昼の森
【ハスター視点】
無事に儀式も終わったので取りあえず町に向かうべく下山を初めて早二時間ほど。適当に下へ下へと向かっている最中、木の根に躓いて思わず転びそうになった。
「くっ、なんて不便な肉なんだ……」
せっかく永劫に近い封印から解き放たれ、こうして現界したというのにこのアウグスタという娘の体は風のように飛ぶことも出来ないし、なにより窮屈で仕方がない。
くそ、なんて重い体なんだ。
「この名状し難きモノたるぼくがどうしてこんな目に……」
風を司る旧支配者たるぼくがどうして地べたを這いずり回っていること自体がおかしいのではないか?
そもそもここは一体どこだろう。
とりあえず丘から直線上に見えた街へ行くのが早いだろうと思って森に分け入ったが、完全に自分がどこを歩いているのか検討がつかなくなってしまった。
「こんなことなら道を探したほうが早かったかな?」
当て所なく森を散策するのは気持ちの良いことだが、ぼくにはクトゥルフの眷属である深き者共を殺すという大事な使命がある。
それはこの体の主と同じ望みであると同時にノーデンスがぼくに提示した解放の条件でもあった。
もしクトゥルフの勢力を一掃出来れば封印を完全に解くとあの旧神は言っていた。
おかげで精神体でしかこの世界に入れなかったし、何よりこうして入れ物なしでは活動できない不便な目にあっている。
「くそ。本来の力の百分の一も発揮できないなんて、なんて不便なんだ。これもそれもどれもクトゥルフのせいだ。絶対に殺してやる……!」
きっと森に迷ってしまっているのもクトゥルフのせいに違いない。
次、会った時どういう風に殺してやるか考えながら森をさまよっていると、ふと風に血の臭いが混じっていることに気がついた。これは……?
「ま、行く宛はないんだし、立ち寄ってみるか」
臭いの元へと足を進めるとそこは開けた街道のようであった。たぶん、正規のルートを辿って下山したならば、この道に合流しそうな感じの道だ。
やっと道に出たか、と安堵を覚えると共に街道に数匹の狼のような生き物に取り囲まれた人間がいる事に気がついた。
それは頭に一本の角を生やした狼のような生き物で、低く唸りながら彼女の周囲をぐるぐる回っている。どうもじゃれついている訳ではなさそうだ。
そんな狼擬きに囲まれた人間はぴっちりと脚に張り付いた黒のタイツに丈の短い緑のスカートを履き、白いブラウスの上にサイズのあっていない胸当てを身につけているという非常に露出の少ない出で立ちをしていた。
「おと……、いや、女?」
人間の顔の区別を区別するのは至難だが、その長い黒髪からして恐らく女だろう。だがいやに身長が高い。それに特徴といえば異様に細いその顎だろうか。まるで山羊を思わせる。
とはいえ、山羊ほどの好奇心も戦闘意欲も旺盛というわけではないようで、タイツに包まれた黒い足がぶるぶると震えてしまっていた。
うーん。どう見ても武具に着られているような素人だな。それに、パッと見だが得物らしきものが見当たらない。徒手空拳使いなのか? いや、それにしてはひ弱そうな外見だ。
そう思っていると少女が意を決したようにナニカを呟いた。
「 」
それは驚愕すべきことに有史以前に使われていた冒涜的な言語だった。
この身体の記憶を覗けばこのような魔法が扱える人間は一人しかいないはずなのだが……。
そう驚いていると不可視の拳が二体の狼擬きを森の彼方へと弾き飛ばす。あれはヨグ=ソトースの拳という呪文か?
「驚いた、人間でもこんなことができるんだ……。でも長くはもたなそうだな」
アウグスタの記憶からするとSランクのマジックキャスターでもあのような魔法は扱えないらしいが、それでもまだ狼擬きは十体近くいる。多勢に無勢もいいところだろう。
それにマジックキャスターとは接近戦に弱く、無手なところからも(むしろマジックキャスターだから無手なのか?)終わりが近いのは目に見えていた。
ま、弱い者から食べられてしまうのは自然の摂理だ。
羊も弱り、群から離れた個体から狼に食べられてしまうのと同様、それは人間とて違いはない。そうして命は命を繋ぐために消費され、やがて大地へと還り、草木となって羊達を養っていく。
そうした大循環をこのまま観察していても良いが、それよりもまずクトゥルフの眷属を殺したい。だからすぐにでもインスマスに行くとしよう。
「――と、思ったけど」
心の奥底がざわめく。この体の主がアレを助けろと言っているようだ。
すでにその無意識までぼくが支配しているはずなのに自我を保っているなんて、すさまじい精神力の持ち主だな。その点は評価してやろう。
「まったく……。君にとって深き者に苦しむ故郷よりも目前の人間を助ける方が優先なの? あー。わかった、わかった。ま、この肉は重くてたまらない。少し慣らしておいたほうがいいだろうしね」
再度、山羊に似た人間を囲う狼もどきを観察するが、相手の数は十一匹で間違いなさそうだ。これくらいなら一瞬のうちに終わるだろう。
そう思っているとぐるりぐるりと人間との間合いを測っていた狼擬きの一匹が後ろ足に力を入れたのがわかった。
それが動き出す直前、ぼくは大地を蹴り、骨の消失した左腕を伸ばす。鞭のように延びたそれは過たず狼もどきの足首に巻き付き、抵抗される前に宙へそれを放り上げ、次の瞬間には別の狼もどきにそれを叩きつける。
骨と肉の軋む音が交わり、憐れな悲鳴が小枝を揺らした。奇襲としては上々――。
「まずは二匹……」
「――!? あ、あなたは!?」
「ただのお人よしだよ、それよりよそ見はしない」
闖入者の存在に狼もどきの行動が一瞬だけ止まるものの、即座に脅威度の低い人間に向けて一斉に飛びかかろうとする。
だがその直前に左腕の触手が鋭く弧を描いて二匹の狼擬きの腹を撫でるや、その体は二つに断裂し、温かな臓腑を撒き散らしながら崩れ落ちた。
しかし残りの七匹は同胞にかまけることなく人間へと飛びかかろうとする。それに人間は何か呪文を唱えようとしているが、残念ながら狼擬きの方が早い。
だが狼擬きよりぼくの方が早い。
触手を返す刀で震える人間の手首に巻き付けて、彼女を引き倒しながら狼もどきとの間に飛び込み、手近な一匹へ回し蹴りを鼻先にたたき込んで弾き飛ばすと共に右腕が腰から短剣を引き抜く。
人間を握っていた触手を放しつつ、コマのようにくるりと回れば次に襲いかかってきた狼もどきの鼻づらを短剣で斬りつけて弾き飛ばし、残りの五匹に対して触手を横薙ぎがヒットする。すると熱したナイフでバターを切るように狼もどきの体は次々と崩壊してしまった。
ついでに風を操って血しぶきが飛んでこないように気を払いつつ、唯一の生き残りの一匹を見やる。それはすでに戦意を喪失しているようで、尻尾を丸めて森の彼方へと遁走しはじめるところであった。
「追撃は……。まぁいいか。これで君も満足だろ?」
宿主のご機嫌は上々。それにこっちも身体の動き具合を確かめられたので良しとしよう。
窮屈だが、まぁ思ったほど悪くはない体だ。よく鍛えていたのだろう。
おかげでクトゥルフの眷属と戦うには十二分だ。
「それにしても、やっぱり肉がまとわりついているぶん、体が重いな。まったく、これもどれもクトゥルフが復活なんかするから――」
「あ、あの……」
「ん?」
あ……。こいつがいるのをすっかり忘れていた。
確か、人間の精神は貧弱でもろいんだっけ? イゴーロナクだったかナイアーラトテップがそんな事を言っていたような気がする。
だから自分達の常識外のモノを目の当たりにすると精神の均衡を失い、最悪発狂してしまうとか。
――と、なると人間の体から腕の代わりに触手が生えたり、皮膚ではなく鱗が生えている姿を見せるのはまずい。せっかく助けたのに廃人となってしまっては助けた意味がない。
いや、ウォーミングアップとして戦っただけでも良いけど、それだけだと味気ないし……。べ、別に人間の事が気になっているわけじゃないし。
「えと、そう。怪我はない?」
黄色の雨衣をまとい直し、顔が見られないようにフードを目深に被る。
もっともそれは遅かったらしく、彼女は地面にへたり込んだまま小刻みに震えていた。
あちゃ……やっちゃったか。
でも見たところ怪我はないようだし、助けはしたのだから義理も果たしたというものだ。
そう思って立ち去ろうとしたものの、「あ、ありがとうございました」という言葉と共に立ち上がる気配を感じたが――。
「きゃ……。こ、腰が」
振り返れば内股で座り込む人間がいた。彼女はどうにか立ち上がろうとしているが、腰が抜けているようでうまくいかない。
このまま置いて行ってはまた狼もどきのご飯になりかねないな。
「はぁ……。君はどっちに行くの? 街?」
「は、はい」
「なら良かった。ぼくも街に向かっている。ほら、背中を貸そう」
「でも――」
「君、立てないでしょ。あいつらがいつ戻ってこない保証はどこにもないんだよ。もっともこんな化け物と関わり合いたくないなら話は別だけど」
「す、すいません……!」 と頭を下げる人間のもとにゆき、背中を向けると共に彼女はあの! っと顔をあげた。
山羊に似た細長い顔立ちの彼女は「お名前は――?」と訪ねてきた。
名前か。この体の個体名であるアウグスタと名乗るか? いや、ぼくは今アウグスタではない。もちろんアウグスタの記憶を保管する脳ごと彼女に憑依しているのだからアウグスタと名乗っても問題はないのだが……。
なんだか人間のような矮小な存在の名を名乗るのはなんとなく癪だ。
それにアウグスタのお節介焼きを知る者と出会ってしまい、厄介毎を押し付けられないとも限らない。
かと言って本名を名乗って万が一にそれがインスマスの者の耳に入ったらいらぬ警戒を抱かれることだろう。ま、その程度でどうにかなるぼくではないが、念のために偽名を名乗るのがいいだろうな。
「……アベル。そう、ぼくはアベルという」
「アベル様! 素敵なお名前ですね」
いつまでも人間と呼んでいては不便だ。しばらく道を同じくするのだから個体名くらい聞いておこう。
「で、君は?」
「私はウィルバー。ウィルバー・ウェイトリーと申します」
山羊顔の少女はダンウィッチ村のウィルバー・ウェイトリーと、そう名乗った。
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