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インスマス・2

 しばらくインスマスを散策していると大きな屋敷にたどり着いた。

 広い庭には茶色く枯れた芝が広がり、家も経年の劣化が積み重なった二階建ての木造と煉瓦の折衷建築だ。



「ここのようですね」



 遠慮なく庭に入り込み、扉をノックする。

 重厚な扉は潮風を遮断するかのような堅牢さがあり、それだけで富の有り無しをうかがい知れそうだ。



「ごめんください。どなたかいらっしゃいませんか?」

「――はい」



 重々しい音と共にノブが回り、扉が薄く開く。

 姿を現したのは禿頭の男だ。肌は色黒く、外での活動が活発な事を無言で示してくれている。

 それに顔立ちよりも肉体の方が筋骨隆々としていて若く見えてしまうが、おそらく四、五十代くらいの歳をしているように思えた。



「初めまして。私、ナイと申します。ご息女のアウグスタさんからご紹介していただいたのですが、オーベッド・マーシュさんで?」

「……如何にも」



 ふむ、どうやら突然の来訪者に不信感を隠せずにいるようだ。

 さて、どうしたものか――。



「あの、わたし達、クトゥルフ様を復活させる儀式の助力に来たのですが、アウグスタさんから御実家を訪ねるよう言われたのです」

「――は?」



 おっと、しまった。ハワトの得意とするノーガード戦法だ。

 裏表がないのは彼女の美徳ではあるが、これでよく邪教徒狩りを避けられたものだと感心する。



「これは失礼。この者は我が従者をしているハワトといいます。私達は彼女が言った通り、アウグスタさんに乞われてダゴン秘密教団の儀式に参加するためにアーカムからやってきました。どうかお見知りおきを」



 ニッコリと敵意の欠片もない笑顔を向けるとオーベッドは困惑しつつも扉を開いてくれた。



「アウグスタの紹介? 念のため聞きたいのだが、ダゴン秘密教団を知っているというならあの言葉を知っているはずだ」

「……あの言葉、とは?」

「教団が捧げる祈りの言葉だ」

「あぁ。ハワトさん。私の代わりに彼らの祈りの言葉を」

「畏れながらナイアーラトテップ様の代わりに――」



 そしてハワトは浪々と音を踏む。

 不気味な呪文が空気を凍り付かせ、原初の恐怖を掻き立てる忌まわしき祝詞を聞いたオーベッドは顔を青くしつつも屋敷に招き入れてくれた。



「どうぞ。妻が亡くなってから汚れるばかりで……。最近ではお手伝いさんを毎日呼ぶ訳にはいかず……。お恥ずかしい」



 扉をくぐると大きな広間がそこにあった。往年の栄光が見て取れるようなそこには見慣れぬ石像や木箱が積み重なり、広間というより倉庫の体をしているそこには確かに掃除が行き届いているとは言い難かった。



「これはまた。立派なものばかりですね」

「いえ、そんな。昔は遠洋まで船で旅をしていたもので、方々の出先で見つけた珍しい品を収集していたらこの有様に……。妻にも娘にもよく小言を言われましたが、今は静かなものです。さぁこちらへ。わしの書斎へ案内いたします」



 土埃で汚れた窓を見ながら広間を抜け、案内された書斎へ入る。

 そこには壁を隠すような本棚が置かれ、その棚一つ一つにぎっしりと書籍が並べられていた。

 相当な読書家なのか、それとも収集癖でもあるのか。

 少なくとも整理整頓が苦手らしく部屋のあちこちに本がたてかけられたり、部屋の奥の机には広げられたままの本が積み重なり、椅子には衣服が何枚かひっかけられている。



「今、お茶をお持ちしますので――」

「いえ、おかまいなく。それよりお聞きしたいのですが、この町ではダゴン秘密教団の一派が幅をきかせているのでしょうか? アーカムでは邪教徒狩りが行われ、他宗の人達には暮らしにくい場所になってしまったようですが、ここでは違うのですか?」

「町長たるわしが宗教裁判を教会に認めていないという事もありますが、インスマスは昔から海の神様を信仰しておりまして、どちらかといえばそちらの方が今でも根強く信仰されています。教会が出来たのも武具の製造で潤った十年くらい前で、歴史も浅いです」



 ふむ、クトゥルフ君が土着の神として信仰されていた?

 確かクトゥルフ君は太平洋沿岸の地域に信仰されていた神であり、インスマスで信仰されるようになるのは交易で南太平洋の孤島に船員が赴き、そこからインスマスへと伝来したはず。

 私を封印するためだけにノーデンスが作った世界故か、ドリームランドと融合したせいか、世界に改変が起こっているのか?



「なるほど。では不快なお話かもしれませんが、ダゴン秘密教団が生贄をクトゥルフ君――クトゥルフ様に捧げている事に関してはご存知ですか?」

「それはもちろん。秋の終わりに()を海に流していますが、それがなにか?」

「………………? 失礼ながら生贄は羊なのですか? 人間ではなく?」

「はぁ。昔はそうだったと伝える文献がありますが、基本的に陸に住まう者が海の神に珍品をお送りするようになり、今では羊です。もっとも教会が出来てからは大っぴらに異教の神を崇拝する事も出来ず、だんだんと廃れてきております。あと何代続けられるか……」



 んー。話が違うな。

 人身御供をしているのはアーカム――アウグスタの一派だけで、インスマスでは行っていないのだろうか?

 いや、違うな。この男は私を騙すつもりのようだ。見え透いた嘘など外なる神には通用しないのだが……。



「話は変わるのですが、オーベッドさんは読書家のようですね。素晴らしい蔵書量だと感嘆を覚えるばかりです」

「いえ、そんな。異国の珍しい品を集めていたら、このような有様になってしまいました。娘からもよく整理整頓するよう注意されて……。あれが冒険者になって町を出てからは注意する者がいなくなってますます汚くなるばかりで……」

「お手伝いさんを雇っているとお話でしたが?」

「広間の像や壺などの掃除は頼んでいるのですが、この部屋は掃除させません。この方が落ち着くので」



 なるほど、と言葉を返しつつ本棚を眺めて、見つけた。

 その本棚に収められた本達は乱雑にラックに押し込められているが、どうも全体的に浅く収められている。これは本の背後に何かを隠しているのだろ。

 躊躇いなくそこに収納された本達を床にぶちまければ家主の制止よりも早くお目当ての書物を見つける事が出来た。



「ま、待て! 何をするッ!?」

「おやおや。良いお宝を見つけてしまいましたね」



 それは長方形の本であり、()の表紙と裏表紙が糸で綴られた背表紙がない独特の製本――中国や日本で見られた和本や唐本に見られる線装本と呼ばれるタイプの装丁が行われていた。

 その表紙には掠れた墨にて『螺湮城本伝』と書かれており、その表紙は『ネクロノミコン』と同様に手に染み込みそうなほど馴染んでいる。



「これは……! なんと珍しい品が出てきましたね」

「そ、それを返せ!!」

「くくく、くすくす。これがなんだかご存知なのですね? これは『ルルイエ異本』じゃありませんか。これは一体、どこで、誰から手に入れたものですか?」



 『螺湮城本伝』こと『ルルイエ異本』とは主に大いなる九頭龍(クトゥルフ)とその眷属の召喚や螺湮城(ルルイエ)について記述された古代中国の魔導書だ。

 オリジナルは甲骨に人類以前の言語によって刻まれていたが、幾度かの翻訳によりそれは形を変え、紙の登場により巻物や線装本へと形を変えていった。

 そうした訳本の一冊が十四世紀を代表するイタリアの冒険家マルコ・ポーロの手によって中国からイタリアにもたらされ、フランソワ・プレラーティという錬金術師の手によってイタリア語へと翻訳されたのが『ルルイエ異本』だ。

 この『ルルイエ異本』は経年具合からしておそらくマルコ・ポーロがイタリアへ持ち込んだ写本の一冊に違いない。

 甲骨に刻まれたオリジナルを見た事はあったが、こうした写本を手にするのは初めてで好奇心を抑えるのに一苦労だ。


 だがこのような本がどうして創造されたばかりの世界に存在するのだろうか?

 いくら私を封印するための世界として創られ、私を飽きさせないために神代の遺物(アーティファクト)を散りばめたとはいえ、さすがにこのような魔導書をノーデンスが野に放つとは思えない。

 なんといっても『ルルイエ異本』に収められた悪しき知識など旧神の掲げる正義に反するからだ。

 それを現す様に地球における『螺湮城本伝』はあまりにも冒涜的だったため旧神にそそのかされた歴代の中国皇帝達が『山海経』という地誌に編纂させ直し、ただの無害な奇書へと成り下がってしまっているのだから。



「もう一度問います。この本は、どなたからもらった物ですか?」

「……アウグスタが、拾ってきたのです」



 オーベッドの話によるとダンジョン攻略をしている際にアウグスタがその本がドロップしているのを見つけたのだという。

 ドロップ? ゲームでモンスターを倒した際にアイテムが現れるあれか?



「詳しい状況は知りませんが、アウグスタはこれで町の窮状を救える、とわしに渡してくれたのです。もう二、三年くらい前かと」

「ほほぅ……。それで、内容を検めたのですね?」

「………………」

「くすくす。そう睨まないでください。誤解無きように言っておきますが、私は別に貴方達の行いを批判しているのではありません。むしろ賞賛しているのです。アウグスタさんを始め、ダゴン秘密教団の方々の純粋な神を求める心は賛美されて然るべきです。私はその信仰厚き皆様にご助力するため、アーカムよりやってきたのです」



 『ルルイエ異本』を優しく両手で握り、それをオーベッドに差し出す。

 彼は異界の魔導書と私を見比べ、そして私の説得が効いたのか大切な書物へと手を伸ばした。



「不躾にも貴方の宝物を手にした非礼をお許しください」

「いえ、どうやら貴方()本物のようです。こちらこそ言葉を荒くして申し訳ありません」



 一先ず和解をすませ、案内されるままに書斎に設置されたソファーへと腰を落ち着ける。もっとも本が積み重ねられたソファーは人が座れる状況ではなかったのでハワトに掃除を依頼し、オーベッドと向かい合うように座る。



「では単刀直入にお尋ねしますが、ダゴン秘密教団では人を生贄としいてクトゥルフ復活の儀式をしている。その認識で間違いありませんか?」

「……その通りです。もちろん人道に反し、邪教崇拝と教会から罰せられるのも覚悟の上で、です。そうしなればインスマスは滅んでしまいます」

「詳しくお聞きしても?」

「もちろんです。元々インスマスは漁業と精錬で栄えた町でした――」



 インスマスは天然の良港であり、漁業の他にも海運業にて栄えていた。特に海の向こうから仕入れた金属やアイテムを使って武具を生産する一大拠点ともなり、モンスター数の増加から武具の需要が増えた時など好景気に沸いたという。

 だがそうした幸せは長くは続かず、大量生産された武具を手にした冒険者の手によりモンスター討伐が進むと武具の需要も減り、多くの工房が倒産してしまった。

 その上、武具製造における排水のせいか魚の死滅や住民が手足の震えや全身の激痛を起こすといった奇病――重金属中毒に似た症状――が発生し、インスマスは斜陽へと向かい始めた。

  産業が終わり、抜け殻になった町はただ忘却の彼方へと追われるように衰退し、今日のような寂れた町へとなってしまったのだ。



「それでも新しい工房を呼び込んだり、港を拡張して大きな船が入れるようにしようと、手を尽くしたのです。しかし王様がキングスポートへの遷都をなさり――」



 インスマスより南の地に一大港湾施設を合わせた遷都が行われた事により、インスマスの価値はより一層薄れてしまった。

 最早、国からも捨てられ、産業も廃れ、人も去り行くインスマスはただ滅びを待つだけだったという。



「それでも、我らの先祖は血を汗を流してこの町を開いたのです。いくら天然の良港とはいえ、そのままではただの湾です。それを港として、町として整備したところを捨てることなどできません。しかし王様もどの貴族様もこのような町を救ってくださるとは思っておりません。ならば、もう神様に縋るしか……」



 そして愛娘が見つけて来た魔導書によって彼らは禁断の儀式へと手を出してしまった、か。

 筋書きとしては悪くはない。むしろ感涙ものだ。やはりこのような喜劇は見ていて心躍る。

 だが『ルルイエ異本』によるクトゥルフ君を目覚めさせる儀式が適当過ぎる理由が分からない。

 この魔導書にはクトゥルフ君に関しての本であり、彼に関しての情報量は『ネクロノミコン』さえも上回る。

 もっとも『ネクロノミコン』がオールラウンドに適した魔導書であれば『ルルイエ異本』はクトゥルフ君に関しての専門書であるから一方的な比較は出来かねるが。



「しかし問題がありました。我らはこの本が読めないのです」

「中身を拝見しても?」

「えぇ。ただし慎重に」



 オーベッドの言葉に頷き、丁寧にそれを受け取って表紙を開ければそこにはびっしりと隷書体で記された漢文が並んでいた。

 少々の漢文の知識さえあれば読めそうなものだが――。

 いや、これは彼らにとっては未知の言語なのか。なるほど。それなら読めなくて当たり前だ。

 そしてページを数枚めくるとページの半分が破けて消失しているものもあり、状態の悪さが目立って来た。



「町に伝わる古い文献や辞書などを駆使して解読をしているのですが、ページが破れているせいで解読も不完全で……」

「なるほど。それで正しき儀式が執り行えていなかったのですね」

「儀式も祖父母に聞いて、掠れながら伝わる祭事を基に解読で明らかになった事実を織り交ぜておりまして、完全な儀式とは到底言えません」



 ふむ、不完全な解読が儀式の失敗に繋がっていたのか。それなら話は早い。

 私が読み聞かせてやっても良いが、それはいささかチートであろう。

 ならばとソファーを占拠していた本達を部屋の隅に追いやっていたハワトを呼ぶ。



「ハワトさんはこれが読めますね」

「はい、読めます」

「な!? そ、そんな訳――」



 数ページめくったハワトにオーベッドは信じられないと言わんばかりにわなわなと震え、怒りを露わとする。

 それはそうだろう。三年もの時間をかけて解読に手間取っていたのに見ず知らずの小娘がそれを読めると言ったのだ。今までの労力を考えれば認められるはずがない。

 だがハワトにはどのような言語も読み書きできるよ()()を施してある。



「大丈夫なようです。読めますので今まで解読された翻訳を見せて頂けますか? 校正いたします」

「……いや、信じられません。それよりも本当に読めるのか、今読んでいただきたい!」



 そしてオーベッドの顔色が怒りから驚愕へと変わるまで五分とかからなかったのは言うまでもないことであった。

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