叛逆
「ナイ殿の故郷は?」
「ありません。私は流れ移ろいゆくモノ。一所に腰を落ち着ける性分ではないので」
「では、わしの気持ちは分からぬのでしょうね」
「えぇ、残念ながら」
それにオーベッドは一回りほど小さくなったように肩を落とし、海底に沈殿するような闇に沈む町を見渡す。いや、かつての栄華――。在りし日のインスマスを思い出しているのかもしれない。
「では、何か大切な物はありますでしょうか? 二つとない、唯一無二なものが?」
「そうですねぇ。……無くは、ないです」
チラリと同じくオーベッドの話を聞く従者を見やると、彼女はどこかつまらなそうに足で地面につもった砂に絵をかいているところだった。
私にとってハワトとは代わりのない従者だ。大切かはさておき、彼女なら私を飽きさせないものを持っていてくれると期待を抱かせてくれる存在でもある。そう、世界を賭ける程度には大切に思っているともいえようか。
「ならばそれがわしにとってのインスマスなのです」
先祖が切り開き、モンスターと戦いながら湾を港へと作り替えて生まれたインスマス。
その後もモンスターから生活を守るために陸で戦い、海でも戦い――。
そうしてインスマスは活気に満たされていた。
「わし等は海の神様がインスマスを与えてくださったのだと、祈りを捧げてきました。しかし――」
モンスター討伐がもたらした需要はインスマスを大いに発展させた反面、精錬所からの排水が海に流れ込んだり、魚の乱獲により漁業資源への壊滅的な打撃をもたらした。
「わしが若い頃は、多くの者が奇病に倒れました。今でも後遺症に悩む者もおりますが、王様はそんなわし等よりも新しい港の建設に力を入れられ……」
社会福祉の充実など産業革命を待たねば起こらぬ社会の変動が中世風の世界に起こるはずもなく、彼ら弱者は切り捨てられたのだ。
故に権力にではなく、神に縋る道を選んだ――。
「わしの妻も、アウグスタを生んでから体を壊しました。もう十年になるかと」
「なるほど」
「幸い、娘に奇病の兆候は表れませんでした。しかしこのままではインスマスで暮らす者はいなくなるでしょう。そうなればインスマスでの暮らしを語り継ぐ者も消えてしまいます。わし等が暮らしたあとが残らない……。それはあまりにも残酷で、許し難いことです」
「だから私を信用してくれると?」
「お願いいたします! わし等は何でもします。インスマスが救われるのなら――!!」
「”なんでも”ねぇ……。では最後に一つ。この仕打ちを神の仕打ちだとはお思いにならないのですか?」
それにオーベッドは逡巡しながらも力強く言った。
「もし、神様が幸せをくださるのでしたら、同じく苦しみも受け取ります。きっとそれを神様はご覧になられていることでしょう。わしには苦しみのみをお与えになられてもかまいません。しかしその見返りをアウグスタにお与えになられるなら――」
感動的だ。知らずと頬を熱い想いが伝わっていく。
これほど純粋な人間がいるとは――! これほどの信仰があるとは――!
この世界も捨てたものではない。
神を疑わぬその気持ちだけでも十二分に私の心を動かしてくれた。
「な、ナイ殿!? どうされたのです!?」
「オーベッドさん。私は非常に感動しました。私は全力を以てインスマに力を貸しましょう」
「ほ、本当ですか!?」
「えぇ。がんばりましょう」
「はい! ナイ殿!!」
がっちりと堅い握手が結ばれ、互いにそれを握りあう。
「な、ナイアーラトテップ様。それで、儀式とはどのような儀式を執り行われるのでしょうか?」
痺れを切らした従者の言葉に思わず舌打ちをしたくなる。感動の瞬間だというのに、彼女はまだ舞台のノウハウを知らぬのか。今度しっかりと教え込んでやらねばならないな。
「そうですね。このままクトゥルフ君を復活させる事もできますが、膨大な魔力が必要になりますのでこれはナシで行きます」
「では――?」
「彼の眷属である深きものの力を借りましょう」
深きものとはクトゥルフ君の眷属――奉仕種族であり、謂わば半魚人の事だ。
禿頭にして魚のように左右にせり出した瞳。落ち窪んだ鼻先。首には鰓。手足の指の間には水掻きを持った忌まわしき眷属。それが深きものである。
「彼らの力を借りれば、ルルイエにため込んだ金銀財宝をここまで運んでくれるでしょうし、それを売れば金になります。それに深きものを使って魚を集めてくれば豊漁も望めるはずです」
もっとも代償が無い訳ではないが……。だが町長たるオーベッドから『何でもします』と言質をとっているからまったく問題ない。
「それには深きものを呼ぶための儀式をせねばなりません。この近くでもっとも深い海溝はありますか?」
「それなら悪魔の暗礁の近くが良いでしょう。あそこは海流が早いので難所ではありますが、あの暗礁の根本は光も届かぬ海底に続いていると聞いた事があります」
「では生け贄を携え、深夜にでも出発しましょう。準備をお願いします」
「はい!」
「では我々は儀式の支度をしますので、深夜にでも埠頭で集合しましょう」
「分かりました。では――!」
再び宿屋へ向かうオーベッドを見送り、ハワトに向き合えば彼女は何が起こるのかと顔を気色に滲ませながら私を見つめてくる。
心なしか落ち窪んだ瞳には邪悪な笑みが浮かんでいるように思えた。
「ハワトさん。『ルルイエ異本』の翻訳状況はどうなっていますか? オーベッドさんが儀式を行える状態になっているのでしょうか?」
「はい、ナイアーラトテップ様。準備万端です」
「それはよろしい。では貴女はオーベッドさんの補佐をお願いしましょう。儀式の段取りについての質問はありますか?」
「えと……」
小さく首を傾げ、濃紺のローブの下に手を入れて何かを引き出そうとしながら彼女は「『ネクロノミコン』もありますし、おそらく大丈夫かと」と頼もしい言葉を言ってくれた。
「では頼みましたよ」
「はい、ナイアーラトテップさ、『まッ!!』」
突然、粘つくような殺意が沸き起こったかと思うとハワトのローブの下からナイフを持った手が伸びてきた。
それが私の拳が横合いから一撃をたたき込み、肉に刺さる前にナイフは弾け飛んだ。
「くすくす。あの視線は貴女でしたか。ですが何度も不意打ちでやられる私ではありませんよ。ハワト――いや、お前は――」
三白眼のように落ち窪んだ目が見開かれ、敵意と殺意、悪意のある視線が私を突き刺してくる。
彼女の口元は邪悪に歪み、悔しそうに、それでいて楽しそうに、嗤っていた。
「『チッ。ばれちまったか。もう少しでテメェを星間に帰せると思ったのにな!』」
それは確かにハワトの声であったが、その乱暴さは彼女が秘めたものではない。
そう、彼こそは――。
「イゴーロナク。貴様、くすくす。そうか! 我が従者に潜んでいたか」
「『そうだよ。中々これは良い入れ物だ。テメェにゾッコンってのは気持ちわりーが、おかげで良い感じに悪徳を積んだ宗教家になってら! ありがとうよ! ナイアーラトテップ様ぁ!』」
そんなハワトは手にしていたナイフを投げ捨て、夜風に舞うローブを翻す。その下にはブックバンドに挟まれた分厚い本が三冊。一冊は私が与えた『ネクロノミコン』であり、残りの二冊は信者に渡す写本と言っていた。
そのうちの一冊をハワトはブックバンドから抜き取り、開く。
「『全ての魔法を扱う外なる神と一対一で戦うのは分が悪いからな。未完でもこいつを使わせてもらうぜ』」
「『ネクロノミコン』程度で私と戦うつもりですか? それも贋作で? くすくす。私も舐められたものですね。良いぞ! 身の程を教えてやる! 来い! イゴーロナク! 我が所有物を占有した罪を償わせてやろう!!」
いつの間に我が従者に入り込んだのか分からないが、少なくとも悪徳の素養をハワトは持っているから乗り移られていても不思議ではない。
ふむ、そういえばハワトは星の智慧派に属し、人間さえも儀式に供している旨を話していたな。
純粋な彼女の事だから罪悪感などなく純粋な狂気を孕みながら儀式を嬉々として執り行っていたに違いない。
だとするとまさにイゴーロナク君好みだ。
まったく、油断も隙もないな。くすくす。
「『先手はもらうぜ! 』」
彼女の口がはばかれるべき世界の真理を紡ぐ。余りにも冒涜的な祈り。だがそれは『ネクロノミコン』には載っていないはずの呪文であった。
「『さぁ! 来たれ! 我が愚鈍なる落とし子よ!!』」
地面に鈍く輝く魔法陣が現れたかと思うと空間に亀裂が入り、それを端に虚空がひび割れて暗闇とはまた違う深淵をそこにのぞかせる。
まるで吸い込まれそうなその闇の中で何かが蠢き、こちらを覗きかえしてきた。
「おかしいですね。その呪文は『ネクロノミコン』には記載されていないはずです。だってイゴーロナク君の事を『ネクロノミコン』に書いては貴方の信者が無数に生まれてしまいますからね。それは面白くないと敢えて省いたというのに」
「『ったりめーよ! これは特別な一冊だからなぁ!!』」
その叫びと共に闇から一人の子供のようなものがふらふらと現れた。
ぼろぼろの衣類に身を包んだ十歳ばかりの子供――いや、子供の大きさをした何かだ。
目があるべき場所は塞がり、病的を通り越し、ただ白い皮膚を持つ化物。それのだらりと垂れた掌にはぱっくりと口が開いており、そこからぬらぬらとした唾液に濡れた舌と牙が覗いている。
その奇形の掌からは意味をなさぬ唸り声が漏れ、よたよたと知性の見当たらぬ足取りで迫って来る。それも一体だけではない。割れた次元の裂け目からまた一体、一体と後続が姿を見せて来た。
「イゴーロナクの子供、か。なるほど。それは唯一貴方の事が書かれている魔導書――『グラーキの黙示録』ですね」
「『さすがだな。あぁ! そうさ! その通り!』」
どうやらイゴーロナク君はハワトの深層心理に潜み、復活の機会を狙っていたのだろう。
彼の招来には悪徳を抱く宗教家か、『グラーキの黙示録』を読むことによって悪徳の心を芽生えさせた者が必要だ。
そして日夜ハワトの体を使って『ネクロノミコン』の写本を書くふりをしながら『グラーキの黙示録』を書いていた、ということか?
だが彼はあの本を“未完”と言っていた。つまり書きかけの段階であるからハワトを完全に乗っ取り、本来の姿を現す事が出来ないのではないだろうか?
ならば『グラーキの黙示録』が完成するまえにイゴーロナクの子供を始末し、あの本を奪ってしまえばイゴーロナク君の招来を阻止できる。なるほど、ミッション追加か。
「よろしい。かかってこい、相手になってやる!」
「『せいぜい吠えてろ! あばよ!』」
ハワトが駆けだすと共に醜い子供達が駆けだしてくる。
目が見えぬのに私を捕らえているようだ。視覚以外の感覚器官――耳などが発達しているのだろうか?
そんな事を思案していると先頭の一匹が両手を――掌の口を大きく開け、噛みつこうとして来る。それも両手と、顔についた口を使って。
一度に三連続攻撃か。それに続々と新たなイゴーロナクの子供が現れてきている。一匹一匹は外なる神たる私にとって雑魚以外のなにものでもないが、こうも物量で迫られると厄介だ。
だが――。
「くくく、くすくす。あぁ! なんと楽しいのだ!! くすくす!!」
まーたヒロイン裏切りですよ。やっぱり好きなんすねぇ。
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