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カインとアベル・1

【ハワト視点】


 星の知恵派のみんなと今後の対策を話し終わり、お店を出ようとした時だった。

 入れ違いに店に入ろうとする二人組とすれ違った時、突然もの凄い力で腕を捕まれた。



「痛ッ。一体なんです、か――?」



 腕を掴んできたのは黄色いポンチョのフードを目深に被った少女だった。どうも二人組のようで、もう片方の長身の黒髪の山羊に似た細い顎の少女は驚いたように連れを見ていた。

 たぶん、面識はないはずだ。黄色いポンチョのほうは顔が隠れているから判然としないが、少なくとも山羊顔のほうは……。あれ? こっちもどこかで会ったことがあるような……。

 だが記憶に靄がかかったように思いだせない。

 星の知恵派でないことは確かだし、教会の手のものだと面倒なことになりそうなので掴まれた手を振りほどこうとするが、がっちりと固定された腕はびくとも動かない。

 こんな力を持っているのは誰だろうと眉を潜めながらそのフードの中を覗くと――。



「――ッ!? あ、アウグスタさん!?」



 その人こそインスマスの町長オーベッド・マーシュさんの娘であるアウグスタ・マーシュであった。

 アウグスタは高ランク冒険者のパーティーである解放者(リベレーター)の一人であると同時にクトゥルフ様を信奉するダゴン秘密教団の一員である。いや、一員であったと過去形でいうべきか?

 そんな彼女に腕を捕まれたものの、よくよく見ればそれは人の腕ではなかった。

 五本の指がついた掌は消え、タコのようなおぞましい触腕が絡みついているのだ。そのような得体の知れない掴まれ方に背筋が震える。それと共によくよくアウグスタの顔を見ると頬に鱗のようなものが張り付いていることに気がついた。



「くっさいな。臭い臭い臭い――! あぁクトゥルフ臭い。それに裏切り者の臭いもする」



 声音こそアウグスタさんのそれだが腕をギリギリと締め付けられる力とその憎しみの籠もった声は彼女のものではないと直感した。



『おいおい。ただの人間じゃねーぞ。早く離れろ!』



 脳内に響く忌まわしい声に素早く呪文を紡ごうとする。

 だがその前にアウグスタの同行人と思わしき山羊のような顔の少女――少女? が間に入ってきた。



「な、なにをしているんですか!? アベルさん落ち着いて!!」

「ア、ベル……?」



 聞き慣れない名前に困惑しているとアウグスタはその山羊を思わせる少女を睨みつける。



「うるさい、コイツはぼくの敵だ。いや、ぼく()というべきかな?」

「アウグスタ、さん……?」



 その時、音をたてて腕に絡みついた触腕が締め上げにかかる。普通ならば簡単に腕が押しつぶされてしまうような力が加えられているが、それに反して腕に変化はない。



「――!? なるほどね。魔力による装甲の付与を受けていたか。面倒なことを。忙しいのに手間をかけさせやがって……! これもクトゥルフのせい? でもこんな魚臭いやつを見過ごすことはできないしねぇ」



 忌々しそうに吐き出された言葉に心臓がばくりと高鳴る。



『き、ヒヒ。やっぱりその手の奴か。それにこの触手にクトゥルフへの憎悪。間違いねぇ。ハスターだな。奴がこの娘に憑依していやがる……!』

「はす、たーさま?」



 その時、アウグスタの目が見開かれた。



「へぇ……。こんな短時間でぼくを看破するとはすごいね。ますます生かしておけないじゃないか」

「……ッ。あッ。『          』」



 その時、口が勝手に冒涜的な呪文を口ずさむ。すると不可視の拳がアウグスタを――ハスター様を直撃し、文字通り弾き飛ばされ数メートルも転がる。

 もっともがっちりとハスター様に腕を捕まれている手前、わたしも路地へ吹き飛ばされ、ゴロゴロと転がり込む。だが弾き飛ばされた衝撃で触腕がほどけてくれたが……。



「いったぁ……。い、イゴーロナク様、いきなりヨグ=ソトースの拳の呪文を唱えるのは『うるせー。テメェの御主人が施した肉体の保護も限界だ。こうでもしねーと腕を引きちぎられてたぞ。くそ、だがやっこさんまだまだやるそうだぞ』」



 イゴーロナク様の言うとおりハスター様は弾き飛ばされた体を無造作に動かし、戦闘を再会しようとしている。



「『おい、体の支配権を寄越せ』もうとってるじゃないですか『き、ヒヒ。それもそうか』でも、お任せしてもよろしいでしょうか? 『テメェがやるより上手くやってやるさ。なに、テメェの体は上物だから傷つけねーようにしてやるよ』ご配慮はありがたいのですが、それじゃどうするのです? ここで戦うのですか? 騒ぎを起こすのは得策では『アホ。オレも荒事は嫌いなんだ。交渉だよ、交渉。テメェの大好きなナイアーラトテップ様ほどじゃないが交渉は得意なんだよ。任せとけ』」



 そして殺意の固まりのような視線を投げつけてくるハスター様が立ち上がるとともにいゴーロナク様は両手をあげて戦意がないことを示された。



「『おい、待て待て。オレだよ、オレ! イゴーロナクだって!』」

「イゴーロ、ナク?」

「『そうそう。なんだ、テメェも封印が解かれてたのか。良かったな! こうして自由の身になれてさ』」

「どういうこと? ()()の記憶によればそいつはナイアの従者で、クトゥルフを不完全とはいえ復活させた奴だろ? それにインスマスに忌々しい半魚人共を招いた張本人でもある。ぼくとしては殺さない理由がない」

「『そうなのか? 俺はノーデンスにくそったれな裏切り者を始末するのを交換条件に封印を解かれた口でよ。たまたま魔力の高そうなこの体の主に『グラーキの黙示録』を読ませて体を乗っ取った後、あいつの元を離れてきたのさ。なんだ? テメェもノーデンスからナイアーラトテップを抹殺するために封印を解かれた口じゃないのか?』」



 ん? んん?

 イゴーロナク様が勝手に過去のねつ造を始めている。それも微妙に真実を混ぜているあたりが巧妙だ。

 それにそこはかとなく自分はあなたの味方ですオーラをだしていらっしゃる。小賢しいというか、小狡いというか……。さすがは悪徳を司るイゴーロナク様だ。



「ぼくはクトゥルフの眷属が跋扈する町があるからそれを解放するよう請われて封印を解いてもらった。それより君、本当にイゴーロナク?」

「『あぁよ。にしても懐かしいな! よし、今宵は飲もうぜ! せっかく受肉したんだしよ、人間ごっこして封印が解けたことを祝おう!』」

「………………」

「『んだよ、その訝しそうな目は? あ、それと今、俺はこの体の名前であるハワトって名乗っているからそう呼んでくれ』」

「……分かった。ぼくも今はアベルと名乗ってる」

「『そうか! それじゃ再会を喜ぼうぜ、アベル!』」



 バンバンとアウグスタの体を強く叩きながら笑うイゴーロナク様だが、さすが悪徳をこのよなく愛するだけあって嘘がお上手である。

 もっともこの調子ではしばらくわたしは表に出れないようだ。



「『で、あいつは誰だ?』」

「ん? あぁ。彼女はウィルバー。ウィルバー・ウェイトリー。なんでもこの街に本を探しにきたんだって」



 ウェイトリー? その名はどこか聞いたことがあったように思う。はて、どこだったっけ?

 そう思っていると酒場の前に立ち尽くしていたウィルバーが心配そうに駆け寄ってきた。



「あの、お二人ともなにがあったか存じませんが、いきなりその、喧嘩なんて――」

「え、えと……」



 ハスター様がどう言いつくろうかとしどろもどろになっているとイゴーロナク様が助け船をすかさずだした。



「『もう解決したので大丈夫です。それよりアベルから聞きましたが、ウィルバーさんとおっしゃるのですね。わたしはハワトと申します。この通りマジックキャスターをしていて』」

「あ、ウィルバー・ウェイトリーと申します。えと、ハワトさんはアベルさんとはどういうご関係なのですか? 冒険者仲間でしょうか?」

「『そうなのです。以前、とあるクエストで知り合いったのですが、その時の報酬に関して互いに認識の齟齬がありまして……。お見苦しいところをお見せしました』」

「い、いえ、そんな。でも誤解は解けたのですよね。よかったです」

「『えぇ、本当に、そうだ。ここで出会ったのもなにかの縁ですし、せっかくですし今宵は女子三人で飲み明かしましょう!』」




 「良いんですか?」というウィルバーを引き込み、イゴーロナク様は先ほど出ようとしていた酒場に舞い戻りや、何食わぬ顔でお酒などを注文して巧みな会話で三人(二柱と一人?)をリードする。まるで十年の知己のような歓談を終え、なんと宿も一緒に取ろうと言う話になり、わたし達はホテル・ミスカトニックの三人部屋に宿泊することになった。

 す、すごいコミュニケーション能力だ……。


 ◇


 ……夜が明けている



「――ッ!?」



 とろんとした意識が覚醒すると共にガバリと身を起こすとズキリと鈍い痛みが頭に走った。

 チカチカする視界をゆっくりと動かすと高給そうな調度品が並ぶ寝室にいるようだが、アチラコチラに服が散乱していてまるで嵐が舞い込んできたのかと錯覚するほど荒れていた。



「えと、わたしは、どうして――」



 すると脳の奥からキヒヒという不気味な笑い声と共に『お目覚めか?』と声をかけられた。



「イゴーロナク様? これは、いったい?」

『覚えてねーのか? 女子会だよ、女子会。有り金全部溶かして飲みまくっただけだよ』



 確かにイゴーロナク様の音頭でお酒を口にみんなで飲んでいたのは覚えている。だが四、五杯目くらいからの記憶があやふやだ。

 ――ん? 有り金全部?



『キヒヒ。そうだよ。ウィルバーだっけ? そいつとハスターが持ってた金を全部酒に換えてやった! ざまーみろだ! キヒヒッ』



 なんて小悪党なことを自慢げに……。

 ふと自分が先ほどまで寝ていたベッドを見下ろすと両脇に穏やかな寝息を立てる二人が――一人と一柱がおられた。

 それも一柱の方は生まれたままの姿であり、寝息と共に上下する薄い胸板がありありと目に映った。



「え……。あれ? わたしもなんで全裸なんですか!?」

『そりゃ服を脱いだからに決まってるだろ』



 悪意と愉悦に満ちた波動に頭が揺さぶられ、鈍痛が加速する。さすが悪徳の神様だ……。

 もっとも一人の方はシャツをしっかりと着込み、すやすやと気持ちよさそうに寝ている。



『――ん? どった? そいつの顔になんかついてるのか?』

「いえ……。ただ、見たことある顔だなって」



 だが思い出すことができない。まるで靄がかかってしまっているような……。



『どうやら記憶が封印がされてるみてーだな』

「封印ですか?」

『あぁ。あんまりにも馴染み過ぎてて今まで気づかなかったが、高度な封印が施されてる。魔法の遅れたこの世界でこんな封印が出来るのはテメェの敬愛する主人だけだろうが、なにを封印したんだ?』

「……覚えが、ありません」



 ナイアーラトテップ様がわたしの記憶を封じたという記憶もない。それさえも封印されてしまっているのだろうか?

 なら一体なんの記憶を封印されたのだろう?



『解呪してやろうか?』

「……いえ、ナイアーラトテップ様が斯くあるべしと思われて封印されたのなら、そのままにしておくべきかと」

『ケッ、気持ち悪いほどにべったりしやがって。そんなにいいかね? あんな裏切り者が』



 むっと抗議の声をあげようとした時、「うるさいよ」と怒りの声がぶつけられ、背筋が粟立ってしまった。



「おはようございます。偉大なる黄衣の王――ハスター様! 昨夜はとんだご無礼を……!」

「ん? イゴーロナクじゃないな。その依り代? なんだ君、まだ体を乗っ取っていなかったのか」

「『ま、コイツはニャルラトテップのもんでもあるしな』」

「今度はイゴーロナクか。君ってそういうところあるよね。ナイの所有物なら気を遣うことなんてないだろうに。まったくの小悪党なんだから」



 うるせー、とイゴーロナク様が捨てぜりふを残して沈黙するとハスター様はもぞもぞとベッドから起きだし、小さい呻き声と共に右手で頭を押さえる。



「いったぁ……。あれ程度の飲酒で状態異常になるなんて、なんて不便な体なんだ」

「ハスター様! お召し物を――」

「あー。いいよ。君、ボクの従者でもなんでもないんだから。それより君も服を着たら? 智恵あるものなら、その姿は恥ずかしいと思うけど」



 ハスター様は部屋の惨状に顔をしかめつつも自分の服を探し出す。それになんと声をかけようかと思ったが、それ以前に自分のふしだらな姿を晒してしまった羞恥が勝った。



「し、失礼します……」



 いそいそと下着を身につけ、ナイアーラトテップ様からいただいた服に袖を通していく。

 そうしているうちに今度はベッドから「いったぁぁッ」といううめき声と共にウィルバーが起床する。

 衣類のボタンをキッチリと止めたままの状態で寝ていたせいか、彼女の着るシャツは皺だらけになってしまっていた。



「おはようございます」

「あ、おはようございます。えと、ハワトさんでしたね。昨夜はお恥ずかしいところを……」

「は、はぁ。すいません。実はなにも覚えてなくて……」



 どうして彼女は頬を赤らめているのだろう……。

 一体イゴーロナク様はなにをやられたのか気になるが、当のイゴーロナク様は答えられるつもりもないらしく、ハスター様は無言で着替えに邁進しておられる。

 そしてフードのついた濃紺のローブに袖を通した時、ハスター様は黄色い雨衣を目深に被って扉に手をかけようとされた。



「それじゃ」

「ハスター様? どちらへ行かれるのです?」

「インスマスだよ! 君が呼び込んだ深き者を駆逐しにいくんだ! ま、君はもういいや。とにかくぼくは町に行く。それじゃ」



 その憎悪の籠もった瞳に思わず悲鳴を漏らしてしまうが、そんな怒れる神にウィルバーは果敢にも「もう行っちゃうのですか?」と訪ねた。



「ぼくはやらなきゃならないことがある。そのためにこの世界に降臨したんだ。君だって自分の目的のためにアーカムまでやってきたんだろ」



 冷たく言い放つような言葉を残してハスター様がノブに再度手をかけた時、そのお腹から空腹を訴える抗議の声があがった。

 そのなんとも言えない沈黙の中、頬を紅潮させたハスター様はプルプルと震えながら「なんて不便な体なんだ」とこの世の全てを恨むような声を出された。



「あの、アベルさん。よろしければ一緒に朝ご飯でも――」

「好きにしてッ!」



 やけっぱちになったハスター様は手近な椅子にどっかりと腰掛け、そっぽを向かれる。

 そのお姿になんといったらよいのかと口元がひきつっているとウィルバーがわたしに苦笑を向けてきた。たぶん、わたしも苦笑していると勘違いされているらしい。

 それになんとこのお方の偉大さを説明しようかと思ったが、よく見るとウィルバーはもじもじとシャツの一番下のボタンを外したりつけなおしたりと一向に着替えが進んでいないことに気がついた。

 その視線に気づいたのか、ウィルバーは恥ずかしそうに言った。



「あの、恥ずかしいので、部屋を出ていただけますか?」

「え? そうですか?」



 同性なのだから気にすることはないだろうに。

 だがそう言うのなら仕方ない。それに昨夜何かしらの一件があって誤解を与えてしまったのなら、それを払拭するためにも退室したほうが吉だろう。



「ここはホテルミスカトニックですよね? だったら朝食のサービスがあったはずなので先にホテルの食堂に行っておりますね」

「急いでいるんだからあんまり遅れないように。食べ終わったらぼくはもう行くから」



 ハスター様がぶっきらぼうに言い放つと、食堂めがけてずんずんと歩き出す。

 その後を急いで追いかけると扉を出たところで立ち止まっているハスター様がおられた。



「あの、ハスター様、食堂はたぶんこちらです」

「う、うん。そうか。ぼくも思い出してきた」



 そういえばハスター様の依り代となっているアウグスタもホテルミスカトニックに宿泊していたことがあったか。

 そして気まずい空気をたたえながら食堂に乗り込み、メニューを注文してしばし。ウィルバーが追いついてきた。



「お待たせしました……!」



 荒く息をつき、額にうっすらと汗を浮かべたその姿からだいぶ急いできたことが伺える。

 彼女はこまめに服の乱れを気にし、謝罪を浮かべながら席に着くとやっと安堵を浮かべた。

 それからすぐにオーダーをいれると三人分の朝食が運ばれてきた。

 ぷるるんと輝く目玉焼き、青々としたサラダ、香ばしい香りの焼きたてパン――。それらに舌鼓をうつが、「おいしい」と感想を漏らしたのはウィルバーだけであった。

 ハスター様は矮小な人間風情が口するもので満足を覚えることはないのだろうし、わたしにとっては薄味過ぎるように思えて仕方ない。



「あのアベルさんはもうインスマスに出立されるのですか?」

「そうだけど?」

「あの、短い間でしたが、本当にありがとうございました。この命を救ってくださったことを深く感謝いたします。ここの宿代などはワタシがお支払いします。もちろんこれだけでご恩を返せたとは思っておりません。アベルさんの目的が達成したらぜひダニッチ村に来てください。何もない村ではありますが、歓待させていただきます……!」



 そのキラキラと輝かしい瞳をハスター様は迷惑そうに受け止めていたが、ふと何かを考え、そして少しだけ笑っておっしゃられた。



「そう、だね。全て終わったらそっちに行ってみるというのもいいかもね」



 どこか、寂しげなハスター様の様子から、このお方はもしかして自分と引き替えに深き者からインスマスを取り戻そうとしているのではないかと思えた。

 でも深き者のおかげでインスマスは金が手に入るようになったし、魚も自分から網にかかりにいくようなほど豊漁が続いているという。

 そんなインスマスから深き者を追い払ってはまた町が衰退してしまうのでは――。



(『キヒヒ。それをコイツに言ってみたらどうだ?』)



 たぶんわたしという存在が終わってしまうと思うので遠慮します。



「そ、それよりウィルバーも、まぁ、アレだ。目的が達成できるといいね」

「はい! がんばります!」



 目的? と首をひねるとウィルバーは本を探しているのだという。

 どうも魔法を教えてくれていた祖父が他界し、その後は独学で勉強していたそうだが、家にある魔導書では欠落したページもあり、学習に限界を感じていたとのことだ。



「早くその本の完全版を見つけないといけないんです。じゃないと家に残してきた母さんと妹が――。だからワタシもがんばらないと!」

「へー。大変ですね。ちなみにその本のタイトルはなんでしょう?」

「あまり大きな声では言えないのですが『ネクロノミコン』というもので」



 心臓が跳ね上がるとはまさにこのことだったか。

 だがうまく動揺を隠せたらしく、ウィルバーには気づかれていないようだが、ハスター様はいぶかしげにわたしを見てきている。



「祖父の話だとミスカトニック大学図書館の蔵書にあるらしくて」

「そうなのですか。見つかるといいですね」



 するとキヒヒという笑い声とともに黙ってていいのかよ、と問われた。

 しかし今は不遜な教会が邪教徒狩りと称して星の智恵派を始めとした世界の真実を探求する者達を弾圧しており、『ネクロノミコン』は彼らにいわしめると悪魔の書らしく、見つけ次第焚書にされているという。

 もし『ネクロノミコン』を求めるウィルバーが教会に捕まってしまった場合、彼女との繋がりがあると見なされれば教会はわたしのことを地の底まで追いかけてくるだろう。

 そんな危険を回避するため黙っていることにしたいが、それ以上に黙っている方が面白そうなことが起こりそうな予感がする。

 面白ければ吉、面白くなければ……。その時はその時だろう。



(『ますますアイツに似て来やがって、気味が悪いぜ』)



 お褒めにあずかり光栄です。


 ◇

【ナイアーラトテップ視点】



「待てど暮らせど、ハスター君は来ませんでしたね」

「だからってこんな朝早くからボクを連れ出すことはなかったろ。まだ眠いよ」



 インスマス発の定期便の馬車にゆられ、朝の活気を見せるアーカムにたどり着いたとたんにクトゥルフ君――カイン君は顎がはずれんばかりのあくびを披露する。

 もっとも馬車の中でもずっと眠ってきていたのだがな。



「まずはハワトと合流しましょう。恐らく彼女ならホテルミスカトニックに宿を取っていることでしょうし、そちらに行きましょう」

「ナイアに任せるよ。あーあ。眠いなぁ」



 ふらふらと歩くカイン君の背中を押し、私達はホテルミスカトニックへと向かうのだった。


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