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海の朝

 不快な潮風が開け放った胸元から体を抜けていく。

 一晩飲み明かした不快感が心地よく胸の中で蠢く中、インスマスの朝をハワトと共に散策しているとチクチクとした視線が四方から向けられている事に気がついた。



「ふむ。よそ者は歓迎されていないようですね。皆さま疑心暗鬼になられている」



 外から不幸がやってくると思われているのかもしれない。

 もしくはあの日、インスマスの運命が落転したあの日の教会で私達の姿がオーベッドと共にあったことを思い出してくれているのかもしれない。どちらにしろ歓迎されていない事に違いはないか。



「ナイアーラトテップ様になんと不敬な……! 到底許される事ではありません。こんな無礼な町はいっそのこと灰燼に帰してしまいましょう」

「こらこら。せっかく()()()町を破壊してどうするのです」



 ハワトの純真な心は失われて欲しくないものだな。

 この眩しい心は見ていて飽きないし、心地よい。

 そうした無垢で、無知な信仰というのはなかなかどうして可愛いものだ。



「それにしてもこの賑わいを彼も見たら良かったのに……」

「カイン様のことですか?」

「えぇ。ですが彼は朝――と、言うより起きている事が苦手ですからね。なんといってもカイン君は厭世家なので、この世の出来事に関心を寄せるようなことをしないんですよね」



 家を出る際に酔いつぶれたオーベッドと共にソファで意識を混濁させる彼を思い出し、思わず笑みが蘇って来る。

 彼は昔から起きる事が億劫であり、一度寝たものなら――。



「ナイアーラトテップ様?」

「……いえ、なんでもありません。少しだけ、昔を思い出していただけです」



 あの頃のことを思い出すと口元に自然な笑みが浮かんでしまう。それほどあの頃は全てが輝いていたものだ。

 だが『あの頃は良かった』など口が裂けても言うまい。思うまい。考えまい。

 しかし……。どうしてこうも無性に熱いものかしさがこみ上げて来るのか。

 その熱いものを壊したのは私だというのに――。



「寝坊助たちは置いておいて、私達は朝食としましょう。どこか、お店があると良いのですが」

「はい、一生懸命に探しますね!」



 当てもなく町を彷徨いながら町の中央を流れるマニューゼット河の畔を歩いていると一軒の工場が黙々と煙突から黒煙を吐き出しているのが見て取れた。あれこそマーシュ精錬所だろう。この町で唯一可動している金の精錬所だ。

 興味本位にその様子を覗きに行くと槌の振るわれる音がするものの外に人影は見当たらなかった。



「なんとも静かな所ですね。人がいないようではありませんか」



 レンガによって組み上げられた大きな建屋を見上げると相変わらず黒雲が煙突より湧き出ているようだが、賑わいに類するものはまったく見当たらない。

 まるで何かに怯え、ひっそりと隠れてしまっているようだ。



「ふむ、思ったより面白味がありませんね」



 精錬所の中に入って様子を見学するというのも手ではあるが、操業中に許可なく立ち入るのはよろしくないだろう。

 その足のままマニューゼット河をさかのぼり、インスマスの中心地へと向かっていく。

 すると漁師と思わしき荒々しい風体の一団と黒い修道服姿の一団が互いににらみ合っているところに出くわした。あの黒い服は確か星神教の連中か。



「あれは何かあったようですね」

「行ってみますか?」

「そうしましょう。なにやら面白い気配がします」



 その一団に近づくと漁師達が「出て行け! 出て行け!!」というシュプレヒコールのように同じ言葉を連呼しており、それを教会の連中は憎々しげに「星々の罰が下るぞ!」や「不信心者はことごとく地の底に落ちるぞ!」となにやら物騒な事を叫んでいる。

 そんな中、漁師の一人の肩を叩き、何があったのか尋ねると彼はまくし立てるように言った。



「奴らが紛いものの神を押しつけてくるから立ち退きを迫っているところなんだ。あんたは奴らの味方か!?」

「いいえ、まさか! 経典を崇めても魚は降ってきませんからね。共に戦いましょう!」

「おうッ! 出て行け! 出て行け!!」



 それに連れられるように共に出て行けコールをハワトと共に行っていると教会の方から歳を召した男が出てくるや両手を打ち鳴らして周囲の喧噪を止めた。



「インスマスのみなさん! 聞いてください! 我らはアーカムより派遣された異端審問官です! みなさんが崇拝している神は邪神であり、町全体に異教信仰の嫌疑がかけられているのです。このままではみなさんは悪しき神により滅びを迎えてしまうことでしょう! 我らはその信仰を正すべく――」

「うるせー! 星に祈って魚が穫れた試しなんざねーんだよ!!」

「そうだ! そうだ!!」

「今の神様は俺達に魚を金を与えてくださるんだ!! いあ! いあ! くとぅるふ!!」



 息を吹き込みすぎた風船のように怒気が膨れ上がる。

 こ、これは――! これを言わなくては――!



「みんな! やっちまえッ!!」



 ぱんぱんに膨らませた風船はしっかりと割るべきだ。

 だからこそこの一言で荒くれ者が多い海の男達が拳を手に駆け出し、乱闘が始まる。

 あぁ己が神のために血沸き肉躍る戦いをするなど、そのような純真な闘争心は心を揺さぶってくれる。美しいものだ。



「ハワトさん。どうでしょう。やはり面白いことが起こりましたね」

「ナイアーラトテップ様の御慧眼に敬服するばかりです。おかげで朝から良いものが見れました!」

「しかし対岸の火事は見ているから楽しいというもの。我々はここいらで離脱しましょう」

「はい!」



 ぼこぼこと醜い乱闘を後目に別の路地に入り、そのまま歩くと町唯一の宿屋であるギルマンハウスの前に出てしまった。その通りを行くと小さな商店が営業しており、その前であか抜けた青年が遠くから響く喧噪を見ようと背伸びをしていた。



「おや? おはようございます」

「あぁ、おはようございます。見かけない人ですね。旅のお方ですか?」

「えぇ。ご明察の通りです。貴方もなんだかインスマスの人ではないような感じがしますね」

「そうなんです。アーカムからここの支店に飛ばされてきたんですよ」



 彼が指さした店はこじんまりとした小さな店ではあるが、店名にはインスマス支店と書いてあるようにどうもどこかのチェーン店であるようだ。



「一国一城の主と言えば聞こえは良いんですが、店長兼店員のお粗末な城なんです。要は島流しですよ」

「ご苦労お察しします。貴方もお若いのにこんなさびれた町で営業とは……」

「まったくです。早くアーカムに帰りたいのですが……。前任者が突然蒸発してしまったせいで、後任が他にいないからって無理矢理こんなところに……。まったく困ったものです」



 その前任者はおそらく深き者の手によってこの世から蒸発させられたのだろう。と、までは言わない。

 他愛ない世間話と共に彼の店で粗末なサンドイッチを買い込み、店を後にする。



「それにしてもまだやってますね。教会の連中も懲りないな」

「あの喧嘩ですか?」

「喧嘩ってもんじゃないですよ。先週くらいから毎日あんな感じですが、今日はいつもより過激ですね。いつもは罵りあいで終わるんですがね。まさか暴動に発展するなんて」



 なるほど。住民と教会の間はなんとも微妙なバランスに保たれていたのか。それを傾けてしまったのだから――。くすくす。



「アーカムも少し前からあの調子ですよ。邪神崇拝が横行しているって、血眼になって教会が邪教徒狩りをしているとか。その報復で教会に火をかける邪教徒もいるそうで、治安が悪くなっているそうですよ。あー。やだやだ」



 ふむ、どうやら前にインスマスに来た際にハワトが不完全ながらもクトゥルフ君を復活させたせいか、邪神崇拝が活発になってきているようだ。

 それに対する教会も黙っている訳ではなかったらしい。

 良い混乱ぷりだ。



「では私たちはこれにて」

「えぇ。良い旅を」



 青年と別れ、ぶらぶらと町をさまよっているとハワトが「ナイアーラトテップ様」と遠慮がちに声をかけてきた。



「どうしました?」

「あの、アーカムでは邪教徒狩りが横行しているとのことですが」

「えぇ。そのようですね」

「アーカムの同志が心配なので、一度アーカムに戻りたいのですが……」



 ふむ、確かハワトは『ネクロノミコン』の朗読会を行い、それに協調する者達を集めて星の知恵派なる集団を作っていた。

 その者達の事が心配なのか。



「そ、それに頼まれていた写本が完成したので納品のためにもアーカムに行かねばならないのです」

「そうですか。では私はインスマスにて待っておりますので、どうぞ」

「え――? 共にアーカムに行っては、いただけないのでしょうか」

「くすくす。そんな捨てられた子猫のような顔をしないでください。なに、私はしばしインスマスに留まりたい理由がありまして、それが終わり次第アーカムに向かいましょう」



 私としてはオーベットの娘であるアウグスタがどう動くかここで見定めたい。彼女のことだ。何かしらの手段を以ってインスマスに舞い戻って来るはずだ。それが行き違いになって見られないのは面白くない。



「何か問題でもありますか?」

「い、いえ……」



 くすくす。まるで雨の中に投げ出された捨て犬のようだ。

 もっとも嗜虐心こそくすぐられるものの彼女についていく理由はない。



「それほど手間は取らせませんよ。アーカムで落ち合いましょう」

「分かりました。この度は従者の我が儘をお聞きくださり、その寛大なお心に深い感謝を」

「えぇ。ではとりあえずどこか、このサンドイッチを食べられる場所に行きましょうか」



 そうして朝食をとった後、ハワトは彼女が書き上げた写本と真作の『ネクロノミコン』をブックバンドで止めるやそのまま旅立っていった。

 彼女は睡眠も食事もすでに必要としていない体であり、故にその身軽さで旅が出来るのだ。

 さて、この町で面白い事が起きるよう祈りつつ、私は待つとしよう。くすくす。


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