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旧支配者と外なる神・1

【ハワト視点】



 イゴーロナクの子供達を残して走り出し、向かった先はインスマス唯一の宿屋であるギルマンハウスの裏口だった。ただ単に通りを駆け、壁沿いにあったその裏戸をくぐり、手入れのされていない中庭を抜けてこっそりと入店するとロビーには大勢の人だかりが出来ていた。

 ズダ袋を被せられ、手を縛られて拘束された人間が五人ほど。その周囲には顔を強張らせた漁師風の男が同じく五人。その輪から少し外れた場所には驚きを露わにするオーベッド・マーシュ町長に宿屋の主らしい不愛想っぽいおじさま。

 そんな大勢に迎えられた事に若干の緊張を滲ませつつ「部屋はあいておりますか?」と尋ねれば宿屋の主がオーベッドに許可を取るように視線を向け、町長が頷いたことでわたしの部屋がやっと確保された。



「三階の三〇一号室なら――」

「でしたらそこを少しお貸しください。実はナイアーラトテップ様より魔導書を用いて儀式の準備をするよう指示がありまして、そこで作業をさせてください」

「わ、分かった。使ってくれ」

「御協力に感謝を。それとナイアーラトテップ様から伝言で、皆さまはその準備が整い次第儀式を始めていただくためどうかここで待機して欲しいとのことです。また、【解放者(リベレーター)】が来ているという不測の事態が起こっているものの、儀式は滞りなく執り行いますのでご安心くださいとも仰せでした」

「分かりました。そういう事ならお待ちしております」

「それでは後ほど――」



 部屋が取れた事に安堵しつつ階段を上り、三〇一室へと入ると、暗闇がそこに広がっていた。ロビーで灯りを貰ってくるべきだったと後悔しつつ、薄汚れた廊下から差す光を頼りに部屋に置かれたオイルランプを探し出して魔法で火をつける。

 ぼぅっと浮かび上がった部屋には窓が二つと飾りのない安っぽい家具が置かれ、窓を覗くと向かいの荒れ朽ちた屋根があり、その下には陰鬱な中庭を見下ろす事が出来た。



「ミスカトニックホテルに比べるとすごいところだなぁ……」



 抱えていたブックバンド一式を小さな机の上に広げ――。そこで自分がペンもインクも持っていない事に気がついた。

 やってしまったと思いつつ試しに引き出しを開けてみると、運良くそこには使いかけのインク壺と先の丸まりかけた羽ペンが入っていた。



「これでなんとかなりそうですね」



 安堵と共に写本を広げ、インク壺に羽ペンを浸す。

 そしてページをめくればそこにはとある旧支配者についての記述がびっしりと書きこまれていた。もちろんわたしが書いたものだ。

 これには秘密の呪文が織り込まれ、これが完成した暁には旧支配者イゴーロナクの召喚が叶う。それに思わず口元が緩みながら白い書面にペンをつければ黒い線が伸びていく。

 黒線と黒線が合わさって文字になり、文字同士が意味のある文を生み出す。

 滲みながらも白い世界が汚され、次々と黒に征服されていく様は知れずとわたしに達成感を与えてくれた。

 そんなわたしを固いベッドから面白くなさそうに見て来る視線を感じる。

 もう振り向かなくても分かるその存在こそイゴーロナク様だ。



『何が楽しくてんなもん書いてるんだか……。お前のような奴を従者にしたあいつの気が知れねーぜ』



 あのお方を貶める言葉に反射として振り向くとベッドの上に胡坐をかいた半透明な()()()がそこにいた。

 ナイアーラトテップ様によく似合うと評を頂いた濃紺のローブに魔女帽子。

 深淵なる知識を得る毎に色が抜けてしまった髪。

 病的に落ちくぼんだ瞳。

 その全てがわたしと同じ存在。それが今のイゴーロナク様だ。



『悪かったって。そう睨むんじゃねーよ』



 下卑た笑みを浮かべるイゴーロナク様を見ているともしかしてわたしって笑うとあんな顔になっているのかな? という一抹の不安が迫って来る。もしナイアーラトテップ様にあんな顔を見られていたらと思うとなんともいたたまれない。



『おいおい。ひでぇこと思ってんだろ? 今のオレは嬢ちゃんの精神体に寄生しているからだいたいはどんなこと考えてるか伝わって来るんだぜ』

「あの、わたしはイゴーロナク様を侮辱するつもりでは――」

『チッ。分かってら。んなこと。そう伝わって来るんだからな。まったく。精神寄生なんか初めてやったが碌なもんじゃねーな』

「早く『グラーキの黙示録』を仕上げますので、どうかご辛抱ください」



 少しだけ目をつぶると頭のどこからか湧きだす未知なる文字列を紙へと書き写していく。もっともその作業も間もなく終わることだろう。

 何故かは分からないが、終わりが近い事がわたしには分かっていた。

 その最後の文節を書き終えれば“わたし”という存在にイゴーロナク様に塗りつぶされ、かの神はこの世に顕現なされるのだ。その時、わたしがどうなっているのかは分からない。

 もしかするとわたしはその時に終わってしまうのかもしれない。

 前の世界での父との約束を――何がなんでも生きるという約束を反故にしてしまうし、何より自分が死ぬことは恐ろしいことだ。

 だがわたしの手は止まらずに、淀みなく『グラーキの黙示録』を書き記していく。



『……酔狂なやつだな。知らずにやってるならただの間抜けと笑えるんだが、知った上でやってるんだから笑いようがねーよ。いや、救いようがねぇってやつか?』

「――? わたしはナイアーラトテップ様に救われましたよ」

『ちげー! そういうことじゃねーよ!』



 くつくつとした歓喜が浮かび、より口元が緩む。こうも楽しい一時は中々得られないものだ。

 それを噛みしめつつペン先を動かそうとして、腕がピクリとも動かなくなってしまった。必死に腕を動かそうとするのだが、まるで自分の腕ではないようにいうことをきいてくれない。

 きっと『グラーキの黙示録』が完成に向かうにつれイゴーロナク様の御力が強まってきているからわたしの体の支配権をのっとってきているからだろう。

 それに以前はこうもはっきりとイゴーロナク様の御姿――半透明のわたしを見る事もなかった。



『嬢ちゃんよぉ。ちっとばかし聞きてーんだけど、どうしてオレに協力してくれるんだ?』

「……矮小なる人のことなどお気に留めることもないでしょうに。それに僭越ながら申し上げますが、わたしとイゴーロナク様の精神は繋がっておりますし、わたしから言う事など――」

『確かに精神的に繋がっちゃいるが、完全じゃねぇ。だから主な感情が伝わるが、嬢ちゃんが何考えてるかはわかんねーよ。だから言え』



 有無を言わさぬ口調と言うことを聞かない体に諦めをつける事にした。



「ナイアーラトテップ様の御為です」

『……はぁ!? 何言ってんだ?』



 まるで別の言語を話されていると言わんばかりにわたしの顔が呆れを露わにする。いや、イゴーロナク様が、か。



『あのろくでなしのため? キヒヒ。あいつとお前は今、敵対してるじゃねーか。それのどこかアイツのためなんだ?』

「わたしが敵対しているというよりイゴーロナク様がナイアーラトテップ様に敵対なされているのでは……」

『テメェの主と敵対するオレの幇助してんだ。なら裏切ったも同然だろ』



 そう言われてしまうと返す言葉がない。

 確かにわたしはナイアーラトテップ様を――至高なる存在を欺き、裏切ってしまった。

 その事に関してはまさに万死に値するが――。



「しかしナイアーラトテップ様はこう言われました。『暇こそ私を殺す最大の天敵ですからね。何より楽しくないものほど価値はありません』と。ならばわたしの使命は降臨なされたナイアーラトテップ様の御心を慰める事であり、それがわたしを従者としてくださるナイアーラトテップ様へのせめてもの奉公なのです」

『いや、意味わかんねーよ』

「えぇ!? そんなぁ……!」



 どうしたらこの気持ちが伝わってくれるのだろう?

 学の無い頭を必死に使うが、中々相応しい言葉が現れない。それがどうももどかしい。



『言っとくがオレはテメェの体をいただくんだぜ。つまり嬢ちゃんはそこで死んだも同然さ。それが怖くないのか?』

「それは……。怖いです。自分が終わってしまうことは」



 だがそれ以上に――。



「ナイアーラトテップ様に飽きられてしまう事の方が、わたしは怖いです」



 彼の神は我が身を顧みることなく世界を創り直して下さった。

 あれが旧神ノーデンスから封印されることを阻止するために戦ったのだとしても、それなら壊れ行く世界を創り直す必要などどこにもない。

 だからわたしは期待してしまう。


 ――わたしのために世界を創造してくださったのだと。


 それがどこまでも自分本位あるかは理解しているつもりだし、己惚れている事も分かっている。

 だが、一片だけでも心のどこかではそうあって欲しいとわたしは願ってしまっている。

 だからこそわたしはナイアーラトテップ様のためにこの命を使いたい。ナイアーラトテップ様がお喜びになられるように我が身を使いたい。

 だからわたしは『グラーキの黙示録』を書き続けているのだ。



『人間ってやつはこれだから理解できねーんだよな。なに考えてるかまるでわからねぇ』



 ごろりとベッドに横になられるイゴーロナク様だが、その体勢だとスカートの中が見えてしまっていて非常に恥ずかしい。いくらイゴーロナク様の精神体とはいえ、容姿はわたしなのだから――。



「あの、よろしいですか?」

『んだよ。女らしく振る舞えってか? 嫌だよ。嬢ちゃんがやらねーようなことを敢えてやってるんだからな』

「か、確信犯ですか!?」



 さすがナイアーラトテップ様と同様の趣味をもたれる旧支配者だ。



「そうではありません。なんと言いますか……。イゴーロナク様ってお優しいのですね」

『あ? んなことねーよ。今もどうやってオレの信者を増やしてこの世界に狂気を振り撒いてやろうか考えてんだ。そんなオレが優しい? キヒヒ。テメェ、いよいよ正気を失ったな?』

「だって、わたしの身を案じて先ほどの問いをしてくださったのですよね」

『………………』

「ナイアーラトテップ様ならあのような忠告はなされなかったと思います。あのお方であらせられればただ壊れ行くものを静かに見守られるだけに終わるでしょう。そして最後の最後でお姿をお示しになられ、総評を加える。おこがましいことですが、わたしはそう推察いたします」



 それにイゴーロナク様は思案を浮かべながら『……だろうな』と行程してくださった。



「ですからわたしはイゴーロナク様がお優しいと――」

『あー! ヤメロ! ヤメロ! 鳥肌が立つ!!』



 両手で耳を抑え、背を向けられる姿にどこか人間のようだと不敬な念を抱いてしまった。

 だがしばらくしてイゴーロナク様は脱力したように重い溜息を付いて静かになられたかと思うと、居心地が悪そうに言葉を紡いでくださった。



『いいか!? オレはアイツとは違う。確かに同じ趣味をもっちゃいるが、オレは根っから人間が嫌いなんだよ。対してアイツは――ニャルラトホテプは人間が大好きなんだ』

「でも――」

『正しく言やぁオレが持ち合わせてるのは“優しさ”じゃなくて分別なんだ。……だがアイツはんなもん持ってねぇ。ただの法則だった奴はんなもんお構いなしなんだよ。それに正確に言や、アイツは見守るんじゃなくて壊れる様を観察する。観察して、考察して、結果をフィードバックする。んな奴だ。誰かの心なんて奴にゃわからないんだよ』



 それがどういう意味か分からず、ただベッドに寝ころぶわたしを見ているとイゴーロナク様は何かを決めたようにむくりと起き上がられた。



『アイツはどこまでも自分本位なんだよ。自分が楽しきゃ、他はどうでもいい。それが奴だ。だからオレ達はアイツに知性と理性を奪われ、為すすべなくオレ達はクソッタレな旧神に敗れた。それもこれもアイツが楽しむためにな』



 まるで吐き捨てるような言葉と共にどこからかやり場のない怒りと、そして悲しみが押し寄せて来る。おそらく精神的に繋がっているイゴーロナク様の想いがわたしに逆流してきているのだ。

 狂わんばかりに押し寄せる激情に思わず涙がこぼれ出てしまう。それほどこの旧支配者はナイアーラトテップ様の裏切りが許せないのだ。



『つまり、だ。オレはあんないかれ変態野郎とはちげーってことよ』

「……やはりお優しいのでは?」

『バッカ! オメェ! 神託(はなし)聞いてなかったのかよ!!』

「それにナイアーラトテップ様と仲がよろしいのですね」

『んな訳あるか! 腐れ縁なだけだ! 今に見てろ! テメェの体を乗っ取ったらクトゥルフの野郎を目覚めさせてテメェの御主人様をボコってやる――。って、テメェ信じてねーな!? 精神が繋がってるから分かるぞ、ゴルァ!』

「クスクス。申し訳ありません」


 ◇

 【ナイアーラトテップ視点】



「さて……。思ったよりも手こずっていますね」



 イゴーロナクの子供の攻撃でいよいよ人間体としての死が訪れたのは今からおよそ五分ほど前だった。

 連中の手に着いた口がいよいよ私の首の動脈を噛み切った時、私の体はぐにゃりと歪み、顔が消失してこうも醜い神の姿にならざるを得なかったのだ。

 幾度か触腕から伸びた鈎爪を振るえばイゴーロナクの子供は簡単に息の根を止める事が出来たが、次元の裂け目からは途絶える事無く盲目の化け物があふれて来る。



「          」



 洞のように開いた貌から呪詛のような叫びを宣布し、次元を埋める。これで増援を断てたか。



「さぁこれで終わりだ!」



 哀れにもただ噛みついて来ようとする化物の子を触腕が切り裂き、絡めとって押しつぶす。一方的な殺戮劇が終わってみればただ数を頼みにした攻撃であったと若干の退屈感を覚えてしまうが、久しぶりに良い運動をしたと思う。やはりこれくらい刺激がなくては面白くない。



「しかしまんまと逃げられてしまいましたね……」



 ふむ、困ったものだ。

 そもそもイゴーロナクの目的はなんだろうか? いや、悩むまでもないな。十中八九私を困らせる――私との敵対行為に違いない。

 もっとも彼と一対一での勝負をしたら私が圧勝してしまうのは目に見えているが……。

 ――と、いうことは増援を呼びつけて一対他の状況を作るはず。だがそれは今しがた相手したような下等な奉仕種族などでは数の内に入らない事などイゴーロナクも心得ているはずだ。

 私と戦うのならせめて奴と同じ旧支配者を呼びつけるしかない。

 ならば――。



「多少の無理に目を瞑ってクトゥルフ君あたりを復活させるつもりでしょうか? 幸い海が近い上にイゴーロナク君の依代となっているハワトは『ルルイエ異本』を翻訳して知識を蓄えていますし、『グラーキの黙示録』も所持していましたね。あぁ、私が与えた『ネクロノミコン』にもクトゥルフ君の記述がありますし、魔力をどうにか捻出できればルルイエの主を復活させられる、か……」



 そう言えばイゴーロナクの子供を召喚した際の魔力だが、ハワトの魔力は私が加護という魔力供給をしているせいで本来なら出血に見られるような負荷がかかるはず。それなのに彼女の見た目は変わっていない様に思えた。

 つまり別の――イゴーロナク君自身が己の魔力を使っているということだ。なんとも甘い奴だ。

 だがそれが彼の美点でもある。



「もっとも私の従者を差し出すのは癪に触りますね。ふむ、つまり私はイゴーロナク君が企てるクトゥルフ君の復活阻止とハワトさんの奪還がクリア条件(ミッション)というわけですか」



 だとすると時間をかけてしまうとハワトの体を乗っ取ったイゴーロナク君が『グラーキの黙示録』を完成させてゲームオーバーになってしまう。

 それを阻止するためにもまずはハワトを奪還する必要があるな。



「しかし一人でインスマスを探すのは骨が折れそうですし、なによりタイムオーバーになりかねませんね……。あぁ。そうだ。ちょうど猟犬が来ていたな。奴らならNPC程度には場を盛り上げてくれることでしょう。確かオーベッドさんの家に泊まるとかいってましたね」



 そうと決まれば話は早い。

 一時停止(ポーズ)の存在しない待ったなしのゲームだ。くすくす。ゲームも佳境となろう。最後まで楽しめると良いのだが……。

それではご意見、ご感想をお待ちしております。

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