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ダニッチ・5

 まだ、しとしとと雨が降り続いている。だがあんなにうるさく鳴いていた夜鷹(ウィッパーウィル)の泣き声がやんだ。

 時間が間延びしたように雨粒の一つ一つがゆっくりと降り注ぐ中、ウィルバー・ウェイトリーが崩れ落ち、それと共に環状列石に宿っていた魔力が風に溶けるように霧散を始めた。

 ウィルバーを斬り伏せたジークはなんの感情も映さない空虚な瞳をこちらに向け、走り寄ると共に小袋を投擲する。

 それは過たずウィルバーの弟の上に落下すると、不可視の存在を可視化させるイブン=グハジの粉がまんべんなく降り注いだ。


 そこには宙から緑の大腕に押さえつけられた化け物がいた。

 まるで鶏の卵のような不細工な胴から生えた無数の触手。蛸のような、百足(むかで)みたいな、蜘蛛みたいな足が無数に生え、この世の生物の進化を覆す冒涜的なそれの頂点には人間の顔がついていた。その病的に細い顎に山羊を思わせるその風貌は、間違いなくウィルバーに似ていた。


 ジークはその名状しがたい化物に怯むことなく一気に距離をつめるや、私達を無視して跳躍し、ウィルバーの弟を押さえつけていた大腕を切り裂く。すると神代の遺物(アーティファクト)の前にウィルバーの弟を拘束していた魔法が消失した。



「クレア!! 今だ!!」



 それと共に澄んだ声でどの言語にも属さない音節の呪文が響く。その声の主は倒れ伏したウィルバーの背後にいた。

 赤髪をいただく気丈そうな少女は木製の短杖と古びた皮で装丁された本(『ネクロノミコン』の写本の類だろうが?)をかかげ、霧散しようとしていた環状列石の魔力を使って新たな魔法を組み上げていく。

 それはヨグ=ソトースの退散の呪文だった。

 クレアは止める間もなく両手を頭上にあげるようにかかげ、異様な仕草で両腕を激しく動かして奇妙で不規則なリズムの呪文を完成させる。

 すると環状列石を中心に紫色の閃光が輝き、目には見えない力の脈動する猛烈な波と名状しがたい悪臭とが噴き出した。

 そして、その光を浴びたウィルバーの弟は耳をつんざくばかりの驚天動地の大音の悲鳴をあげ、もがき、身体が溶けだした。



イグナイイ(とうさん)……!イグナイイ(とうさん)……! トゥフルトゥクングア(たすけて)……! ヨグ=ソトホース……ッ!!」



 おおよそ人間の喉からは発せられない、しゃがれて耳障りな悲鳴が周囲を襲う。地獄そのものから響くようなその声はただただ、助けを求めて父を呼んでいた。

 彼の触手もまた助けを求めるように天へと伸ばされるが、その手をとる者は誰もいない。

 それにクトゥルフ君もハスター君もなにかを言っている。だが、私の耳はそれを聞こうとはしなかった。

 ただただ崩れゆく現実を目の当たりにさせられ、一つの疑問を浮かべるしかなかった。



「どうして、こうなってしまった……?」



 過ちなどなかった。儀式も成功しつつあった。ウィルバーの弟だって上手く足止めすることもできて――。

 全て上手く行っていたはずだ。まさに順調だった。

 だというのに――。だというのにこの結果はなんだ!? なんなんだッ!!



「ナイア! おい、どうしよう、ウィルバーが! ナイア!」

「落ち着けハスター! おい、ナイ? どうしたの? おーい」



 遠くから兄弟神の声が聞こえてくる。

 だがそれも、どうでもよい。



「私は、()()失敗してしまったのですね……」



 雨に濡れた皮膚が割れ、そこから黒い瘴気が溢れ出す。それは体中を包み込み、輪郭そのものを人から醜い怪物へと変えていく。

 直視に耐えない触腕には鋭い鈎爪が、紡錘形の頭部に貌はなく、音さえも吸い込む深淵がそこにあるだけだ。



「          ッ!!」



 醜い。あぁ! 醜くて腹が立つ。その怒りを込めて吠えたてると、少しだけ尖った感情が和らいだ。そのおかげで冷静になるとようやく現実を受け入れることができた。

 そこでやっと恐怖で剣を落としてへたり込んだジークに気がつく。

 こいつを怒りに任せて殺したところで何も変わらないだろうが、なにもしないよりかはましだろうと腕を振りかぶる。コイツを出来るだけむごたらしく殺した後に連れのクレアも何かしらの制裁を与えてやれば、私の心くらいは慰められるかもしれない。

 そう思いながら腕を振るおうとした瞬間、心臓がナニカに掴まれるのを感じると共にウィルバーの弟が撒き散らした悪臭に混じって麝香の臭いがすることに気がついた。

 これはニョグダのわしづかみという魔法だ。この魔法が扱えるのはハワトくらいしかいないはずだが、このタイミングで彼女が私にこのようなことをするとは思えない。ならば、魔導書によるアシストを受けたもう一人の方――。



「煩わしいッ!! あ……」



 ニョグダのわしづかみは相手の心臓を掴みだす即死魔法だが、魔力の源たる精神力で対抗することで解呪できるのだが、勢い余って逆に術者に魔法を返してしまった。

 その結果、クレアはショートした電球のように魔力の負荷に耐えきれず、耳目から出血を起こしながらふらふらと地に伏す。

 しまったな。力加減を誤ってしまった。



「精神が崩壊したか。だが、まぁ……。構わぬか。とはいえこのままではよろしくないだろう。いつもならそのままにしておくのだが、今の私は平静ではない。お前は私の怒りを鎮めるために壊させてもらおう」



 触腕を大きく振りかぶり、それを振り下ろそうとした時だった。背後から奇声と共にジークが必死の形相で剣を振り上げながら迫ってくる。

 恐怖に怯えていたはずなのに、それでも剣を向けて立ち向かうとは少しだけ見直した。だが許しを与えるつもりはない。それにあの業物は少しだけ厄介そうだ。サクっと殺してしまおう。

 そう思いつつ腕を振り下ろそうとしたが、その直前に黄色い影が割り込んできた。



「やめろおおおッ!!」



 ハスター君は――。いや、アウグスタは目にもとまらぬ速さで触腕を振るうや、それが私の頭と胴体を切り裂いた。文字通り必殺の一撃を受け、傷口から黒い靄が垂れ流れていくのを感じつつ、地に膝をつくと彼は急に顔色を変えて駆け寄ってきた。



「あ、ご、ごめ――。いや、そ、そんなつもりじゃ。と、止められなくて、つい――」

「クスクス。まったく、イゴーロナク君もそうですが君も依代に甘いですね。身体の主導権を奪われてしまうなんて、それでも神の端くれですか?」

「……この(からだ)は不便で、重くて仕方ないよ。本来の力の百分の一も発揮できない。でも、強い想いがあるんだ。それが溢れて、気がついたら身体が勝手に……」

「なるほど、くくく、クスクス。神の支配さえ跳ね除けるとは、面白いではありませんか」



 腹の底から笑いがこみ上げて来る。なるほど、アウグスタもまた、絶望を踏破した人間であったか。

 まぁ神を我が身に受け入れるなど常軌を逸しているが、それをする理由もまた、彼女にはあったわけだ。そして運命を受け入れ、道を切り開く一方を踏みだすとは――。



「良い、依代だ……。全てを台無しにされましたが、少しだけ良い気分になれました」

「おい、ナイ! おいって!」

「少し、休むだけ、です……」



 視界が霞み、闇に覆われていく。それと共にハスター君の声も遠くなっていった。


 ◇


 気がつくと黒い世界にいた。真っ暗闇ではなく、黒い光に満ちているという矛盾を体現したような世界だ。気温は寒くも暑くもなく曖昧で、視界一面に広がる黒の中で私の身体だけは知覚できる。

 浅黒い両手。黒いスーツにスラックス。高級感溢れる革靴。

 いつもの私だ。ハスター君にやられた痛みも何もない。おそらくどうやらハスター君に殺された衝撃で精神が肉体より解き放たれてしまったようだ。その状態で兄上が私をこの世界に呼んだということか?

そう考えながら闇の中を揺蕩っているとやっと一所に光が見えた。


 そこには円形のテーブルと二つの椅子が鎮座しており、そこには厚いヴェールに包まれた人のようなものであった。形こそ人間を思わせる輪郭をしているものの、輪郭がぼやけて判然としない。

 それこそ兄たるヨグ=ソトースの化身の一つであるウルム・アト=タウィルと呼ばれる究極の門の守護者だ。

 今、その守護者は言葉を発することなく、厚いヴェールの下にかくれた瞳を私に向けて来る。その全てを見通す眼差しに、少しばかりよくなっていた気分が再び下方に向かっていくのを感じる。



「……兄上、私はあなたとの約束を違えてしまいました」



 だが、兄上から一欠けらの言葉も返ってこない。その無反応に心がざわめくのを感じずにはいられなかった。



「あともう少し、もう少しだったんです。あのままであればなんの問題もなく門を開くことができた。儀式は完璧で、あの邪魔さえ入らなければ――。いや、少なくともジーク達が現れなければ――」



 ウィルバーの弟を拘束しても油断していなければジークに対処できたか?

 その前に私もウィルバーやハワトと共に儀式に加わっていればジークを阻止できた?

 それよりもこの場に来た時にクリアリングをしておけば――。

 私はどこで間違えてしまった。どうして誤ってしまった。どうして、どうしてどうして――!



「ニャル……。すまない。ワタシは――」



 そこでやっとウルム・アト=タウィルが身体を震わせ、俯いていることに気がついた。

 その仕草で全てが繋がった。いや、理解できてしまったというべきか。



「そうか、最初から大団円のストーリーなど、存在しなかったのですね。兄上……」



 少し考えれば分かることだ。いや、考えるまでもない。

 兄上は私に『その先に幸せなどないことを知りながら、ワタシは過ちを犯したのだ』と言った。

 そう、他でもない全知全能なる神がそう言ったのだ。つまり兄上は初めからこうなることを知っていた。知った上で私に子供達を託した――。いや、不幸な結末がくると分かりながらウィルバー達に生を与えたのだ。救いようがないとはこのことか。



「なにが“すまない”ですか、兄上……。まったく。まったく、まったくまったくまったく――。あなたという神は、まったくもって愚かですね……!」



 それが例えあらかじめ定められていた未来だとしても、手に残ったのは大きな、大きな喪失感と徒労感、そして(はらわた)が煮えくり返るほどの怒りだった。

 これではまるであの日を思い出してしまうではないか。



「ニャル、その通りだ。ワタシは、ワタシは破滅しかないことを知りつつ、あの女と子供を作ってしまった。お前を頼っても救えぬと知りつつ、お前に子供達のことを任せた。ワタシは愚かの極みだ。だが、それでも、それでもワタシはあの女と一つになりたかった。いや、そうせざるを得なかった」

「……どうしてです?」

「愛だ」



 あ、い……?



「愛が溢れた。無上の愛が止めどなく溢れ、そしてワタシはその無形の愛を形あるものに昇華させたかった。それがあの二人だ」

「……訳が、分かりませんよ」

「お前にはわかるまい。だが、ワタシは知ってしまったんだ。この世には合理を捻じ曲げる不合理があることを。善と悪を越える不朽の愛があることを。その溢れた愛が開闢をもたらすことを、知ってしまったんだ」

「……分かりません。私には、わかりませんよ、兄上……」



 すると兄上は「だろうな」と呟き、ふと背後にそびえる門を仰ぎ見る。それと共に門は開き、光さえ吸い込みそうな闇が露わになってゆく。



「ニャル。ワタシは知ってしまったんだよ。シュブ=ニグラス()が勧めてくれた知恵の実を食べたことでね。ワタシはそこで全てを知った。我らが創造主、万物の王、盲目白痴の神――アザトースのように、ワタシは物事を判断できる知を得た。そこで無償の愛(アガペー)を知ったのだ」

「………………。……その結果、罪を背負って楽園を追われたのではありませんか。やはり愚かだ」



 いよいよ門が開ききる。すると深淵へいざなうように生暖かい風が門へと吸い込まれ出した。

 もう時間か。



「お前の言うとおりワタシは全てを失った愚かモノだ。平穏も、永遠も、安寧も。全てを失い、また子供を失った。だがそえでも愛を知れた。ワタシはそれで満足なのだ。今のお前はまだ理解できないだろうが、お前もそれを知る日が――」



 兄上の声が風にかき消され、目もあけられなくなってきた。

 それに思わず目を閉じるとふわりとした浮遊感が身体を掴んだ。そして私は門へと吸い込まれていった。


 ◇


 目を開けるとぐっしょりと濡れた魔女帽子を被った不健康そうな少女が視界に現れた。

 ただでさえ顔色のよろしくないハワトは雨によって体温を奪われ、より青ざめた顔色をしていた



「ナイアーラトテップ様! ご無事ですか!?」

「ハワトさん……。まずまずといったところですね」



 ゆっくりと身を起こすと、眼前には溶けだしたウィルバーの弟がおり、助けを呼ぶように父の名を口にしていた。



「エエ・ヤ・ヤ・ヤハアアア――エヤヤヤヤアアア……ングアアアアア……ングアアアアア……フユウ……フユウ……助けて……助けてくれ! ……チ――チ――ちち――父上! 父上! ヨグ=ソトホース……」



 しかしそれだけだった。もうアレに次元を切り開く門としての力は存在していない。いや、生きる力さえも、もう――。

 そんな彼のもとに近づくもの達がいた。

 クトゥルフ君とハスター君に抱えられたウィルバーだ。ハワトよりも青白く、それでいて土気色に染まった頬の彼女はただ己が弟を憐れみの視線で見つめていた。

 彼女は弟に声をかけるでなく、ただただ己が恐れた弟に憐憫の眼差しをむけるだけであった。



「いやだ……いやだ……。独りはいやだ、いやだよ、ちちうえ……」



 それはダニッチを恐怖に陥れた化物が出す声ではなかった。

 この世界に独りぼっちで産み落とされた、憐れな(わらべ)がいるだけだ。

 そんな弟のもとにクトゥルフ君とハスター君に抱えられたウィルバーがやってきた。



「お前も、寂しかったの……」



 ハワトよりも悪い顔色の彼女はやっとのことで声を振り絞る。

 そして二柱がゆっくりと彼女を弟の隣に横たえさせた。もう彼女に弟を恐れる心はなく、ただせつなげにその触手に血の気のない手を重ねる。



「だ、れ……? だれなの?」



 ウィルバーは祖父から儀式のサポート役として、そして鍵として、道具としての役割しか期待されていなかったし、求められていなかった。だがそれは彼女だけではなかったようだ。

 弟もまた、門としての役割しか求められていなかったのだろう。

 だからこそ門を開き、仲間を呼ぼうとしていたのかもしれない。



「ごめん、ね……。ダメな姉で」

「うぃるばー、なの?」

「うん。あたし、お前のことを世界で一番嫌っていた。人とはまるで違うお前が、怖くて……。でも、だからおじいちゃんが死んでも門を開こうとしたのね……。ごめんね、あたしがお前にもう少し向き合っていたら、こうはならなかったのかも……」

「あた、たかい……。そうか。門を開く必要なんて、なかったのか。もっと近くにいた――。知らな、かったなぁ……」



 ただ孤独を癒したかっただけ、か。

 哀れだな。神の血をひいているというのに孤独に耐えられぬとは、人間そのものだ。

 それからウィルバーは無理矢理笑顔を作って二柱に向き直る。



「アベルさんも、カインさんも……。ありがとうございました。こんなことになりましたが、感謝しています」

「ウィルバー……」

「べつに……」



 二柱とも口の中に広がる苦さを噛み潰すような表情をしていた。本当に兄弟なんだなぁと思っているとウィルバーは振り絞るように言った。



「あたしは、失敗しました……。アベルさんの言う通り、もっとやりようはあったのでしょうね」



 ぽつりと生気のない頬に涙が伝う。雨はやんだというのに、ウィルバーは驟雨のように泣いていた。

 そんな彼女の手をハスター君は握る。訪れる死から彼女を守ように。



「やりようはあったのに、あたしは恐怖に負けて、顔をそむけて……」

「ウィルバー! もう喋るな」

「もう少し、もう少しだけ、それに早く気づいていれば……」

「うぃる、ばー……」

「アベルさんも、後悔する前に――」



 ウィルバーは深く命の息吹を吐き出しきると体は崩壊し、収縮し、ねばねばした白っぽい塊に変貌を遂げた。

 それから間もなく彼女の弟も永久に姿を消してしまった。

 そして気づけば降り続いた雨も、やんでいた。


まさか今年最後の投稿がバッドエンドになってしまうなんて……。(にっこり)

それでは告知通りあと一話にて今章完結となります。どうか最後までお付き合いのほどよろしくお願いいたします。


それではご意見、ご感想をお待ちしております。

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