目覚め・1
漆黒の海へとカッターボートをこぎ出して少し。ハワトの施した精神の従属という魔法によりたまたま居合わせた不運な男とボートを借り受け、インスマスの沖合二・四キロメートルの海域に到着した。
そこは天と海の境さえ覚束ないどろりとした闇が停滞し、生温かい潮風と不吉な潮騒がまとわりつく。
ここはまるで世界の全てから忘れ去ってしまったかのようになにも存在しない。なんと寂しい場所だろうか。
しかし闇の中に薄らと不吉な形をした岩礁が浮かんでいた。地元の漁師が悪魔の岩礁と呼ぶそれだ。引き潮であることもあり、不吉な島影を映すそれから、生物の気配がしないはずなのに不躾な視線がいくつも投げられているような錯覚に陥ってしまうのは、私の気にしすぎだろうか? くすくす。
「ふむ、地球からインスマスにとんぼ返りをしたは良いですが、残念ながら星辰の位置がよろしくありませんね」
頭上に視線をスライドすれば無数の星々が複雑な運航を遂げていたが、残念ながら不正位置であり、望んだ配置ではない。
だが些細なことだ。魔力を大量に使いこめば問題はあるまい。
「ハワトさん。始めましょう」
「はい、ナイアーラトテップ様。 」
夜空から背後のハワトを見やると、闇の中だからこそ際立つ彼女の乾いた白髪がゆれる。彼女は何事かを呟くとボートを漕いでいた男が海に飛び込んだ。これでインスマスの沖合に姿を見せる悪魔の暗礁に生贄を沈める。
そしてハワトが浪々と忌まわしき祝詞を口ずさんだ。
いあ! いあ! くとぅるふ・ふたぐん! ふんぐるい・むぐうなふー・くとぅるふ・る・りえー・うが=なぐる・ふたぐん—―!!
その時、海の最果てより吹き寄せた生臭い風が海原を駆け抜けていった。まるでこの世にあらわれてはならぬモノが降臨するのを拒むように吹き付けた風。それが肌に纏わりつき、停滞し、滞留する。
見えぬ手に縛られるような息苦しさと共にぶるりと船が――いや、海が震えた。
「け、げほッ……!」
呪文を紡いでいたハワトが吐血し、その病的に白い頬を赤く染める。
それと共に彼の神はルルイエの館より目覚めたもうた――!
轟々と音を立てて海が割れ、タコを想わせる触手がついた顔が露わとなる。十メートルを越える上半身が海面から姿を見せ、自ら鼓膜を破りたくなるような醜い咆哮が漏れ出た。
「あぁ! このお方こそこルルイエの主! グレート・オールド・ワン! クトゥルフ様……!ごぽ、げほッ」
「くすくす。今度は私の番ですね。 」
ボタボタと口元を赤く染めるハワトから呪文を受け継ぎ、彼に向けて息を吹きかける。
それは海風に奔流されながらもかの邪神の鼻に吸い込まれ、かの巨神が動きを止めた。あと一息だな。
「 」
更なる呪文を紡げばクトゥルフ君の体が光に包まれ、徐々に縮みだす。それはやがて人の形へと変貌しながらパシャリという小さな音と共に波間に落ちた。
泳いで彼を探す気にはなれないからクトゥルフ君の眷属である深き者でも呼び出そうとハワトに命じようとして、やめた。だいぶ魔力を消耗してしまっている。いくらイゴーロナク君の加護を受けても二度目の旧支配者の復活に立ち会ったのだから生命力が限界まで絞りつくされているようだ。
仕方ないので自ら深き者を呼びつけ、彼らの主を船に引き上げてくれるよう頼む。
そして深き者に担がれて船に上げられたのは一人の少女であった。
腰までのびた流れるような水色の髪。水の精を思わせる整った顔立ち。
そんな少女が生まれたままの姿で船に転がり、小さな寝息をたてていた。
「こらこら。クトゥルフ君? 封印は解いたのですから目覚めてください。ほら、ほら」
ペチペチと人肌とは思えぬほど冷たい頬を叩くと「あと五千年……」と不機嫌そうな寝言がもれる。
私はそんなに気が長い訳ではないから先ほどより強くその餅のように柔らかい頬をたたく――いや、抓る。
「いだッ。いだだ。ん?」
「やっと起きましたか?」
とろんとした蒼い瞳が焦点を合わせるように瞬き、次いで己の細い指をまじまじと見つめる。
「あれぇ? なんだか寝ている間に体が小さくなったような……。気のせい?」
「相変わらずアバウトですね。君は旧神との戦争に負けて封印されていたところを私達が目覚めさせたのですよ」
「あぁ。そうか。そうだね。そうだった。思い出した」
寝ぼけて緩んだ表情からは想像も出来ない速度で彼女の腕がのびるや、あり得ないほどの力で私の首を絞めてくる。万力のようにギリギリと絞められて気道が潰れ、骨が砕け、肉が引き裂かれ――。
みずみずしい音と共に首が引きちぎられた。
「な、ナイアーラトテップ様!?」
ハワトの悲鳴が聞こえたその瞬間、傷口から液体とも気体ともつかぬ黒いものが噴出を始め、体を覆い、膨張し――。そしてソレは起き上がる。
失った頭には代わりに紡錘形のものが生えているものの、貌はなく、代わりに闇を孕む洞がそこにはあり、体はうねる触手に覆われた呪わしき姿へと変わり果てる。
それと共に船がギシリと悲鳴を上げ、クトゥルフ君の体を触腕が絡めとる。だが少女は眉一つ動かさないばかりか、口元に薄い笑みを浮かべてからかう様に言った。
「やっと本当の姿になったね」
「どれも本当の姿だ。クトゥルフ」
「それもそうか。でもやっと目覚めて来たよ。こんなに気分の悪い目覚めは弟を殺したあの日以来だ」
「それはどうも。良い目覚めですね」
彼女を絞めあげていた触腕を解く。
「もうやめるの? まだ起きたばかりじゃないか。もう少し殺り合おうよ」
嗜虐的とも自虐的とも取れる笑みを浮かべる彼にますますやる気が失せて来る。ガチで戦えば星の一つが滅ぶほどの凄惨な戦いになることだろう。特にクトゥルフ君は現在の可憐な見かけによらず物理的なパワーで押しつぶす脳筋系旧支配者だから殴り合いでは私の方がやや不利だろう。
もっとも自分が不利になる分には面白いが、彼の瞳からは闘気がまったくうかがえない。
死にたいというモノを殺して何が楽しいというのだろうか。足掻かれるからこそ、殺しがいがあるというものなのに。
「遠慮しておきます。戦いは好きではないので」
「だから、僕達を裏切った?」
やはり、そうか。イゴーロナク君にしろ、やはり私を許してくれるつもりは毛頭ないということか。
だがあの時は彼らの知性を奪い去ることがもっともベストな解決策であったのは間違いない。それを分かってもらうには、あとどれくらいの月日がいるのだろうか?
「まぁ互いに積もる話もありましょう。とりあえず全ては町に戻ってからというのはどうでしょうか?」
「………………。……良いよ、それで。君は口が上手いから僕のことを簡単に丸め込んでしまうだろうから復讐するなら今のうちがいいんだろうけど、そうしよう。休戦だ。それに……。それに、実はあんまり怒ってはいないんだ。それよりお腹が減っちゃった。不便だな、この肉の身体は」
手の感触を確かめるようにグーとパーを作る友神の言葉が気になったが、それもまた後で聞くとしよう。一度に全てが分かっては面白みがない。
「では一時休戦ということで」
先ほど呼んだ深き者に命じて船を漕いでもらう。その時、クトゥルフ君はやっと血を垂れ流す同乗者に気づいてくれた。
「そう言えばそれ、なに? 君の趣味?」
「えぇ、そんなものです。ハワト」
「お初にお目にかかります。ナイアーラトテップ様の従者をしております、ハワトと申します。大いなるクトゥルフ様」
ふーん、と彼は興味無さそうに己の青い髪をいじりながらハワトへと視線を向ける。
「もしかしてどこかで会った?」
「以前、御身の封印を解こうとしたことがありました」
「あぁ。あれ夢じゃなかったのか。そう言えば君はどこか知神の気配がするね。誰か隠れてる?」
「『ッケ。気づきやがったか』」
「イゴーロナク。君だったのか。おはよう」
「『おう。なんだ? 遅い目覚めじゃねーか?』」
「もう少し寝ていたかったけどね」とクトゥルフ君はこぼしながら伸びをする。濡れぼそった髪が落ち、その豊満な胸がこれ見よがしに露わとなる。
「『キヒヒ。なんでぇ。なんとも可愛らしい面になっちまったな』」
「そうかい? 君も中々だけど」
「『そいつぁどうも、ありがとよ』」
深き者が漕ぐ船はゆっくりと潮に流されながらも寂れた港町へとたどり着き、埠頭から伸びた朽ちる寸前の桟橋につけられる。
その頃には醜い身体もいつもの人の形をしたものになっており、悠遊と陸にあがる。
「さて、お腹が減っているのでしたね。知人の家に行きましょう」
「それでいいよ。君、ありがとね」
船に乗る深き者が佇まいを直し、掠れた声で彼の神を讃える言葉を宣うと彼はどぼんと海へ帰って行ってしまった。
「良い眷属ではありませんか」
「そう? そうだね。僕にはもったいないくらい良い眷属だよ」
墨を流したような海を見つめがら彼は小さく「僕が居なければ、もっと良い主神に仕えられただろうに」と寂しげに呟いた。
彼は少々だが、良く言えばダウナー的な性格をしており、悪く言えば鬱的な精神を持っている――つまりどこか影があるのだ。
まぁ理由を思えば仕方ないのだが……。
「そう言えばクトゥルフ君の事を偽名で呼びたいと思っているのですが、何か妙案でもありませんかね?」
「偽名? なんで?」
「この町では今、クトゥルフ君の信仰が一大ブームとなっているのです。そこで君の名をそのまま呼んでは誤解を受けかねません。そこで偽名が必要なのです」
「えぇ……。なにそのブーム? 信仰するなら他にましな神が居るだろうに。例えばイゴーロナクとかでいいじゃん」
「くすくす。イゴーロナク君を信仰する町が出来たらそこはソドムかゴモラと名前を変えるのでしょうね」
「『ひでぇ言いようだな』」とイゴーロナク君が口元に残った血を乱暴に拭いながら歩こうとするも、その途端にバランスを崩して倒れてしまった。
どうやら魔力を使い過ぎた結果、生命力も消耗しているようだ。そんな彼女をおぶりながら偽名の事を再度尋ねる。
「それでなにか偽名に関して妙案はありませんかね?」
「うーん。それじゃ、カインとでも名乗ろうかな」
「カイン……。ではカイン君――いや、カインさんかな?」
「なんでも良いよ」
そうして私達は一路、インスマスの町長の下へ向かうのであった。




