旧支配者と外なる神・4
「まさか……。この状況でクトゥルフ君を招来させたか」
精錬所の屋上から事の成り行きを見守っていたが、ただただ呆れるばかりだ。
そもそもイゴーロナク君はここでわざわざクトゥルフ君を復活させる義理などないだろうに……。
いや、物事を合理的の名の下に無駄を省いて行ってはそれこそ面白くない。
苦戦し、遠回りをするからこそ面白いのだ。
「あれは……一体……!?」
あぁそういえば屋上にはまだアウグスタがいたか。
もっとも彼女は戦闘に励もうという気概はなく、ただ復活を遂げたクトゥルフ君に目を奪われている。このまますごすごと階段を下れば難なく戦闘を回避出来るだろうが……。
「今は難しそうですね」
クトゥルフ君の身長は優に三十メートルを超える巨体であり、それが押しのける海水の量もまた膨大だ。そうして押しのけられた海水はどうなるか?
そう、大波が次々とインスマスに打ち寄せ、桟橋を、埠頭を、倉庫を呑み込む。
「おやおや。派手に壊れていきますね。あぁなんと美しい……!」
ついに倉庫が派手な破砕音をあげて波にさらわれ、次々と町への海水がなだれ込む。おそらく町を抜けるように位置している川の周囲も大変な事が起こっているだろう。
「良い眺めです。心が洗われる」
健気に築かれたものが壊れゆく様はなんと心を打つのだろう。
壊れ、滅び、嘆き――。
終わりゆくその姿はなんと心を震わせてくれるのだろう。
「あれは……あのお方が、かみさま――!?」
「あぁ、アウグスタさん。その通りですよ。あれこそ貴女達が崇めた邪神――クトゥルフです。どうです? 壮観でしょう」
「クトゥルフ、さま……。これで、父さんの願いは叶った! これで町が救われる。やった」
「……果たしてそうでしょうか?」
そろそろだろうか? そう思いながら闇夜に蠢く怪物を見ていると、
それは突然動きを止めた。
「……? あれ? どうしたのだろう」
そしてクトゥルフ君はなんの前触れもなく、突然倒れ、そのまま静かに海へと沈降し、そして静寂が戻ってきた。
「――!? うそ!? どうして!!」
「彼は確かに南緯四七度九分、西経一二六度四三分の海底に没するルルイエにて永劫の封印についています。彼もまた、他の旧支配者と同様に理性を奪われて、ね」
そう、私が彼らの理性を奪ってしまったのだから。
旧支配者と旧神の最後の戦いである大いなる戦争において私は何もかも失いたくないがために、旧支配者から理性を奪ってしまったのだから。
「結局、誰かを救おうとして、誰も救えませんでしたけどね」
「――?」
「いえ、なんでも。そう、クトゥルフ君の話でしたね。彼は封印される際に理性を奪われてしまっていて、あそこにいるのはただ獣のごとく欲望に従順な肉塊でしかありません。ですので彼の行動方針は彼の気持ちの赴くまま。眠いと思えば眠り、腹が減ったと思ったら腹を満たそうとする。そんな単純な彼が、人間如き矮小な存在に従うとでも?」
世の中、蟻を踏まないように気を付けて歩く人間がいるだろうか?
まぁ中には心の広い奴もいるし、私のような奇特な奴もいるので一概には言えないが、旧支配者という神がどうしてわざわざ人間につきあってやる義理があるというのだ。
もっとも彼らの理性の封印をしたのは私自身なのだから、イゴーロナク君がなにをしようと最終的にクトゥルフ君の復活は私を裏切った時点で不可能だったのは言うまでもないが。
「そ、そんな――! それじゃインスマスは――」
「残念ですねぇ」
「………………」
凍り付き、崩れ去ろうとするアウグスタの顔には絶頂を覚えるほど美しい絶望が浮き上がっていた。
一体なんのために父に協力したのか。
一体なんのために生け贄を捧げてきたのか。
一体なんのために仲間を裏切ってしまったのか。
葛藤もあったろう。【解放者】として人を救いながらダゴン秘密教団として神に人身御供を捧げていたのだから。
それでも彼女は神を欲し、祈っていた。
それなのに彼女は神に裏切られたのだ。
「そん、な……」
ぺたん、と膝をつく彼女はただ呆然と海を見ていた。
そしてクトゥルフ君が倒れる際に巻き起こした一際大きな波が津波となり、インスマスに襲いかかった。
この時間帯だ。逃げる暇もないだろう。
これでインスマスはより終わりに近づいてしまった。それがインスマス復興のためにクトゥルフ君を呼んだのが原因だと思うと笑ってしまいそうになる。
「くくく、くすくす」
だめだ。どうしても嘲笑を押さえられない。こんな悲劇を笑わずに鑑賞できようか。
久しぶりに胸のすく思いだ。
だが私の演目はまだ続いている。このままカーテンコールとはいかないのだ。
「さて、潮も引いてきましたね」
町を襲った津波も徐々にだが、海へと帰り始めている。
「私は最後の演目を演じに行きますが、貴女はどうしますか?」
「………………」
「そうですか。ではこちらでお待ちください。ではご機嫌よう」
カツン、カツンと革靴が階段を打つ。
階段を降りきれば塗れた地面をゆっくりと歩き、そしてジーク達がいた埠頭へとやってきたが、そこに人影は見られなかった。流されたか、避難したか……。
ずいぶん役者が減ってしまったが、なに、終幕は私とイゴーロナク君がいれば問題ないだろう。
「おや、やっとお出ましですか」
沖に出ていた船が戻ってくる。オールは動いていないようで潮の流れに身を任せているらしいそれはついに湾に入り、ゆったりと着岸した。
「待っていましたよ。イゴーロナク君」
船からまず降りたのは短パンに革鎧姿のハワト――イゴーロナク君であり、彼は面白くなさそうに下船した。
「『よぉ。テメェ、こうなるって知っていたな?』」
「えぇ。そもそも君達の理性を奪ったのは私ですからね。私を裏切るのが早すぎたんですよ、君は」
「『チッ。全部テメェの手のひらの上だったわけか。さぞ気持ち良く見物できだことだろうな』」
まぁ星辰がずれているのが儀式の失敗の最大要因だがな。
もしかすると星辰さえそろっていれば案外理性さえもクトゥルフ君が取り戻せた可能性もある。
まぁ後からならなんとでも言えるか。
「さて、どうします? このまま大将戦ですか? 大人しくハワトを返してくださるのなら見逃そうと思いますが、どうでしょう?」
「『んな話に乗っかるかよ。さぁやろうぜ』」
「……本当に?」
「『あたぼうよ。なんだ? 外なる神さまは怖じ気付いて――』」
「ハワトは、私が加護を与えて魔力を増やしていました。故に魔法の行使は体に大きな負荷が加わり、歪みが出ていました。今までで言えば髪の白化、その病的な相貌、あと出血もありますね」
もっともハワトの精神体に潜んでいたイゴーロナク君がそれに気づかぬわけもないだろう。
「ですがイゴーロナク君の子供を召還した際も、クトゥルフ君を招き寄せた今も、目立った発作が出ていない。特に旧支配者を不完全とはいえ異界に招き寄せたのです。死んでもおかしくないはずなのに、君の体はなんの異常もみられない」
「『……それが、どうしたよ』」
「ハワトが使う魔力を肩代わりしていたな?」
「『………………』」
「やはり、か。君は相変わらず優しいな」
「『だからちげーって。テメェの従者もそうだが勘違いしてんじゃねーよ。オレはただ分別があるだけだ』」
「威勢は良いが、お前の魔力はもう空っぽだろう。そんな状態でなにが出来る? 例えお前の本来の姿を現したとしても、私には勝てぬぞ」
彼の本来の姿は白熱した体を持つ無頭の化け物だ。特徴的なのは彼の両手には濡れた赤い口がついており、それに噛みつかれたら自然には回復しない傷を負わされてしまう。
だがその程度の攻撃で私に勝てる見込みなど彼にもないだろう。
「『ばーか! 誰がテメェに下るかよ』」
「……浅はかな」
「『ったりめーよ! オレはテメェと違って変態思考じゃねーんだよ! 浅はか? 結構! 悪っぽいふりをするのは楽しいからな。そうだろ?』」
「くすくす。昔から君は変わらないですね」
「『テメェも相変わらずだな! 大いなる戦争を上手いこと丸めて世界を救ったつもりでいるのか? まるで救世主様だな。んな柄じゃねーだろ。裏切り者め』」
「……えぇ。そうですね」
救世主、ねぇ……。まぁたしかに柄ではなかったな。
「『さぁ始めようぜ! テメェの大事な従者はいただいた。返してほしけりゃオレを倒してみな! キヒヒ』」
「良い悪役っぷりですね。良いでしょう。くすくす」
ジリジリと焼け付くような殺気がぶつかりあい、互いに身動きがとれない。
だが動いたのはイゴーロナク君だった。
彼は背中から一冊の本を左手で抜き、右手の人差し指の先を噛む。
まさかこの期に及んで『グラーキの黙示録』を完成させていないのか。
「『 』」
彼はまるで海に向かって叫ぶように冒涜的な祈りを捧げる。それと同時に彼は『グラーキの黙示録』に噛み切った指先を筆にして正気を失いかねない世界の闇を記述し出す。
それを止めようと一歩踏み出したところで気がついた。バシャバシャと何かが海から泳いでくるモノがいる。
「深きものか」
それは踊るように海面から姿を現し、上陸する。
全体的に灰色がかった緑の皮膚。だが背中には鱗に覆われていた。体こそ人の特長を得ているものの頭部はむしろ魚の面影が強い。
なんといっても左右にむけて飛び出た目は瞬きもせず、鼻も擦れたように存在しない。その上、首もとにはエラのようなモノが生え、呼気と共に震えている。
よく見れば手足の指の間には水掻きがついていた。
陸上での歩き方は不慣れらしく、ヨタヨタと跳ねるような怪しい足取りだ。
「『 !!』」
イゴーロナク君の命を受けた半魚人――深きものが手を振り上げ、そこについた爪で私を引き裂こうとしてくる。
もっとも陸上での戦いは不得手らしく、軽々避けられた。
「奉仕種族で時間を稼いでなにをするつもりですか?」
「『るせーな! 』」
彼がさらなる呪文を唱えると二体目の深きものが姿を現す。
ふむ、またもや物量作戦か。
「同じ手は何度も通用しません、よっと」
振り下ろされる新たな攻撃を避けた時、ふと自分が埠頭の端にいることに気がついた。
これは不味い。
そう思うと共に足首に水掻きのついた手が延びてきて。
「あら?」
すさまじい力で海に引きずり込まれる。
地上よりも濃い闇に覆われた海の中には知覚できるだけで十体ほどの深きものが遊泳しており、それらが一斉に私へと襲いかかってきた。
その近づいてきた一体へ拳を振るおうとするが、水の抵抗の前に私の攻撃は深きものに簡単にかわされてしまう。逆に地上での覚束ない攻撃が嘘であるかのように鋭い一撃が私の胸元を切り裂いた。
それをひぎりに一撃、また一撃と深きものによって体が引き裂かれていく。
海中に吹き出した血が暗い海をより濃い闇に染め、それはいつしか滞留し、まるで個体のように一つの塊へと変貌していき――。
「あぁ! なんと醜い! なんと醜悪! 我が身のなんたる不吉な事か! くすくす――!」
嘲笑が海水を揺るがし、貌のない円錐刑の頭が震える。それと共に鋭い爪のついた触腕が迫ってくる深きものを切り裂き、引きちぎり、叩きつける。
圧倒的な力が私を追いつめていた深きものを襲い、ついには彼らの血で海が汚れ出す。
「さぁ、次はお前の番だ!」
禍々しい体が海中を跳ね、陸へと躍り出る。
そこには私の姿を見て発狂する儀式に出向いていた船員がおり、ただうっとりと私を見つめるハワトがそこにいた。
「イゴーロナク! これで終わりにするぞ!」
「『……やっぱテメェには勝てねーのか。さぁやれ!! くそったれの裏切り者ッ!!』」
振り上げた触腕が鞭のように唸ってハワトの体に迫る。
「――お待ちください!!」
ハワトの体に鞭が直撃する寸前、彼女は言った。
「……ッ!」
彼女は自分の身を守るように腕を顔の前に組み、直撃するであろう触腕を待っていた。愚かな娘だ。私の一撃をそのようなもので防げるか。
「……?」
おそるおそる彼女が目を開けると目前で止まる私の触腕が見えた事であろう。
もっともその状況に安堵のため息をつく暇もなく罵声がはいる。
「『おい、テメェ! 今更しゃしゃり出てくるんじゃねーよ!』いや、でも……。最期にどうしてもイゴーロナク様の思いをお伝えせねば――。『黙れ! 黙れ! 黙れ!! おい、ニャルラトホテプ!! さっさとオレをころ、ここ――!』ナイアーラトテップ様! どうか、伏してお願い申しあげます。どうかイゴーロナク様の話を――。『うるせー! テメェ! 言わせねーぞ!! 絶対に言わせてなるもんか!』でも、イゴーロナク様はナイアーラトテップ様にお伝えせねば――。『っるせー!! 死んでも言うか!! 死んでも、良いなんてことはありません!! こんな、こんな思いを伝えずに――だああああまあああああれええええッ!!』」
頭を押さえ、息も絶え絶えにイゴーロナク君は、ハワトは言葉を紡ぐ。
ありが、とう……。
どちらの言葉だったのだろう。
そう思うと共に、最早興が削がれている事に気がついた。
故に触腕がハワトの持つ『グラーキの黙示録』を切り裂く。か細い彼女の手からその衝撃により簡単に魔導書が宙を舞い、ページを散らしながら海へと没した。
「これで終わりだ。イゴーロナク」
「『テメェ! ざけんな! 殺せ! 殺せ! 殺せえええ!! どうしてだ!? 惨めにも封印されたオレ達を嘲笑するクソ野郎め! 理性を奪われ、獣のように欲にまみれたオレ達を嘲笑していたクソ野郎め!! テメェだけは許せねぇ!! テメェだけは! テメェたけは――!!』」
ハワトが一歩、二歩と歩み、走り、私の体を叩く。
なんの痛みもない、無力な一撃が私に突き刺さる。
「『テメェは白痴になったオレ達を笑っていたんだろ? 共に過ごした仲だってのに、テメェは旧神なんかに組みしやがって! オレは、オレ達は旧神に負けたことよりも、テメェに裏切られたことの方が――!! がああああ!!』」
消えない慟哭がインスマスに響く。
あまりにも悪い後味に、思わず口元が緩んでしまった。やはり私は、誰も救えていないのだな。
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