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目覚め・2

 ドンドンと乱暴にドアを叩くとしばらくして家人動き出す音がし、扉の向こうから「どなたか?」と声がかけられる。



「夜分遅くに申し訳ありません。ナイです。オーベッド・マーシュ町長」

「――! い、今開けます!!」



 ガチャガチャとオーベッドが鍵としばらく格闘する時間が過ぎたと思うと、解錠音と共に四、五十歳ほどの若干やつれた男が姿を現した。



「お久しぶりです」

「おぉ! ナイ殿! それにハワト殿も!! 貴方方の御来訪をどれほど待ち望んでいたことか。ささ、どうぞ。おや? そちらの娘さんは?」

「少々事情がありましてね。聞かないでいただけますか?」

「ナイ殿がそうおっしゃるのであれば」

「助かります。では迷惑ついでにアウグスタさんの服を彼女に貸していただきたいのですが、御息女様は御在宅でしょうか?」



 もっとも深夜を回っている時刻に当然来訪しておいて快く衣服を貸してくれるとは到底思えなかったが、オーベッドは快くそれを了承してくれた。

 なんと敬虔な人間だろうか。



「もちろんですとも。しかし、アウグスタは今、旅に出てしまっていて」

「そうなのですか?」

「ですがどうぞ。貴方様の申し出を断るわけにはまいりません。娘には後ほど事情を話しますので、どうぞ」

「ではお言葉に甘えて。ハワトさん。クトゥ――。いえ、カイン君の服を見繕ってあげなさい」



 「かしこまりました」とオーベッドの先導に消えていく彼女達を見送り、一度訪れた事のある彼の書斎へと向かう。

 その扉を開ければ一本の燭台が物で溢れる部屋を照らしていた。その燭台が置かれた机には一冊の線装本が置かれており、その周りには書きかけの紙やインク壺などが置かれていた。

 どうも熱心に写本を作っていたようだ。

 その写本をぺらぺらと眺めているとすぐにオーベッドが部屋に戻って来た。



「おや? もうよろしいのですか?」

「いくら枯れているとは言え、妙齢な女性の着替えに同行する訳にはまいりませんので」



 困ったような笑みを浮かべる初老の男だが、はっきり言って彼の倍以上の時間をクトゥルフ君は過ごしているので妙齢というのはどうも違和感を覚えてしまうが、訂正するような野暮な事はしない。



「まずは突然の来訪を詫びましょうか」

「いえ! とんでもない。むしろ心待ちにしておりました。貴方様のご帰還を」

「なんとも仰々しいことですね。面映ゆいかぎりです」

「そんな事はありません。貴方様はこの町を救ってくださった救世主なのですから」



 ……救世主、ねぇ。

 気がつくと口の中に苦いものが湧いてきている。

 あれほど昔のことだというのに……。



「救世主など、やめてください。ただ私は貴方の厚い信仰心に心を打たれただけなのですから。それで、その後はどうです?」

「おかげさまで深き者(かれら)から黄金を手に入れる事が出来ましたので、それを元手に外と交流をしております。ただ彼らの宝物を気味悪がる不敬な連中が多いので、仕方なく一度鋳つぶしてインゴットとして売り出しています。それに魚も再び戻ってきてくれたので塩漬けにしてアーカムやキングスポートに売り込んでいるのですよ」

「それは上々」



 最近の町の発展の話が続き、話題はいつしか彼の愛娘であるアウグスタの話へと変わった。



「――それで、町の発展に反比例するように娘が……」

「ただの反抗期なのでは? あのくらいの年ごろにはよくある事ですよ。きっと町の発展で肩の荷が下りて、年相応の振舞いをするようになっただけだと思いますが」

「そうなら良いのですが……。まさか町を出ていくとは……」



 話を聞くとアウグスタはインスマスで起こった惨劇――深き者を住民として誘致する事に反対し、反対派の住民を町外へ逃がすような事をしていたらしい。

 それもそうか。深き者はインスマスに協力しているのであり、協力とは片一方からの搾取ではなりたたない。両者が互いに力を合わせるからの協力であり、インスマスに富をもたらした深き者にその恩を返さねばならない。



「アウグスタだけじゃありません。町を出ていく愚か者もいるのです。ただ、彼らを家でもてなせば良いというのに」

「仕方ありません。ただ深き者を家に招いて食事を与える訳ではないのですから」

「それは、そうですが……」

「一夜を共に過ごす訳ですから生理的に受け付けないという者もおりましょう」



 深き者は人間と交配する事が出来る。

 そう、深き者がインスマスに求めるのは新しい血なのだ。数十億年もの同族同士の近親的な和合を続けてきた深き者は新しい血を欲している。

 そんな彼らを満足させた代わりに富をもらう。美しい協力だ。



「そもそもインスマスの見るに堪えない荒廃ぶりは子供――町の運営を担う若者が減少してしまったのも一端にあるかと思われます。それは他の港が開いたことで産業が減り、不漁で仕事が減ってしまったから若者達は町を出てしまったのでは? 逆に考えればもっと子供が出来ればインスマスに活気が戻るというもの。協力を拒まれる方はインスマスを滅ぼす悪しき住人であり、死んで当たり前。オーベッドさんもそう思いません?」

「え、えぇ。そ、そうですとも……! 深き者の協力なくインスマスはあり得ません! このままいけば町はすぐにでもあの頃の活気を取り戻すでしょう。いあ! いあ! くとぅるふ!!」



 ふむ、どうやらオーベッド・マーシュ町長はインスマスの人々のために町を復興させるのではなく、インスマスの復興のために人々を使うつもりなのだろう。

 目的と手段が完全に倒錯し、破綻している。故にアウグスタは町を出たのだろう。

 真の救いを求め、放浪の旅に、か。

 いやぁ。若いな。熟れを知らない青い果実のようだ。もっともその行動は酸っぱいというより甘いというべきか?

 だがそれもまた良い。絶望の中でもひたむきに歩き続ける姿こそ美しいのだから。例えそれが叶わぬとしても、それはそれで観閲に値する舞台となりえる。しばらくはインスマスの成り行きには耳をすましておこう。面白そうだ。

 そう思っていると書斎の扉が叩かれた。



「ナイアーラトテップ様。カイン様の御仕度が整いました」

「そうですか。ではお入りください」



 扉から美少女達が姿を現す。

 ほっそりとした脚を際立たせる濃紺のスカート。その上に目をやれば白いブラウスとそれを覆う様にフードのついた土色のローブ。

 元々、活動的なアウグスタの私物なだけあって無駄のない簡素なものだが、それ故にシンプルにまとまっていると言えよう。



「なかなか様になっていますよ、カイン君」

「そう? そうかな。胸元が苦しいんだけど。やっぱりこれは不便な肉だね」

「くすくす。そう言わないでください。ではオーベッドさん。ありがたくお借りいたしますね」

「ナイ殿のお役に立つのなら服も本望でしょう。それに娘は偵察者(スカウト)をしているせいか女の子らしい服を着たがりませんので、お気になさらずに」

「そうですか? ではありがたくお借りましょう」

「どうもね」



 力なくはにかむ姿にオーベッドはほがらかに「お気になさらずに」と言葉を返す。



「さて、皆様をおもてなししたいところではありますが、何分独り身ですゆえ、満足のいく歓待が出来ないのが心苦しくありますが、ちょうど金を売ったおかげで良い酒が手に入りまして。どうでしょう」

「それは良いですね。遠慮なくいただきましょう」



 そうしてその日はささやかな酒宴が催されるのであった。


 ◇


 小高い丘の上からアーカムの灯りを見下ろし、それから空を見上げればこの時期に正中に位置しないはずの星がそこに昇っていた。

 その中で一際輝く禍星を見ていると初夏だというのに体が止めどなく震えてしまう。

 それを紛らわすように手元の薄い本を見やればそこには”声”が導いてくれた通りの手順が書かれていた。その内容は二部構成の戯曲であるが、そこに記された恐るべき内容の通りに今は動いていた。



「大丈夫」



 幾度となく冒険のたびに呟いてきた言葉を口にし、己の勇気を奮い立たせる。

 そうだ。いつもそうだった。ワイバーンと戦った時も。グールに襲われていた村を守った時も。死ぬかもしれない時を何度も何度も経験し、それでも”大丈夫”と自分に言い聞かせながら唯一無二の仲間達を信じてと共に生き抜いてきた。

 だが、死線を共に越えてきたその仲間達は、今はいない。

 父さんの力になりたくて大切な仲間達さえを裏切ってしまったからだ。

 だが何者にも変えられない人達を裏切ってまで得た”救い”が”破滅”だと気づいたのは、何もかもが取り返しのつかない事になってからだった。



「ジーク……。クレア……。会いたい。会いたいよ」



 でもそれは叶わない。

 ボクはそれほどの罪を犯してきたのだ。

 神のため、ボクは冒険者として磨いた技を使って罪のない人を大勢殺めてきた。

 これがその報いならば、死さえも甘んじて受け入れよう。

 だがそれでも、それでもインスマスのみんなを救って、父さんの目を覚ましてから死にたい。



「さよなら。みんな」



 これから起こる事を”声”は告げてきたが、その時は儀式を執り行ってもボクには影響がないと言われていた。だが”声”が授けてくれたこの本を読んでいるとそれが気休め以外のなにものでもないことをボクは悟っていた。

 おそらく、この儀式を執り行えばボクは死んでしまうのだろう。

 それは怖い。ぱったりと自分の生が終わる事が怖い。例えそれが我が身から生まれた罪に報いるための罰だとしても、怖い。



「でも、()()がやらなきゃ、みんなが……。くッ。大丈夫、大丈夫――」



 無限に唱える呪文だが、時間は有限だ。すでに時は来たのだ。



「父さん。ジーク。……さようなら」



 重い腰をあげると体を覆っていた黄色の雨衣(ポンチョ)がばさりと風になびいた。それに押されるように昼のあいだに作り上げた魔法陣の前に立つ。魔法陣とはいえ、それは円や文字の集合体ではなく、ごろごろした石をV字状に並べた遺跡にあるような祭壇だ。

 その前で深呼吸を一つだけしてアーカムで手に入れた黄金に輝く蜂蜜酒の入った瓶をポケットから取り出し、封をあけるや一気にそれを飲み込む。

 じんわりとした咽せるような暖かさが体に落ち終えるや、瓶を投げ捨てる。

 「ぷはっ」という呼吸音と共にベルトに差していた奇妙なできの石笛を口につける。

 楽器の才などまったくないはずなのに指先が流れるように動きだし、優しく息を吹き込む。

 まるで風と風が擦れるような荒涼たる音色が夜空へと、正中に昇る凶星へと吸い込まれていく。

 気づけば虫の音も途絶え、アーカムの喧噪の遠くに行き、ただ風のざわめきだけがイヤに大きく聞こえる。

 そして石笛を吹き終えると体は自分の意思から離れ、耳の中を掻きむしられるような邪悪な呪文が叫ばれた。


 いあ! いあ! はすたあ! はすたあ! くふあやく ふんぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい! あい! はすたあ!!


 度数の高い蜂蜜酒を飲んだというのに体は芯から凍るように冷たく、吐く息さえ凍り付きそうだ。

 そうか。これは彼の神が封印された牡牛座の一等星――アルデバランと同じ空気なのだ。兄神に殺され、冷たく復讐の炎を立ち上らせる彼の神と同じ――。

 その時、正中に位置するアルデバランから何かが降り注いできた。

 あぁ! 寒気が止まらない。あれこそ人とは相いれないモノであり、人には理解できない存在! あれこそ名状し難きモノ! ハスター!

 これほど絶対的な存在の前に人など無力なのだ。何をしても、無駄なのだ。だからうすら寒い恐怖が頬を濡らしていく。

 そしてハスターは止まることなく地表に降り立った。正確に言えばボクの体の中に一陣の風が吹き抜けると共にハスターが進入してきた。



「う、うああああああああッ!?」



 身体の中に侵入してきた異質なモノに肌が粟立ち、思わず体を抱きしめると胸のうちから焼けるような痛が――。あぁッ! イヤだ。嫌だ。いやだ!! 寒い。許さない。兄さん、殺す。コロス……ッ!!

 止めどない感情の奔流が脳髄を焼き切り、体の力が抜けて穴という穴から液体が漏れ出す。

 最早身体が言うことを聞かない。

 暴れ狂う憎しみと恐怖と寂寥がせめぎ合い、思考が途切れ、そして一本へとまとまっていく。



「うあああああ、あッ、ぁあ!! ぁ?」



 意識が明確化してくると共に雨衣に包まれた左腕が赤熱する鉄の中に突っ込んだように痛み出す。それは頬にも現れ、今度は痛みで頭がおかしくなりそうだった。

 呼吸も絶え絶えになりながら雨衣に隠れた腕を確認すると、ボクの腕は骨が溶けたようにぐにゃりとしなり、手のひらは消えてまるで触手のようになっていた。だがそれがボクの腕である事を示すように触手は思いのままに動いてしまう。



「な、なに、これ……ッ!? え? ぇえ? どう、なっているの!?」



 恐る恐る頬を触ってみると、そこには蛇を思わせる硬質な鱗が一枚ついていた。剥がそうとすると激しい痛みが襲ってきて、それが()()の皮膚に生えたものだと教えてくれた。

 ……()()



「そうか。これが()()の体か。なんだか臭いな。クトゥルフ臭くて鼻が曲がりそうだ」



 さて、無事に地上へ降臨出来たな。

 気づけ全ての激痛は鈍痛へとなりをひそめだし、骨の消失した腕は昔からそうであったように体に馴染んできた。



「さーて。まずは街に戻ろう。大丈夫。()の願いはぼくが叶えるよ。だって、君もぼくもクトゥルフ(にいさん)の事が嫌いなんだからね。くく」



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