インスマス・3
「――ここも訳が間違っていますね」
「なるほど! この文節がこちらに繋がるとは!」
書斎に響くカリカリという羽ペンの音とページがめくられる音。
ハワトの的確な推敲により、『ルルイエ異本』は正しく邪悪な魔導書としての形を帯び始めた。
だが残念ながらタイムアップだ。
「お二方。熱心なのは素晴らしいですが、もうすぐ夜がやってきます」
時はすでに逢魔が時。
薄闇に覆われ出した書斎で顔を突き合わせるハワトとオーベッドは気づいていないようだったが、間もなく時が満ちようとしている。
遠き星辰達が今日、今夜、今宵、揃おうとしている。
最早待つ事など出来ぬほど星々は整えられ、遥か遠き海の彼方では海底に没するかつての魔都が浮上の時を待ちわびているのだ。これ以上、待つ事などできようはずもない。
「確認ですが、オーベッドさん。生贄のご用意は出来ているのですね?」
「え、えぇ。明後日にでも儀式を行おうと、旅人の一行を捕らえて監禁しています」
「それは素晴らしい。しかし時は満ちてしまいました。今夜にでも儀式を執り行いましょう」
「こ、今夜!? そ、そんな……。まだ準備が――」
「ご心配なく。純粋な願いは叶えられて然るべきです。ならば貴方達の悲願もまた成就の時を迎えることでしょう。我々も儀式をバックアップいたしますのでどうかご安心を」
顔を引きつらせるオーベッドに優しく微笑み、書斎の窓辺へと歩を進める。
時代を考えればありえないほど澄んで、歪みの無いガラス窓の先には濃紺に染まり行く空の中で金星に似た明星が見て取れた。
くすくす。いよいよだ。いよいよ彼らの望みを叶えてあげられる。そのなんと喜ばしい事か。
「さぁ参りましょう」
「はい、ナイアーラトテップ様!」
「わ、分かりました。生贄はこの町唯一の宿屋であるギルマンハウスに閉じ込めています。案内いたしますので、こちらへ」
オーベッドに連れられ、闇に落ちようとする町に躍り出れば、彼は町長としてか方々の家を訪ねて急な儀式について触れを出していく。
そうしながら血に染まったような太陽を背に一軒の薄汚れた宿屋の前にたどり着いた。
三階建てと高さはあるが、ミスカトニックホテルと比べてしまうと規模の二回りは小さな宿だ。
「少々お待ちください。オーナーと話してきます」
「えぇ、どうぞ。待っていますよ」
灯りの灯り出したホテルにオーベッドが消えて行くのを見守ると、ガラガラと車輪の転がる音と共に慌ただしい蹄の響きが近づいて来た。
それは一台の馬車であり、昼前にアーカムから私達をインスマスへと運んでくれた馬車であった。
その馬車が不気味な軋みと共に停車すれば荷台から騒がしい声が聞こえて来た。
「もー! なによ、夜じゃない! ジークがもたもたしてるから一日に二便しかない馬車の一便を逃しちゃったじゃない!」
「教会と色々あったんだから仕方ないだろ。それでここからアーカムへの便は何時出るんだ?」
「明日」
「あ、明日!? まじかよアウグスタ!?」
馬車からがやがやと降りて来たのは【解放者】共だった。
それを御者はうるさそうに人睨みし、鋭く鞭を打って馬車を出発させた。
「――って、ハワトちゃんに、ナイさん」
「これはジークさん。それに【解放者】の皆様も。ふむ、この再会は偶然などでは、ないようですね」
「えぇ」
ジークは腰ほどまでの青緑色のマントを翻し、その下――肩から吊られた雑納から一枚の羊皮紙を取り出した。
おやおや。ギルドの壁に張り出されたクエストは紙に書かれたものであり、ここで古風な羊皮紙が出て来るか。
「ギルドへの召喚状です。貴方には邪教崇拝の疑惑がかけられていて、俺達は貴方をアーカムに連れ戻すよう教会からクエストを受けました。ご同行を」
「もしですが、私がそれを拒んだ場合は?」
「実力で――」
ジークが腰に吊られた一振りの剣に手を伸ばす。それからは僅かなら魔力が漏れ、業物の中の業物――神代の遺物であることを無言で語っている。
アレは確か前の世界では魔法的な装甲さえも切断する力を秘めた一振りであり、さしもの私でも手傷を負う覚悟をしなければならぬものであった。
ハワト達のLvが引き継がれている事からも同じアイテムをジークが所持している可能性は高い。
「おっと。それは怖い」
「ならば、アーカムへの召喚を受け入れる、ということで良いですか?」
「仕方ありませんね。暴力に訴えるような行為は趣味ではありませんし、それで満足するのなら召還に応じましょう」
それに顔色を変えたのはハワトであった。
彼女はくぃっと病的に白い顔を青ざめさせながら不安を訴えて来る。
「なに、心配は要りません。どうせ次の太陽が地平線に現れる頃には、私の召喚云々など問える状況ではなくなっているでしょうから」
「でも――。万が一にもアーカムに行かれては教会の手によって宗教裁判にかけられて絞首刑に――」
「そうですね。『年長者、祭司長、書士たちから多くの苦しみを受け、かつ殺され、三日目によみがえらねばならぬ』というやつでしょう。くすくす」
「そんな! ご冗談でもそのような事は言われないでください! 御身が傷つくなどそのような運命などあってはならないのです!! ですから、どうかご自分を大切にしてください! もし、御身に何かあればわたしは――ッ」
「……くすくす。うれしい事を言ってくれますね。やはり私は貴女を従者と出来たことをうれしく思います」
『主よ、ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような運命にはならないでしょう』
そう叱られるとはな……。
だが悪い気分ではない。むしろ――。いや、どうでもよいか。
それに薄汚れた宿屋――ギルマンハウスからオーベッドが戻ってきた。思い出に浸る時間も終わりだ。
「遅くなりました。――ん? あ、アウグスタ!? どうしてここに!?」
「クエストで来た。明日には帰る」
「あぁオーベッドさん。どうも私は教会から邪神崇拝者と誤解されているようで、【解放者】の皆様が私をアーカムへ連れ帰ろうとなさっているのです」
オーベッドの顔色から血の気が引いたのは言うまでもない。とばっちりが来るの事など望んでいないのだろうから。
もっとも彼の愛娘であるアウグスタもダゴン秘密教団に属しているのだから教会の追求などいくらでもかわせるだろうから彼の心配はいらないはずだ。
「な、なるほど。早く誤解が解ける事を祈っております……。しかし今日はもうアーカム行きの馬車は出ておりませんし、我が町の冒険者ギルドも三年くらい前に閉鎖されて久しいです。アウグスタもせっかく帰ってきてくれたことですし、今宵はどうかゆるりとご滞在ください」
「えぇ、そうさせてもらいます」
「アウグスタ。せっかくだ。ジーク殿達を屋敷に案内してくれ。あぁ、歓迎用のお食事がないから、アーカムの商人が建てた雑貨屋から何か買ってから帰りなさい。これは少しばかりだが、今夜の足しにしなさい」
「ん。ありがと、父さん。料理作っておく。お仕事、残ってるでしょ。がんばって」
示し合わせてもいないのに二人は私とジーク達を引き離す様に自然な流れで背を向ける。
だがそれに水を差したのが赤い魔法使いであった。
「ほら、あんた達も一緒に来るのよ!」
「……私ですか?」
「当たり前じゃない! このまま【解放者】から逃げるつもり?」
ふむ、まいったな。
これから特別な儀式をするというのに邪魔者がついてきては困る。
「いや、まさか。私は逃げも隠れもいたしません。ですが無実の私をまるで罪人のように見て来る方々と一つ屋根の下にいるのは耐えられませんので、その要望にはお応えでできかねます。これは私が持つ正当な権利ではありませんか?」
「それこそ信じられないわ! 闇夜に乗じてどっかに逃げるつもりじゃないの?」
おやおや。説得失敗か。これはいよいよ困った。
安易にチートに頼るのはよろしくはないが、この場は仕方ないな。ハワトに何か呪文を唱えさせてこの場を切り抜け――。
「そう言えばですが、クレアさんは具合がよろしくないようでしたが、もう快気されたので?」
「ちょっと! 話を変えないでちょうだい!」
「それは失礼。ですが、お元気そうになられて一安心です。何か、特別な治療でも受けました?」
「はぁ? ただの夢にいつまでも悩まされるわけないじゃない。それより一緒に来るのよ!」
“夢にいつまでも悩まされるわけないじゃない”と、いうことはあの夢はもう見ていないのか?
クトゥルフ復活の前触れでもある冒涜的な悪夢を、見ていないのか?
ざわめく心から溢れた嫌な予感を拭うべく闇の気配が強まる星空を見上げ――。
そんな、バカなことが。
「星辰が、ずれている……?」
遠き星々の運行を制御し、来るべき空を作り上げたはずなのにそこにはあろうことか以前と変わらぬ星の並びが広がっている。
まさか。まさか、まさかまさかまさかまさか――。
そんなはずはない。
この世界の児戯のような魔法で惑星軌道を操作するなど不可能だ。
可能性があるとすれば二つ。何かしらの神代の遺物を使われたか、もしくは私に匹敵する魔法の使い手が現れた、か。
もし後者だとするとそれは間違いなくイゴーロナク君だろう。彼ならば星辰を狂わせる事もできるだろう。もしかすると急な星辰の動きに私の意図を知り、それを妨害するために星々を修正したのかもしれない。
良いだろう、イゴーロナク。お前の挑戦を受けてたとう。
「あ、あのクレア殿。申し訳ないのですが、我が屋敷で使えるお部屋は限られております。お二人にはギルマンハウスで宿泊してもらうよう、案内をしてきたのですが、なにやら事情があるようですね。ならばインスマスの青年団が二人を見張りますので、どうか【解放者】の皆様はおくつろぎください」
「そう? なら任せちゃいましょうよ」
「んー。そうだな。ではすいませんがお願いします。オレ達は朝一の便でアーカムに戻りたいのですが――」
「それなら十時くらいにここにお越しください。馬車が待っておりますので」
おや? 確かアーカム発インスマス行きの馬車が確か八時に出発するはずだったが……。
もしかすると気を使ってくれたのだろうか? なんと気の利いた事を……。
「もう少し早くなりませんか? すぐにでもアーカムへと帰りたいのですが……」
「申し訳ありません。アーカムへ出稼ぎへ出る者もおりますので、急な時刻の変更は難しいのです……」
「そうですか……。分かりました。ではその便でアーカムへ帰ろうと思います」
そして【解放者】一行が去るのを見送るとオーベッドは重いため息をついた。
「まさか教会に知られてしまうとは……。しかし今宵にも我らの神は復活なされるのですよね? ならば――」
「いやぁ、残念ですが事情が変わりました」
「――!? どういう事です!?」
「残念ながら星辰が揃っていないので、儀式を執り行えませんね。強行しても失敗する可能性があります」
「そ、そんな――!? だ、騙したのか!?」
そのようなつもりはないが、結果的にそうなってしまったのは非常に申し訳ない。
これは困ったな。いや、待て。あの方法なら直接クトゥルフ君を復活させるまでもないし、豊漁と金が舞い込んでくる。なかなか良いアイディアだ。
「お、お終いだ……。インスマスは、もう……」
「諦めてはなりませんよ。こうなれば別のアプローチでインスマスを救いましょう」
「別の……? それは一体――!?」
「ただし、これは新たな代償が必要となります。この地はそれ以降呪われる事でしょう。しかし滅びを回避する事はできます。どうです? それを覚悟の上で、儀式を執り行いますか?」
「今度こそ、本当なのでしょうね?」
「えぇ、もちろん。しかし、凄い執念ですね。失礼ながら、どうして見ず知らずの――それも邪教徒の疑いをかけられている私を信じてくださるのです?」
オーベッットは私の問いにポツリ、ポツリと重い胸中を話し始めてくれた。
『年長者、祭司長、書士たちから多くの苦しみを受け、かつ殺され、三日目によみがえらねばならぬ』
『主よ、ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような運命にはならないでしょう』
どちらも新約聖書マタイの福音書16章より。
ちょっとずつ本文に書いた聖書ネタをここに記して行こうと思います。興味のある方は本文をコピペしてお調べください。もしかすると間違った使い方をしてるかもしれませんのでその時はぜひご指摘ください。
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