶ声が、仲間の盗賊達の耳朶を完膚無きまでに責め立てていく。
くすくす。なんと圧倒的な力。圧倒的な狂気。圧倒的な絶望。あれに襲われたら最後、美しい死に様など望める訳が無い。
まぁ惜しむらくは先の一撃だけで心が折れてしまったことか。もう少し気骨を見せてほしい。
「く、こうなればあのモンスターは無視しろ!」
攻撃が効かず、むしろ仲間が凄惨な目にあっているからか、頭目は攻撃目標を変えた。それは誰に? もちろん術者であるハワトだ。
彼女は『ネクロノミコン』に目を落としたまま小さく口元を動かしている。そんな無防備な彼女に頭領は素早い足運びで距離を詰め、両手剣で華奢なハワトの肉を叩き切りにかかった。
それにハワトが気づき、回避しようと身を引くが、遅い。
練達の技が袈裟懸けにハワトを襲う――。だがその一撃が彼女の肩に触れた瞬間、剣はそこに壁でもあるかのようにそこにピタリと止まってしまった。
「な!?」
「いやぁ見事な一撃ですね。普通の人間なら真っ二つと言ったところでしょうか? ですが無意味だ」
「ま、魔法か!? だがこんな魔法聞いた事無いぞ!? それに冒険者ギルドを離れた頃でも俺はCランクの冒険者だったんだ! Lv20超えだぞ! その俺の一撃が無効化されるなんて――」
「あり得ない、ですか? くすくす。おぉ! なんと矮小なる事か! 眼前で起こっている事象も理解出来ぬとはなんと哀れみを誘う。そのランクなるものがどれほどの物が存じませんが、これしきの低俗な魔法にそこまで驚かれる事に私は驚きを禁じ得ません。さぁハワト。我が従者よ! 貴女の力を見せてください」
ハワトの言葉にならぬ詠唱が終わる。すると先ほど頭領がジョンと呼んでいた毛皮を着た死体が再び起き上がり、残った片腕で凶刃を頭領に繰り出すが、その刹那に頭領は身を翻してその一撃を自身の剣で受け止めた。
「な!? 嘘だろ!? さっき倒したはずじゃ――」
「無知も極まると滑稽ですね。そもそもゾンビが死ぬ事などあるわけないでしょ? ゾンビは元々死んでいるのですから」
ゾンビを倒したいのなら体をバラバラにして焼却するしか無いだろうに。だがこの世界のゾンビは違うのか? これは色々と知るべき必要がある。
「さて、ハワト。良い見世物でした。貴女を従者にして良かったと心から思えます」
「ナイアーラトテップ、さま……! あ、ありがとうございます。わたし、ナイアーラトテップ様のご期待に応え――。あれ? 血?」
ツツっとハワトの薄い鼻から鮮血が垂れ、口を顎を伝わって行く。それに彼女は混乱するように手を添えるも、それは中々止まろうとしない。どうやら限界がきたようだ。
「落ち着きなさい。ただ魔法を使い過ぎただけです。言ったではありませんか。“貴女に魔力を与えたと言ってもそれは仮初めの魔力”と。貴女の限界を越えた力を使っていたのですから当然しわ寄せが現れるのは必然」
「ナイアーラトテップ様……」
「なんでしょう? 従者になる事を取りやめますか?」
ここに来て恐れを抱いたか? やはり人間は脆弱で仕方ない。せっかくの第一従者だが、ここで切り捨ててしまおうか?
「いえ、どんでもありません! むしろこんなわたしにこれほどの御力をお与え下さった事に深い感謝を捧げます」
「――! くすくす。いよいよ従者らしい言葉ですね。とても嬉しく思います。くすくす。君の主は非常に気分が良い。私を賛美する呪文を教えてあげましょう。ですがその前に後始末をしなければ」
見渡せば村の各所に食い荒らされた死体が散乱し、今またシャンタク鳥が逃げ出そうとしていた盗賊を背後から食いちぎった。
他の盗賊共も死んでいるか逃走を図っているか。ふむ、逃げていないのはゾンビを相手取っている頭領だけか。
ここで奴らを全滅させるのは容易いが、心に沁み込んだ恐怖を抱く者共を野放しにしている方が面白いかもしれない。この壊れた光景を刻んだ者達は必ず心の変調をきたし、それは新たな狂気を振り撒く感染源となる。
それを期待して逃げ行く者は放置だ。それに盗賊を野放しにしたところで私に害悪が及ぶ訳ではないからな。
だからシャンタク鳥に新たな命令を発する。奴もそろそろ腹を満たしている事だろう。
「 」
私の呼びかけに顔を朱に染めたシャンタク鳥が醜い鳴き声と共に殺戮を終えて駆け寄って来る。
するとゾンビと戦っていた頭領が迫りくるシャンタク鳥に気づき、体の動きが一瞬だけ止まり、その隙をついたゾンビの一撃が頭領の右腕を奪い取った。
「う、で!? うでぇ!?」
「失礼しますよっと。 」
頭領の腕が消し飛ぶのと同時に肉体の保護の呪文を唱える。これはハワトに与えた加護と同質の呪文であり、私の魔力で彼の肉体をコーティングして装甲とする術だ。それをハワト以上に念入りにかけてやる。自傷さえも出来ぬほど念入りに――。
さて、頭領はこれで良し。次にゾンビに向かって新たな一節を紡ぎ、ハワトの精神力を吸いだして彼を元の死体に戻してあげる。
そして、だ。
「 ?」
そしてシャンタク鳥にお使いを頼む。するとシャンタク鳥は言葉に出来ぬ不快な一声を上げて了承してくれた。
さて、次は腕を斬られ茫然としていた頭領をひょいっと抱え、シャンタク鳥の背中に乗せてやる。
「さぁお行きなさい」
ペチリとシャンタク鳥の腹を叩くと蝙蝠に似た翼をはためかせ、飛翔する。不思議と風は起こらず、ただただ巨大な肉塊が空へと吸い込まれていく。
「さて、終わりました」
「終わった、のですか?」
「えぇ」
頭領を乗せたシャンタク鳥は時空の壁を越え、宇宙さえも飛び続けるだろう。そんな過酷な環境に置かれても肉体の保護の呪文をかけてあるから頭領は何事も無く目的地にたどり着くはずだ。おまけに自死も出来ぬほど強固な呪文を与えている。
これで無事に宇宙の中心におわす我が父――盲目にして白痴の王アザトース様の御許に行かれる事だろう。父上に良い土産が出来た。これでいつも遊んでばかりいると愚痴られずにすむはずだ。
「それでは少し喉が渇きました。お茶を入れてくださいます?」
「か、かしこまりました!」
そうして私達はシャンタク鳥の餌場となっていた村に背をむけるのであった。
補足
シャンタク鳥
コウモリの翼に馬のごとき頭部を持つ異形の種族。よくナイアーラトテップが使役する。
ノーデンスが使役するナイトゴーントと呼ばれる種族が天敵。
人間の潜在意識に存在する異世界――ドリームランドに生息している。
昔、とある人間を騙してアザトースの玉座まで連れて行くよう算段を整えた事があったが(略)
もしかして:ランドルフ・カーター。誰だよという方はH.P.ラブクラフト御大の名著『未知なるカダスを夢に求めて』をご一読ください。