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兄からの願い

 我が身は広大な宇宙の中に漂っていた。正確に言えば物理的空間における宇宙ではなく、精神世界に広がる広大無辺な深淵。そこに私は揺蕩っていた。

 はて、私は従者であるハワトと共に異界の門を開け、ドリームランドに向かっていたはずなのだが、どうしてこんな世界で足止めをくらっているのだろう?

 そんなことを考えている間にもこの夢と(うつつ)の狭間では極彩色に輝く星々が瞬き、玉虫色に沸き立つ球状物体が永遠と混沌より湧き出でてははじけて消える。

 言いしれぬ多幸感が身体を愛撫し、指先を駆け抜ける風の感触だけで絶頂をもたらしてくれるほどの快感を与えてくれる夢のような世界。楽しい事だけを抽出したような幻想。つまらない空虚な空間。


 そう認識するや突如として世界は一片する。

 玉虫色の泡に一筋の割れ目が入ったかと思うとッカと瞼が開かれ、一つの眼球が露わとなった。もちろん一つだけではない。無限に現れる泡という泡が開眼し、私を撫でまわす様に無粋な視線を投げかけてくる。

 その上、私が常日頃抱いていた不安感が具現化するかのように目玉共は友神(ゆうじん)の声で罵倒を浴びせてきた。



『裏切り者』

『殺してやる』

『救世主のつもりか?』



 典型的なバットトリップだ。心の奥底に秘めていた不安が表面化し、疑心暗鬼がそのまま表れる。

 意識を変えようとするが、一度開いてしまった蓋は容易に閉まらず、次々と罵声と憎悪と自己嫌悪が溢れ出してきた。

 だが千の罵倒も万の呪詛も私はそれを受けて然るべき存在なのだと自覚しているのだ。故に――。



「『神を試してはならない』そう言われているではありませんか。我が幻影よ。去れ。誰よりも我が身が許されない事はすでに知っているのだ。故に去れ」



 そうなのだ。“大いなる戦争”でいくら旧支配者が戦に勝てぬからと彼らと裏切ったのはこの私なのだ。しかし私が選んだ最良の選択は旧支配者(かれら)にとっては最悪の選択であったようだ。

 故に彼らの怒りも、憤りも、嘆きもまた正しい事なのだろう。

 だからこそ私に石を投げようとする彼らを私は許す。私はそうされて然るべき存在なのだから――。


 だが彼らの怒りが触れる寸前。電源が落ちるように世界の全てから光が消失した。いや、視界一面が暗黒に染まる中、己の体だけは知覚出来ている。

 浅黒い両手。黒いスーツにスラックス。高級感ある革靴。

 そうした己だけしか存在しない世界を浮遊しているとやっと一所に光が見えた。

 そこには円形のテーブルと二つの椅子が鎮座しており、そこへ降り立つや対面に気配が突如として生じた。



「これはこれは。兄上ではありませんか」



 ソレは厚いヴェールに包まれた人のようなものであった。形こそ人間を思わせる輪郭をしているものの、輪郭がぼやけて判然としない。

 それこそ兄たるヨグ=ソトースの化身の一つであるウルム・アト=タウィルと呼ばれる究極の門の守護者だ。

 その究極の門とはヨグ=ソトースの偏在する世界へ通じる門であり、ウルム・アト=タウィルはその門にて訪問者がヨグ=ソトースの謁見に叶うか試す門番でもある。

 もっとも私の持つ銀の鍵は謹製の品であり、フリーパスでこの門を開くための鍵でもある。だというのに門の手前で呼び止められてしまった。と、いうことは逆に兄上に呼び止められたと考えるべきだろう。



「どうされたのです? 全能なる兄上」



 テーブルを見やるといつの間にか湯気を上げるティーカップが二つ乗せられており、そこから紅茶の芳醇な香りが立ち上っていた。

 ここまで接待してくれるとは珍しい。これは凶兆だな。

 溜息をつきたくなるのを我慢していると女とも男とも、子供とも老人ともつかぬ――。いや、複数人が同時に同じ言葉を話してくるような複合的な声が響いた。



「ニャル。お前はまた人を救うつもりなのか?」

「……はて? なんの事やら。あぁもしかしてハワトさんの事ですか? まぁ確かにいささか執着してしまっているのは否めませんが、救うつもりなど――」

「ニャル。お前は()()人を救うつもりなのか?」

「………………」



 ()()、ね。

 ただの気まぐれで一度だけだったが、旧支配者(みんな)を裏切った罪滅ぼしとして人間くらいは救おうとした事が、あった。

 それは気まぐれであったが、私は本気で人間を救済しようとして、人間に裏切られ、人間に殺された。

 そこでやっと私は人間というものが如何に愚かな種族なのかと気づき、形容しがたい失望を覚えたものだ。



「救うことなど、もうありませんよ。兄上。全能なる兄上にとってすれば私など愚鈍の極みなのでしょう。そんなモノが誰かを救うなど、おこがましい」

「だがお前は人間を好いている。人間に失望しながらも希望を抱き、愛している」

「………………」



 ふむ、やはりこのお方と話すのは骨が折れる。

 ウルム・アト=タウィルという姿をとって顕現しているが、その中身は外なる神の副王――ヨグ・ソトースそのものだ。全にして一、一にして全なる兄上は全ての時間、空間と繋がっており、世界そのものに偏在している。

 故に兄上は万物の事象そのものであり、ありとあらゆる知識を持っておられる文字通りの“全知全能の神”なのだ。

 そんな相手にいくら言葉を弄しても無意味だし、秘めた想いを誤魔化しても、それは自分に刃を突き立てるようなものでしかない。



「はぁ。降参です。兄上のおっしゃるその通りですよ。私は人間に絶望しながらも希望を抱いております」



 私がいくら水をワインに変え、業病を癒し、死者を蘇らせて神の存在を認知させようとしたが、連中が求めるのは奇跡そのものであり、神ではなかった。

 砂漠に水をまくように連中は私から奪えるだけを奪おうとし、用が済んだらうち捨てられた。

 まるで豚だ。何もかもを食らいつくす豚。

 だからこそ私は彼らに希望ではなく絶望を喰らわせることにした。

 神の奇跡をもっても目覚めない連中ならば、深淵に潜む絶望と恐怖をもって連中に信仰のなんたるかを知覚させようとしてきた。

 多くはその課程で発狂して自らの生を断つか精神が擦り切れて廃人になるような軟弱なものばかりだったが、希に闇より出でし絶望を踏破する個体が現れる。


 ある者は私の事を深く理解し、その意図を汲んで私を売ったがために裏切りの使徒となった。

 ある者は私との接触を機に小説家として闇の世界に触れ、夢の支配者となった。

 ある者は絶望の中で抗い、我が従者となった。


 人間は脆い。だがそれでも神意に近づいてこれる素養を持っているのだ。どのような絶望を目の当たりにしてもそれに打ち勝つ強さを持っているのだ。

 それが眩しく、尊く、愛おしかった。



「人間をまた救うのかは……。自分でも分かりません。ですが、そう。絶望を踏破した者が現れれば、私は手を差し伸べてしまうでしょうね。ま、私が兄上並に物事を知っていれば人間くらい簡単に救えたのでしょうが、愚かな私ではとても……」

「お前は自分が思っているほど愚かではない。本当の愚かモノは、この私なのだ」

「――?」

「全てを知るが故に、ワタシは敢えて過ちを犯してしまった。その先に幸せなどないと知りながら、ワタシは過ちを犯したのだ。本当の愚かさとはワタシなのだ」

「兄、上?」

「頼む。頼む頼む頼む! あの子達を――! 我が子達をどうか、どうか、ニャル――!! すまない、すまないすまな――」



 断末魔のように放たれた声と共にウルム・アト=タウィルの姿が霞み始めた。

 如何に兄上の化身といえど、兄上の存在自体がこの世の全てと繋がっているが故にその意識は拡散され、希薄になってしまっている。

 人間が猿と意志疎通が出来ないのと同様に通常であれば兄上は全能であるが故に白痴と変わらず、意識を一所に留めておく事が出来ないのだ。

 故に尻切れトンボとなってしまった。

 まったく、困った兄上だ。私に頼むだけ頼んで消えてしまうとは……。



「やれやれ。上の子がどれだけいるとお思いなのですかね。ハスター君のことですか? それともブルドゥーム君? はたまたクトゥルフ君ですか?」



 まったく。子宝に恵まれた兄上のどの子を救えというのだろうか。

 ティーカップを手に取ると、これまたいつの間にか現れていた十メートルを超える巨大な門が音を立てて開くところだった。



「しかし、”すまない”ですか。外なる神の副王たる兄上にそう懇願されては無下に断る訳にはいきませんね、たまには兄上孝行でもしてあげましょうか」



 ティーカップを投げ捨て、立ち上がると共に門から生暖かくて生臭い風が吹き寄せて来た。

 それと共に人理の埒外にあるナニカが発する咆哮が皮膚を圧し、肌が粟立つ。

 おぉ! 刮目せよ! これこそ門にして鍵。全にして一、一にして全。外なる神――!

 今、究極の門が開かれたのだ。


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