村人・2 【ハワト視点】
首筋に短剣を押し当て、力を入れようとしても、力は入らなかった。
ただ自分が終わる事が怖かった。
毎日代わり映えのない暮らしが続いた後に自分が天の国に還るのだろうとは思っていたが、こんな急に――。それも何か罰せられるべき悪事を働いた訳でもないのに、何もしていないというのに自分が無意味に終わってしまうのが怖かった。
それに首筋に短剣が当たった拍子に首の皮が切れて鋭い痛みを発する。
この痛みを受け入れなくては死ねない。そう思うと心が裂けそうなほどの恐怖が襲ってきた。
お父さん――! 力を貸して――!
『何よりも自分の命を守る事だけを優先するんだ。絶対に死んではならない。お父さんとの約束だ』
お父さんとした最後の約束。
わたしは――。わたしは生きなくては――!!
「ほぅ」
浅黒い男が感嘆に似たため息を吐き出す。
わたしを囲む四人だが、前の三人は明らかに荒事になれているし、何よりそれぞれが得物を持っているようだ。対して背後の浅黒い男は違う。まるで丸腰。なら――。
「おや?」
背後の男に向けて全力で駆け、その勢いのまま短剣をその腹部に突き刺す。罠にかかった動物の解体を手伝った事があるが、それと同じ暖かくて柔らかな感触が短剣越しに伝わってくる。
「ぐっ……。油断しましたね。人間如きに殺されてしまうとは我ながら舐めすぎてました」
浅黒い美形の男は訳の分からない言葉を無感動に呟く。それと同時に異変に気がついた。深々と短剣を突き刺したはずなのに血が一滴も出てこないのだ。
その代わりに傷口から何か黒いものが噴出しだした。水とも霧ともつかぬ黒いそれに思わず短剣を引き抜き、後ずさる。
すると黒いモノはいよいよ勢いを増し、やがて男を包みや新たなモノを生み出す。
それは鋭い鍵爪、うねる腕を持つ形の定まらない肉塊へと変貌を遂げ、頭を思わせる場所は円錐の形をしていた。その頭部と思わしき場所には貌がなく、ただ闇よりも濃い暗闇を湛えてこの世の全てを嘲笑するかのように吠えていた。
「あ……。あ……」
その嘲笑を聞くだけで肌がビリビリと圧され、この世のモノではない絶対的な存在に手を上げてしまったという絶望に短剣を握る手は止めどなく震え、瞳と股から暖かな物が止めどなく流れていく。
「くすくす。この世界に来て早々に二度も殺されるとは思わなんだ。中々愉快で退屈しない。だが惜しむべきはこの出会いが不期のものであった事か。願わくは次にまみえる時は互いに親睦を深めてからとしたいものだが――。ふむ。精神が壊れ過ぎているようだな。やはり人間とは貧弱でいけない」
ダメダ。このままではきっと殺されル。こんな化け物にとってわたしのような村人など歯牙にもかけられずに葬り去られることだウ。
こいつを倒せるのは勇者様くらいしか居なイ。それでもわたしは死にたくなイ。死にたくなイ。死にたくなイ死にたくなイ死にたくなイ死にたくなイ死にたくなイ死にたくなイ死にたくなイ死にたくなイ死にたくなイ死にたくなイ死にたくなイ死にたくなイ死にたくなイ死にたくなイ死にたくなイ――。
「それではまたどこかで不運な星辰の導きによる再会を期待――。ん?」
化物目がけて短剣を突き立てる。ただ傷を負わそうと。少しでも、少しでも――。
だが何度も化物に短剣を叩きつけても一向にダメージを与えている気がしない。だがそれでも諦めることなく剣を振るう。だがそれは四、五ほど突き刺したところでお父さんが大事にしていた短剣が折れてしまった。
サッと絶望が心に広がる。だがそれを無視するように拳を化け物に振るう。
村人と言うステータスからして言うほどダメージは与えられていないだろう。それでも遮二無二ダメージを与えようとする。
ただ、ただ死にたくないが為に――。
「……ほぅ。正気は失せているようだが、気骨のある人間だ。気に入った! 我が従者にならないか?」
「………………。……し、じゅう、しゃ?」
「そうだ。私を崇め、手足となるのだ」
「……したら――」
「ぅん?」
怪物の貌に張り付いた深淵から試すような声が響く。全てを沈黙させる圧力のある言葉に心が折れそうになる。
だが――。
「そ、そうしたら、い、命だけは助けていただけますか?」
「なんだ。命乞いか。それほど生に執着するか?」
「わ、わたしは、生きたい、です。た、助けてく、くだ、ください! な、なんでもしますからッ!!」
「……何でもと言うが、どれほど狂おしい事があってもか? 殺してくれと懇願するような事があってもか?」
分からない。頭の中が混濁して何を考えているのか自分でも分からない。出来る事なら赤ちゃんに戻ってお母さんの腕の中で好きなだけ泣きわめきたい。だがそれは出来ない。もう、お母さんはこの世に居ないのだから。
「わ、わたしは、死にたくありません! 何もしていないのに、ただ殺されるなんて耐えられません!! だから助けてくれるのならあなた様の従者にでも奴隷にでもなります! ですからどうか、どうか……!」
みっともない命乞いをしながら彼のモノに跪く。
ドッと吹きだした冷や汗が体中を濡らし、心臓が飛び出しそうなほどの拍動を打っている。
すると無貌のそれが息を飲む気配を感じた。
「――! くくく、くすくす。この暗黒の神を目前にして”死”ではなく”生”を望むというのか? 素晴らしい!! 絶望を踏破すると言うのだな? 素晴らしい! 絶頂を覚えるほど素晴らしい!! ”命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者が少ない”お前はその数少ない者だ。そのような者を無下にはできんな。よろしい、今よりお前は我が従者だ! お前の精神がすり減り、私が飽くまで使い込んでやろう! くくく、くすくすくす!!」
愉快そうに化け物は笑う。この世界の全てをあざ笑うかのように、ただ吠えるように、感動するかのように化け物は、笑う。
「さぁ、残りの人間達よ。お前達はどうか?」
化け物が問うと盗賊達がビクリと震えた。三人とも顔からは生気が抜け、人形のように棒立ちになっている。その上、鼻に異臭が漂っていた。自分のソレだけではなく、あの三人の誰かも粗相をしているようだ。
「どうした!? さぁ答えよ!」
「ひぃッ!?」
お母さんを組み敷いていた男と大男が揃って背を向けて逃げ出す。だが数歩も行かぬうちに無貌の怪物の這いうねる腕が伸びたかと思うとその鋭い鍵爪が二人を捕らえる。すると二人の体から血煙が立ち上り、体が霧散するように消失してしまった。それと共に周囲を生臭くて温かい赤色の雨が降り注ぐ。
ぽたぽたとそれが頬にかかったものの不思議と何も感じなかった。しかし最後の盗賊――毛皮の男は赤い雨に打たれるや、思い出したように悲鳴を上げた。
「ひ、ひあぁああッ!?」
毛皮の男が耳を貫くような名状し難い悲鳴を上げ、反射的だろうか。腰に吊っていた粗末な剣を抜き放ちながら崩れ落ちる。今更になって腰が抜けたのだろう。
「さぁお前だ! そこのお前だ! 外なる神を前にしているお前だ! さぁ! あがいて見せろ! 人間の素晴らしい所は神を相手にしても抗う意志があるところだ。その意志を、人間性を私に見せてみろ。そこの小娘のように!! さぁ! その剣で私を殺してみせろ! 人間ッ!!」
吼えるように叫ぶ化け物を前に毛皮の男は穴と言う穴から液体をぶちまけながら肩を揺らしていた。
そして彼は――。
短剣を自分の首に突き刺した。
「――はぁ?」
それは先ほどまでの愉しげな声では無く、失望に染まったものだった。まるで自分の玩具が意図せず壊れてしまったかのような悲哀……。
「………………。……はぁ。”剣をとる者はみな、剣で滅びる”と言うが、興が冷めてしまったな。まぁ収穫が無かった訳では無いのだから我慢すべきか。それで人間よ」
「は、はい」
「名は?」
「は、ハワトと言います」
「そうか。ハワト。お前が仕えるべき主の名を明かそう。お前はそれを好きに呼ぶ事を許す。我は這い寄る混沌にして月に吼えるもの。暗黒のファラオとも呼ばれ、千の貌を持つ無貌の神でもある。その名は !!」
なんともおぞましい名前だろう。
その響きはどの国の言語にも
「ナイアーラトテップ、様……」
「そうだ。その名こそお前が仕える神の名だ。クスクス」
ナイアーラトテップ様は高らかに。先ほどの不機嫌が嘘のように。世界の全てを嘲笑するように。そう言われた。
補足
”命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者が少ない”
マタイの福音書7:14
”剣をとる者はみな、剣で滅びる”
マタイの福音書26:52