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夜鷹

 墨を流したような浜辺。太平洋から打ち寄せる白波が唯一の色を見せてくれるそこには昼間の焼き爛れるような暑さは消え失せていた。

 むしろ砂浜の熱が放射冷却により冷えて薄ら寒い有様だ。

 だが海水浴客達の中にはそうした夜を楽しもうというように人の蠢きは残っていた。

 中には航行灯を輝かせる船や瞬く星々を楽しむ者。持ち込んだ花火に興じる者。そして悪意のある者が混じっていた。



「ねぇねぇ。君一人?」

「一緒にご飯とかどう?」

「良い店が近くにあんだよね」



 派手な髪色にピアスをはめた若者達が仮設トイレの陰に三人。誰もが誉められた風体ではない。そんな彼らは一人の少女を囲うように立ち、逃げ場を封じていた。



「あの、ここで待つよう命じられているので困るんですが。少し話をするからという事ではなかったのですか?」



 怪訝そうに落ち窪んだ目に煩わしさを宿した少女は灼熱の太陽が先ほどまで空にあったはずなのに草色のシンプルなビキニから覗く肢体は色白を通り越して不健康そうな白色であり、その細い腰に巻き付けた黒のパレオを一層際立たせていた。その上、だぼついた濃紺のパーカーを着込んでいるためより華奢に見える。

 やれやれ、まさか少し目を離した隙に絡まれてしまうとは……。



「ハワトさん。お待たせしました」

「あ、ナアーラトテップ様!!」



 生気の薄い目に歓喜の色を浮かべた彼女に手を振ると三人の男達が舌打ちと共に敵意を向けて来た。



「あ? なんだおっさん」

「なに、親戚の人?」

「なぁなぁ。良いところなんだ。おっさんは少し黙っててくんない?」



 うるさい人間共だ。だがこうした下卑た存在というのは嫌いではない。低俗な悪意に敬意を称して見逃してやるか。



「ハワトさん。用事はすみました。帰りましょう」

「おい、無視してんじゃねーぞ、ごらッ」



 がらの悪い男の一人が私の襟元――この場に合わせて黒を基調としたアロハシャツ――を掴んでくるが、半身を引いてそれをよける。まったく、最近のキレやすい若者ときたら……。



「なんだ? あんま調子のってんじゃねーぞ!?」

「面白い冗談ですね。鏡を見てから言葉を紡いだ方がよろしいですよ」

「な!? ざっけんじゃねーぞ!」



 面白味もない見え透いたパンチを軽く手刀で弾く。

 見逃してあげようと思ったが、向こうから神に挑戦するというのなら仕方ない。

どう料理してあげようかと考えているとふとハワトがボソボソと近くにいた若者の頭を両手でつかみ、正面から何か囁いているのに気がついた。

 これはいけない。止めようとするが、ファイティングポーズを決め込む若者のせいで彼女を阻止できない。あー。これは困っター。ハワトを止められないナー。



「おい、やっちまうぞ。って、お前なにやってんだ!?」

「………………」



 放心する若者に得体の知れない恐怖感を抱いたのか、残りの二人が浮足立つ。

 それと共に我が従者の口元が笑顔の形に歪み、その左手の掌を宣布するように二人へと向けた。



「『キヒヒ。やっちまいなぁ!』」



 少女の言葉とは思えぬ悪意の宿った命令と共に左手の掌に焼き付いたような口の形をした印も弧を描きだす。

 すると先ほどガッツリと頭を掴まれていた若者が無造作に拳を振るいだし、突如として仲間割れを始めてしまった。



「イゴーロナク君ですね。まったく、君はせっかちでいけない」



 故あってハワトの精神世界に棲みつくことになったイゴーロナク君が己の書かれている『グラーキの黙示録』の一節を若者に吹き込んだに違いない。

 その文を一節でも知ってしまえば心に悪徳が芽生え、イゴーロナク君の信者となってしまう性質を利用して信者に仲間を裏切るようそそのかしたのだろう。



「『こういうのは早い者勝ちだぜ』」

「まぁ好きにすると良いでしょう。では私も。          」



 突然の裏切りに困惑を浮かべるうちの一人に精神的従属の呪文を施し、肉体の主導権を得る。

 するとその男は狼狽する若者をいきなり殴りつけ、次いでイゴーロナク君の信者と一騎打ちを始めた。



「『キヒヒ。良いねぇ。よっしゃ。どっちが勝つか賭けるか?』」

「興味ありませんね」

「『なんだ。ノリが悪いじゃねーか』」

「……この世界からクトゥルフ君が消えてしまいました」



 ドリームランドから地球に戻って来たのはクトゥルフ君の所在を確認するためだった。

 ドリームランドはインスマスにて彼を復活させる儀式を執り行った結果、儀式は失敗だったがクトゥルフ君自体の招来には成功していた。

 故にこの世界に封印されていたはずの彼がどうなっているのか確かめる必要があったのだ。



「ふむ。どうやら儀式自体はほぼ成功していたようですね。君もかなり無理をして魔力を儀式に注いだようで」

「『ケッ』」

「そう拗ねないでください。では帰りましょう。クトゥルフ君のいないことが分かったので目的は達しました。ハワトさん。門を開いてください」

「『――え? ちょ、こいつらどうすんだよ。放っとくのか?』」



 「や、やめろよ!」と先ほどの威勢が打って変わって狼狽になる若者達など面白味の欠片も無い。そのまま放っておいて良いだろう。



「ハワトさん」

「は、はい!」



 後ろ髪引かれるイゴーロナク君を無視しつつハワトの手を引っ張って仮設トイレの前に立つ。もちろんトイレには鍵こそあるが外側からの鍵穴なんてものは存在しない。

 それにハワトが不安げに私を見上げて来た。



「大丈夫ですよ。さぁ鍵を開けてください」



 するとハワトは首もとから先ほどまで無かったはずの銀の鍵を取り出す。見た目こそ彼女の姿は水着姿のそれであるが、それは平凡な見せかけと呼ばれる視覚を操作する魔法がかけられているからだ。故に私達は一切服を変えていないが、こうして海水浴場を堪能している姿に見えてしまう。



「では開きます」



 トイレの丸いノブにハワトが鍵を()()()()。まるで抵抗なく銀の鍵はノブへ埋没し、そしてカチャリと解錠音が響いた。

 そして扉を開けば薄汚れたトイレなどではなく、そこには闇よりも濃い深淵が渦巻いていた。



「くすくす。さぁ参りましょう。ドリームランドへ」


 ◇


 クセス領アーカム。そこを横切るミスカトニック河を遡り、カダスの山の麓に位置するそこはダニッチ村と呼ばれる寒村だ。

 そこに続く道は全てが細く、川にかかる橋も腐れ落ちようとするほどの荒廃を極めた集落は今、夜鷹(ウィッパーウィル)の狂喜的な鳴き声に満ちていた。


 そんな寒村から六キロメートルほど離れた山の中腹にある二階建ての家に今、一人の医師が夜遅くに訪ねて来た。訪問診療から帰ってきた折り、自身の医院に父が危篤のためすぐに来てほしいという荒い筆跡のメモが残されていたのだ。

 それに応えようと彼の家――ウェイトリー家を訪ねたのだが、その足取りは決して軽くない。

 これから患者――老ウェイトリーを看取らねばならぬからということもあるが、その老ウェイトリーは若い頃は有名なマジックキャスターとして国に仕官していたこともあったらしいが、何かしらの事件――黒魔術だか、悪魔崇拝だかをして王宮を追放されてしまい、未だにそのことを恨んでおり、復讐すべく忌まわしい魔法の研究をしているともっぱらの噂になっていたからだ。

 その上、ウェイトリー家は時折村から牛などの家畜を買うくらいしか交流もなく、親しい者もいないため若い者はウェイトリー一家を村から追い出そうという者までいた。

 だがウェイトリー家はダニッチの中でも古い家柄であり、何より老ウェイトリーに呪いをかけられてはたまらないと腫れもののように扱っていた。


 そんな厄介者も天寿には勝てなかったかと医師は想いながら粗末な扉をノックする。

 その間、底冷えする夜空を夜鷹(ウィッパーウィル)が飛び回っていた。

 夜鷹(ウィッパーウィル)は人の魂を攫うという。連中は魂を捕まえると夜明けまで笑い続けるらしい。



「こんばんは。ウェイトリーさん。ホートンです」



 するとほどなく軋み声をあげる扉が開けられ、「ホートン先生! 早くこちらに」と白髪に赤眼――アルビノの女性が出迎えてくれた。

 老ウェイトリーの一人娘のラヴィニア・ウェイトリーだ。

彼女に導かれるように医師ホートンは手提げかばんから聴診器を取り出しながら家の奥にある寝室へと向かう。

 そこには蝋燭の揺らめくそこには生気の抜けた老人がベッドに身を横たえ、部屋の隅には十五、六歳ほどの子供が老人を見守っていた。ホートンはその子供が村でも噂の子かと目星をつけるが、陰影の激しい蝋燭のせいで顔までは見る事が出来なかった。



「先生。父はどうなのでしょうか?」

「あぁ、ラヴィ。今見るよ」



 もっともホートンは自分が持って来た医療道具が全て無駄である事を老人の顔を見て悟った。

 そんな色濃い死相を浮かべる老人はふと細い目を開けるとうわ言のように呟いた。



「も、もっと家を大きくするのだ。あいつはもっと大きくなる。そ、そして必ずヨグ=ソトースの門を開き、あの本の七五一ページの呪文を――。食べ物を与えるのだ。あの子は父親によく似ていて、センティネルの丘で父親の名を叫ぶ日がくる……! その日、わしの正しさが――。あぁ! いあ いあ んぐああ んんがい・がい! いあ いあ んがいん・やあ しょごく ふたぐん! いあ いあ い・はあご・にやあい・にやあ んがあ んんがい わふる ふたぐん よぐ・そとおす! よぐ・そとおす いあ! いあ……」



 まるで意味の分からないそれが遺言であることをホートン医師が悟る頃、老人は静かに息を引き取った。

 それと共にホートンは老人が黒魔法に傾倒する奇人であるという噂話を思い出しながらふと、先ほどまでうるさいくらいに鳴いていた夜鷹(ウィッパーウィル)の鳴き声が聞こえなくなっている事に気がついた。



夜鷹(ウィッパーウィル)は魂を取りそこなったようですね」



 医師は星神教の簡易礼拝である胸元に五芒星を描く所作を執り行い、静かに頭を下げる。

 生前、いくら悪い噂がたっていようと亡骸にまでそれを引き継がせることはない。ならば人として敬意を払い、送ってやろうとした時だった。


 二階から家鳴りが響いた。


 まるで重い何かが床板を踏んだせいで釘と板が擦れるような不気味な音――。

 そしてホートンは気づいていしまった。

 はて? ここには老人の娘であるラヴィニアがおり、その子供のウィルバーもいる。

 ならば二階に居るのは誰だ?

 老人の妻か? いや、あれはラヴィニアが十二歳の時に変死している。

 ではラヴィニアの夫か? いや、村の誰もラヴィニアの夫を見た事がない。噂では老人が魔法で悪魔を呼び出して契を交わしたと囁かれているくらいだ。


 では――。では二階に居るのは誰だろうか?

 それともただの家鳴りなのだろうか? 忌まわしき事に神をも畏れぬ所業をしていた老人の死の前に気持ちが動揺しているせいで居もしないナニカを想像してしまうのだろうか?

 ホートン医師は怖気を隠して死亡診断書を後程送る事をラヴィニアに伝え、早々に家を出る事にした。

 己の仕事道具を改めて片付け、最後に部屋を見渡す。

 部屋の隅には相変わらずラヴィニアの()がおり、蝋燭が隙間風に揺れたせいかその顔が見て取れた。

 母親とは似つかないその子はどこか山羊や動物を思わせる顔立ちに短く切りそろえられた金色の髪をしていた。

 それがただ一人。悔しそうに顔を歪めていた。



「ワタシを、見てよ。おじいちゃん」



 それは老人を責めるような、懇願するような、喜怒哀楽の全てに合いそうで、全てにそぐわない声音だと、ホートン医師は感じた。

令和初の水着回と共にネット小説大賞一次選考通過記念に新章スタートです!

ま、二次選考落ちましたけどね。

また、これからは本作とオークが人間の村を焼く話を交互に投稿していきますのでそちらもよろしければどうぞ。



それではご意見、ご感想をお待ちしております。

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