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エピローグ:異世界の影

 悪夢のような一夜が今、明けようとしていた。

 ゆったりと弧を描く地平線が白々と夜を支配していた星々を蝕み、黄金の光が生まれようとしている。

 だが大波にさらわれたインスマスは清浄な朝を怨嗟に染めていた。



「どうして……。どうしてこうなってしまったのだ……」



 船から降り立ったオーベッドが潮騒に呑まれそうな小声で呟く。

 インスマス復活の賭けにでた筈の男は今、憔悴し、老いてもなお若々しい身体は今、生気が抜けて老人と見間違うほど小さくなってしまっている。



「オーベッドさん……」

「あぁ……。ナイ殿。これを、この有様を見てください。わしは、一体なんのためにあの本を研究していたのか……」



 深い絶望に顔を歪めるオーベッドに残る感情は怒りではなく、無であった。

 大いなる旧支配者の一柱たるクトゥルフ君を目の当たりにし、それまで信じていた世界が瓦解した精神的ショックを受けた上、愛して止まなかった町が津波で崩壊してしまっているのだ。

 最早感情さえ生まれない、か。

 やはり完全な破壊はダメだ。全てを壊しては直しようがないのだから。



「ナイ殿。わしは一体、どうすればよかったのです? 三年もかけて魔導書を読み解き、供物を海の神様に捧げてきました。事が露顕すればただではすまないほどの事をして来たというのに……。海の神様は一夜にしてインスマスを――。わしの町を、破壊されました。わしは一体、何を間違えていたのでしょうか?」

「……質問を質問で返して申し訳ないのですが、貴方はこの災いを海の神のせいだとは思わないのですか?」



 しばらく逡巡していたオーベッドだが、彼は力無く首を横に振りながら「分かりません」とやっと絞り出した。

 自分が心血を注いできたものを否定するのは確かに辛いことだ。

 例え万人がそれを過ちだと非難したとしても己だけはそれを認めたくないものなのだから。



「ナイ殿。わしは一体、何を間違えていたのでしょう?」

「……この期に及んで貴方はまだ神を信じられるのですか? 彼はインスマスに底知れぬ破壊をもたらしたというのに」

「これが神様の御意志であるならば、きっとわしがどこかで間違っていたから、インスマスはこうなってしまったのではありませんか?」



 生気の抜けた瞳がやっと私を見返して来た。虚無に満ちたその瞳。あぁ、良いぞ。



「儀式が間違っていたのか……。ハワト殿が訳し直してくれた『ルルイエ異本』には星辰が揃わねばならぬと書かれておりました。それなのでしょうか? アウグスタ達が帰って来たせいで儀式を急いたのがいけなかったのでしょうか? もしくは生贄が足りないのでしょうか?」



 ふむ、どうやら彼に神を捨てるという選択肢はないようだ。もしくは後戻りなどできないと思っているのかもしれない。

 なんとも度し難い愚物だが、愚か故にこの人は救われるべきだ。



「オーベッドさん。貴方は諦めていないのですね。失っては、いないのですね。大丈夫」

「ナイ殿……?」

「貴方は深く信仰に帰依した。求めよ、さらば与えられん。たずねよ、さらば見いだされん。門を叩け、さらば開かれん。すべてを求める者は得、探す者は見出し、門をたたく者は開かれよう」

「ナイ、どの……!!」

「共に神の国の扉を開きましょう」



 オーベッドに手を差し出すと、彼は恐る恐ると私の手を握ってくれた。

 そんな彼に微笑みつつ立たせて背後を振り向けば歌うように『ネクロノミコン』を読み解く我が従者がいた。

 乾いた唇が紡ぐ狂気の戦慄が停滞していた風を呼びお越し、波を騒めかせる。

 地平線より一筋の清廉な光が海を差し、世界を温かく包み込む。

 その時、ハワトの手から一つのペンダントが未だ黒々とする海へと投げ込まれた。

 それはどこまでも黒い玉に金のような――金よりも明るい不思議な金属で装飾が施されたペンダントだ。もっともその幻惑的な意匠は簡単な幾何学模様であるかと思えば打ち寄せる波を想起させるような複雑で緻密な美しさがあった。

 吸い寄せられるような不気味な美しさ、と形容されるようなどの文化圏にも属さない独特のデザインのそれが弧を描き、小さな音と共に暗黒の大洋へと沈んでいく。



「          」



 そして彼女は言祝ぐように海の使者を呼び寄せる。

 その邪悪な願いが届くように海面に魚影が現れ――。いや、あれは魚影ではない。それよりも人に近い――。



「どうやらやって来たようですね。クスクス」



 クトゥルフ君を呼び寄せた余波で彼の眷属が目覚めているだろうとは思ったが、どうやら上手くいったようだ。



「オーベッドさん。これで、インスマスは安泰ですよ。クスクス」



 どこか、大勢の人間が集まれる場所は無いかとオーベッドに聞いたところ、彼は教会が良いと提案してくれた。

 折よく津波の被害を免れた神の家において民の多くを集めた集会が今、開かれようとしていた。。



「おやおや。たくさん集まってくれましたね」



 教会はインスマスがもっとも栄えていた頃に作られたもののため、収容人数も町の規模に見合わないほど広く、そこに詰めかけた住民もざっと百人を越えそうだった。立ち見もいるから百五十を越えているのかもしれないが、町全体の人口の三割くらいと隣に立つオーベッドが教えてくれた。

 そして私達は頃合いを見測らない、教会へと足を踏み入れた。私を先頭に町長のオーベッド、従者のハワト。そして体と顔を隠すようなフード付きのマントを纏ったモノ。異様なその行列は集まった町民たちを押しのけ、説教台に立つ。



「皆さま、御静粛に。オーベッドさん――。町長より大事な、大事なお話がございます。どうか皆さま、最後までご清聴ください」



 視線が集中する中、いつになく朗らかな顔のオーベッドが聴衆を見渡す。



「みな、この津波で犠牲になった親しい者もいるだろうに集まってくれて、ありがとう。みなも今後の事を不安に思っているかもしれないが、大丈夫だ」



 その言葉と共にオーベッドは懐から黄金に輝くティアラのようなものを取り出した。

 それもまた未知なる金属により作り出された不気味なほど精緻なティアラであり、芸術の全ての流派に叛逆するかのようなまったく新しく、魅入られるような美しさを持っていた。



「わしらは海の神様が与えたもうた試練を乗り切ったのだ。故にわしは彼の神よりこれを賜った。形も物珍しいし、売れば良い金になるだろ。形に難があると言われたら鋳なおしてしまえば良い。これでインスマスは救われる」

「父さん……」

「アウグスタ。安心しろ。もう冒険者なんて危ない事をしなくても済むんだ。これからは、二人でこのインスマスに暮らそう」

「でもティアラ一つを売ってどうなるって話じゃ――」

「誰が一つだけ、と言った?」



 すると今まで黙していたマントのモノが黙って進み出るや、そこから一つの袋を取り出し、説教台の上にその中身を零す。

 それは腕輪であり、冠であり、ネックレスであり、指輪であり――。



()()がもたらす宝物はこれだけではない。まだまだ天は我らに宝を下さるのだ! その上、今までの不漁もこの方々のおかげで魚は殺してくれと言わんばかりに網にかかるはずだ」



 喜色が爆発するようにオーベッドは説教台の宝物を手に取り、聴衆に見せつける。

 ()()の協力がある限り、インスマスは滅びる事はないだろう。

 もっとも“協力”とは相互に利益を生み出すシステムであり、片一方が得をするようなものではない。

 この場合でいえばインスマスの民は黄金を得る代償を支払わねばならなくなる。



「そしてみなに新しい住民を紹介しよう」



 オーベッドはマントに包まれたモノを前に連れ出す。



「みなには()()をもてなして欲しい。なんといっても、神の御使いなのだから――」



 フードがめくられ、その下に隠された相貌が露わになると共に教会のあちこちから悲鳴が立ち上った。

 灰色がかった緑色の皮膚。魚のように落ちくぼんだ鼻に瞬きも出来ぬほど出張った目。首元にはエラのようなものがあり、一目で人外であることを理解させる外見。

 彼らこそクトゥルフ君の眷属である深きもの(ディープ・ワン)だ。



「彼の見た目は……。確かに驚くかもしれないが、彼らは、この町に富をもたらすことを確約してくださった。そのお返しに、彼らの求めているモノを差し出さなければならない。それは新しい血なのだ。彼らは古くからの近親相姦的な交配をしてきたため、新しい血を欲している。だからインスマスは彼らをもてなし、新しい血を捧げることで復活する。これもインスマスを救うためだ。インスマスの良き市民達よ、だから協力してくれ!」



 浪々と輝ける未来をオーベッドは宣布するが、教会に詰めかけた民衆はそうでない。

 突然現れた人間ではない存在――ファンタジー世界風にいうなればモンスターとの共生を村長に宣言されたのだ。

 多くは津波による被害でオーベッドが乱心したと思った事だろう。

 だが正確にいえば彼が乱心したのはおそらく、インスマスに衰退の影が差した頃だ。ゆっくりと町が滅びるように、彼の心もまた壊れ、そして純化された狂気だけが残ってしまった。



「キャー! そ、外にもモンスターがいるわ!!」



 婦人の悲鳴に聴衆達が背後を振り向き、そこに詰めよせた深きもの共を目の当たりにする。最早教会は半魚人達に取り囲まれ、むせ返るような魚臭さが漂い始めていた。



「さぁ共に今日という日を祝福しよう。 いあ! いあ! くとぅるふ・ふたぐん!!」


 ◇

【ハワト視点】


 おずおずと右手の甲を見やる。そこに刻まれたのは崩れた五芒星と、その中央に目玉の意匠が施された焼き印――旧神の印であるエルダーサインを反転させ、歪めたナイアーラトテップ様の印。

 それから左手の掌を見やればそこには口とそこから覗く不気味な舌と牙を模した新しい焼き印がくっきりと彫り込まれていた。それは数瞬でも目を離せば動き出しそうな躍動感があり、思わずその印を見入ってしまう。



「やれやれ。イゴーロナク君の印ですね。勝手に印を刻むとは、まったく……」



 そんなわたしを覗きこんだナイアーラトテップ様はどこか困ったように笑いつつ「いただきましょう」とわたしを促す。

 目の前のテーブルには湯気をあげる豆とキャベツのスープと焼き立てのパン。ジュウジュウと油を跳ね飛ばすカジキの香草焼き。それに鼻をくすぐるカモミールのお茶。



「さすがは王様のおひざ元のキングスポートの大通りに建つレストランですね。新鮮な野菜に良い魚が入っていて街の活気が良く伝わります」



 オーベッドの手によりインスマスへ新たな住民を迎えたあの日から数日。町では深きものを迎え入れる事に反対する住民が反旗を翻したものの、低Lvの町人が体格で勝る深きものに勝てる訳もなく、一方的な虐殺が起こった。

 そんな騒乱から離れるようにわたし達はインスマスを離れ、星の智慧派の同志から邪悪な福音を受け取って神を変えたというキングスポートの貴族の下に身を寄せていた。もうこの街について三日くらいは経ったろうか?


 ……ハッキリ言って、物凄く気まずい。

 あれからナイアーラトテップ様はわたしの離反行為に言及した事は一度もなかったが、挨拶程度以上の会話もしていないのだ。

 いつ咎を受けるのかと思うと眼前の食事が喉を通るとは到底思えない。



「やれやれ。そう固くならないでください」



 苦笑を浮かべるナイアーラトテップ様になんと言葉を紡げばよいのかと思案していると隣のテーブルから商人達の会話が聞こえて来た。



「聞いたか? インスマスで疫病だとな」

「またか? 数年前にもそんな騒動があったと思うが、あれとは別なのか?」

「どうも別の種類で、今回のは伝染するらしい。アーカムやニューベリーポートに難民がやって来てるって話だ。なんでも大勢死んでるらしいぞ」

「へー。そいつは大変だ。だがただでさえ寂れたところなのに、もう人がいなくなるんじゃないか?」



 どうやらインスマスでの深きものと町民の争いを周囲の人々は伝染病と思っているらしい。

 どのような情報操作が行われているのか分からないが、少なくとも深きもの達の存在を公にすることなくインスマスで起こっているであろう大量死を疫病と欺瞞しているのは分かった。



「おやおや。インスマスは大変な事になっているようですね」

「え、えぇ……」

「おやぁ? どうしたのです。先ほどから心ここに有らずのようですが?」

「それは……」



 ナイアーラトテップ様がパンをちぎり、手の中でそれを丸めだす。それはまるでわたしの肉体と精神体を切り離し、魂を無明の世界に永劫の幽閉するという暗示のような気がしてならない。

 やはりわたしは許されていなかったのだ……。



「ふむ、ハワトさん――」



 あ、ついに沙汰が出るんだ。

 御身がわたしの死を所望するのなら喜んで死ぬが、それでもやはり怖い。自分が終わってしまうことは何よりも怖い。



「も、申し訳ありませんでし、だッ!?」



 反射的というのだろうか。無礼にもナイアーラトテップ様の話の途中で立ち上がり、頭をさげるとテーブルを破壊する勢いで頭を下げてしまった。

 いや、出来ることならテーブルを割ってもっと頭を下げたい。



「……ハワトさん」

「は、はい!」

「どうやら、互いに話が食い違っているようですね」

「はい? はい?」



 くすくすと小さく笑われるナイアーラトテップ様に思考が止まりそうになるが、どうやらわたし一人が思い詰めていたらしい。

 それに安堵ともつかぬ虚脱が身をつつみ、椅子に崩れ落ちてしまった。



『キヒヒ。ばっかじゃねーの? コイツはあれ程度じゃ怒らねーよ』



 そして数日ぶりに脳に響く声にクラクラしながらも再度の安堵を覚える。

 早とちり、であったのだろうか?



「ハワトさんの離反を私が怒っている、そう思って余所余所しかったのですね」

「はい……。御身のためとはいえ、わたしは許されない行為を働いてしまいました」



 至高のお方であらせられるナイアーラトテップ様になんという事をしたのか……。

 ふと、ナイアーラトテップ様のお顔を伺うといつものニコニコとした薄い笑いを消し、どこか懐かしそうに手の中のパンを見つめられていた。



「まぁ今はそのような事はどうでもいいです。ただ、貴女は自分のしたことをどう思うか、感想をお聞きしたい」

「う、裏切ってしまったことですか?」

「いいえ。インスマスに対して、です。貴女はクトゥルフ君を不完全とはいえ復活させ、そして深きものを招来させた。後者に関しては私の指示とはいえ、実行したのは貴女です。あちらの商人さんが話す通り大勢死んだそうですが――」

「……?」

「一片も心を痛めていないのですね」



 それが一体どうしたというのだろうか。

 矮小で下等なる生物であるわたし達――人間など神々にとっては虫けらも同然。かくいうわたしもその一匹にすぎないのに神たる存在に敵意を向けたのだから断罪されてしかるべきだと思うのだが……。



「……『その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう』。なに、貴女の存在を否定している訳ではありません。私は確かに『予定が一つしかないのはよろしくありません。貴女もしたい事があれば遠慮なく提案してください。暇こそ私を殺す最大の天敵ですからね』と言いました。貴女は神意をくみ取り、貴女の意思を実行したのです。つまり貴女()私のために裏切ってくれた。それは咎められるべきものではありませんし、貴女が何か――命で罪を償う様なことなどする必要などこにもないのです」



 ナイアーラトテップ様はしげしげと手の中にこねられたパンを見つめ、それをスープに浸す。



「例え貴女()私を銀貨三十枚で売ったとして、私はそれを許しましょう。私は面白いことが大好きです。逆に面白くないものには価値が存在しない。今回は久しぶりに面白いショーでした。故に気に病むことなど一つもないのですよ」

「しかし――」

「くすくす。『汝のなすべきことをしなさい』ですよ。そう言えば前の世界では貴女に言われたのでしたね。貴女は私の望む事をしてくれたのです。感謝しますよ。ハワトさん」



 そして反論を封じるようにナイアーラトテップ様はスープに浸ったパンをわたしの口に優しく入れられる。



「そういえば、あの人間もまた、神意を理解してくれる数少ない一人でしたね……」

「その方って――」

「なに、遠い遠い昔の従者のことです。あのカーターよりも遥か昔の……。あぁいけませんね。どうもイゴーロナク君に救世主と皮肉られたことに傷心して在りし日を惜しむとは……。ですが、そうですね。あの従者も貴女と同様に私を裏切ったのですが、あれはそれを苦に首を吊ってしまいましてね。それだけが残念でなりません。願わくば、貴女はそのようなつまらぬことはしないでくださいね」



 そしてナイアーラトテップ様はうっすらと微笑み――。



「それでは我が従者ハワト。此度は満点であった。次も期待しているぞ」

「仰せのままに」

「しかし毎度毎度の裏切りは勘弁ですね。二番煎じは許しませんよ」

「はい! ナイアーラトテップ様!!」

「さて……。次の面白いことがどうなるか、考えましょう」



 ナイアーラトテップ様の前の従者というのがどのような方なのか気になるが、少なくともわたしは自殺などしない。そんな真似など断じて――。

 自分を終わらせることは確かに恐ろしいことであり、わたしは到底行えそうにないというのもあるが、それよりも至高の御方であらせられるナイアーラトテップ様から逃げるように死ぬことはない。


 クトゥルフ・フタグン。

 ニャルラトテップ・ツガー。

 シャメッシュ、シャメッシュ。

 ニャルラトテップ・ツガー。クトゥルフ・フタグン

『求めよ、さらば与えられん。(中略)門をたたく者は開かれよう』

マタイの福音書7章


『その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう』

マルコの福音書14章


『スープに浸したパン』

『汝のなすべきことをしなさい』

ヨハネの福音書13章


『銀貨30枚』

ネタバレにつき伏せさせていただきます。



今年最後の投稿なので初投稿です。

この度は邪神転移二章までの御付き合いありがとうございました。

いつもミリタリー小説ばかり書いていたので純粋なファンタジー(?)を書くことができ、とても良い経験になりました。

二章の時と同じく三章も執筆するか未定ですので一応の完結表示となりますが、再び星辰が揃いし日にお会いしましょう。


それではご意見、ご感想をお待ちしております。

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