インスマス・1
ふと差し込む光に顔をあげると黄金色に輝く太陽が空に浮かび上がるところであった。
それにベッドから起き上がればどこからともなく充足した気分が体を満たしてくれた。
「良い朝ですね、ハワトさん」
同じくベッドに転がっていたハワトに顔を向けるが、汗と涙、それと唾液に濡れぼそった裸体の少女は疲労を滲ませながら「はい、ナイアーラトテップ様」と小さく返事を返した。
ふむ、気分が高揚していたせいで昨夜のレッスンは捗ってしまったからハワトは随分消耗してしまっているようだ。
「まるで一夜の秘め事を行ったかのような有様ですね」
「う、うぅ……。お恥ずかしい……」
消え入りそうになる彼女がシーツをたぐり寄せ、やつれた体を無防備に隠す。
まぁ人間との和合も出来るが、それよりも我流の睡眠学習でハワトに数年分に及ぶ邪悪な知識を一晩のうちにインストールするほうが実益がある上、私も楽しい。一度の享楽よりも趣味と益を兼ねた睡眠学習は素晴らしい楽しみだ。
だがそうした二人で完結してしまう遊びだけでは物足りない。一人遊びよりマシとはいえ、やはり多人数で遊ぶほうがより楽しいものだ。
さて、今日もまた誰かの不幸せのためにがんばろう。
「ナイアーラトテップ様。汗を流してきてもよろしいですか?」
「えぇ、かまいません」
白い体がベッドから部屋の隅に作られた小さなシャワー室へと消えていく。
中世風の世界のホテルにシャワーとはなんとも現代的な設備だと眉をひそめざるを得ない。なんとも興が削がれる。
なんでも魔石と呼ばれるモンスターの体から取れる魔力の結晶体に呪文を付与する事が出来るらしく、それに火の魔法を付与して水を沸かし、温水のシャワーを引いているとハワトは言っていたが……。
そもそも中世の頃は水が疫病の元と信じられていたがために風呂という文化が途絶えていた。それなのにこの世界ときたら……。
「不衛生であれば疫病が流行るのは邪教のせいであるとかこつけて魔女裁判を行えるのですが……。上手くはいきませんね」
まぁそれでなくても邪教徒と示される者共は居るのだ。
そうした連中を上手く使って遊んでみよう。いざとなればバイオテロのまねごとをして恣意的に疫病を流行らせることもできるからそれはそれで考えようだな。
「くすくす。どうやら案外と退屈しないようですね。これは良い。おっと、そういえばやっと対戦者も現れたのでしたね」
昨夜の突き刺さるような視線……。
あれがイゴーロナク君だとするとすでに好みの信者を見繕い終えたのかもしれない。
彼は悪徳を抱く宗教者を堕落させて顕現する事が出来るから、それに見合う邪教の信者にでもとり憑いたか……?
くすくす。いったい誰だろう?
あれほどの敵意――殺しも厭わない邪悪な意志を抱く者。
心当たりはあるが、確証はない。
現時点で言えば『ネクロノミコン』が喉から手が出るほど欲しいはずのアウグスタ。彼女達の祈りは純粋故にそれは紙一重で狂気にもなりうる。ならば自分達の崇める邪神のために殺人と略奪の悪徳を行っても不思議ではない。
あとは教会の神父――確かヨハネとかいったか。あれほど熱心な邪教徒狩をするのはいささか狂信的すぎる。自分の掲げる正義が誰からも正義ではないように彼も見方によれば悪にもなりうる。
くすくす。一体誰がイゴーロナク君の駒となっているのだろう?
「お待たせしました。ナイアーラトテップ様」
シャワールームから現れたのは湿った体を布で押し隠すハワトだ。皮から浮き出た肋骨。骨ばった関節。曲線美の欠片もないやせ細った――やつれた身体は少しの力で折れてしまいそうな儚さが宿っている。
「風邪をひかぬよう、しっかり体を拭いてくださいね」
「はい。ご心配くださり、ありがとうございます」
頬に張り付く濡れた白髪を彼女は乱雑に拭い、昨夜のうちに彼女の体から離れた衣服を次々に身に着けて行く。
「今日でホテルを引き払うのですよね」
「えぇ、そうです。新たな町がどのようなところか、楽しみです」
「わたしも楽しみです」
黒いスカートに少しの力で折れてしまいそうな足を通し、草色のキャミソールの袖を通したハワトは机の上に重ねられた三冊の本を丁寧にまとめ、革で出来たブックバンドで縛り上げる。どれも読みごたえのありそうな厚さをしているな。
「ハワトさんは読書家なのですね。『ネクロノミコン』以外はどのような本なのか教えて頂けますか?」
「……お恥ずかしながらこの二冊はわたしの手稿です。同志がわたしの訳本を欲していて」
「なるほど。そう言えばハワトさんの知識は星の智慧派の皆様に好評のようでしたね」
「そ、そんな……。ナイアーラトテップ様からすれば児戯にも等しい行いで恥ずかしいです」
くすくす。謙虚なのはハワトの美点の一つだ。こういった初心な反応もまた新鮮で良い。
「では準備が整ったようですね。チェックアウトしましょう」
「はい、ナイアーラトテップ様!」
そして部屋を後にし、受付にて所定の手続きを終えてハワトと共に昨夜、アウグスタに教えられたダイヤー・ストリートの七五〇番地へと向かう。
ミスカトニック河を越え、短く刈り込まれた公園を脇目に目的地にたどり着くとそこには一台の馬車が止まっていた。
幌もないむき出しの荷台。不健康そうな馬が二頭繋がれており、その手綱を握るのは仏頂面の男だった。若いとも老いているともいえぬ、中途半端な年齢の彼の下に行くとやっと煩わし気な視線を向けてくれた。
「この馬車はインスマス行きですか?」
「……あぁ」
「では二人乗せてください」
「……二人合わせて百二十ゴールドだ」
ハワトが皮袋を取り出し、そこから示された金額を御者に渡すと、男は無言でそれを受け取った。
ふむ、これで終わりとはなんと接客業を心得ているのだろう? だが良い。些細な事だ。
困惑を浮かべる従者を引き連れ、馬車に上ると木の軋む嫌な悲鳴があがった。どうやら他に乗客はいないようだな。
せっかくだからと荷台の一番後ろ――あおり板に身を任せていると鋭い鞭の音と共に突然馬車が動き出した。
粗末な車輪が小石を踏みつぶすと同時に荷台が跳ね上がり、車輪がガタガタと左右に震える。
「あの、ナイアーラトテップ様。他にも移動手段はあると思うのですが……?」
「おや? ハワトさんはお気に召さないご様子ですね。こういうのは風情があってむしろ良いのですよ」
「そ、そうですか? しかし外なる神たるナイアーラトテップ様がお乗りになるようなものではないかと……」
ふむ、どうやらハワトはこんな無愛想な御者の操る馬車に乗り込んでいることを情けない事と思っているようだ。
だがそんな彼女の心中など関わりないというようにアーカムの街並みは過ぎて行く。そして踏み固められた街道に出たかと思うと絶え間ない振動に苛まれながら馬車は速度を上げる。
街道に人影はなく、草原と川をいくつか越えたと思うと何もない海岸地帯に馬車は進入した。
立ち枯れた草木以外何もない陸地。だが目を覆うほどに美しい紺碧の海とのコントラストに思わず目を細めてしまう。
馬車はいくつかの橋を通過するごとに細くなる街道を突き進む。その様はどこか陸地から隔絶された場所に行くのではという錯覚を覚えさせるほどだ。いや、正確には孤立しているのだろう。
街道を見ればこの馬車のものと思わしき轍があるだけだし、人っ子一人街道には見当たらない。
そんな物悲しい光景はいつしか上り坂へと差し掛かり、ついにその頂きにつくと眼下には谷間に潜むような町が見えた。
町の中央には一本の川が流れ、河口はそれを中心に円を描くような湾を作っている。
「ここがインスマスですか。なかなか風光明媚なところではありませんか」
「天然の港、というやつですか? わたし、初めて海を見ました」
「そうなのですか。では記念日ですね」
「はい……。すごいですね。こんなに広いなんて……。あれ? あれは――」
ハワトの視線の先には港から外れ、長々とした黒い影が見て取れた。暗礁だ。港からおよそ千六百メートルほど沖合に波にさらわれる岩陰が見て取れた。
波が高いせいか、潮が満ちているせいか上部しか見えないが、数十メートルはありそうな暗礁だ。
「……“悪魔の暗礁”ですか」
「悪魔? ナイアーラトテップ様。それは一体……?」
「いえ、独り言です。お気になさらずに」
もっとも御者の肩がビクリと恐怖するように跳ねたのを見逃す事はなかった。
何やらあの暗礁について御者は知っているようだが……。
だが無愛想な様子から素直に口を割ってくれるとは到底思えない。
最もあれが私の知る“悪魔の暗礁”であるなら今更説明などいらない。
あれは計り知れないほど深く落ち込んだ海底より顔を出した暗礁であり、光も届かぬ深海ではクトゥルフ君を信仰する奉仕種族――半魚人と形容できる種族である深きものどもの拠点となっていた。
それはアメリカはインスマスの事であり、このドリームランドのインスマスではどうなっているのか定かではない。
そして馬車は丘を下り、インスマスへと近づいていく。
よく見ると廃屋が目立ち始め、煙突から煙が出ている家が極端に少ない事に気がついた。
家の様式としては木造と煉瓦の折衷建築が広がっているものの、その多くは傾き、人の気配が失われて久しいように思えた。
「不気味な町ですね」
朽ち行く町並みの感想をハワトが呟く。もっともそれが顕著なのは町の外縁部であり、中心に近づくとどこからともなく好奇な視線が私達に向けられている事に気がついた。
それと同時に人影も増え、やっと文化的な生活圏へとたどり着いたと教えてくれた。
「しかし、みな疲れた格好をしているのですね」
粗末な麻の衣服を身に纏った漁師のような男。薄汚れたエプロンをかけた主婦。そう言えば先ほどから子供の姿をあまり見ないな。
つまり次世代を担う層が少ない。これは衰退の前兆と言えよう。
「おやおや。寂しい場所のようですね」
「昔は栄えていたと聞きましたけど……。なんでもモンスター討伐のための武具を作る精錬所が港に立ち並んでいたとか。ですがこの地域のモンスター討伐が進んだり、南にキングスポートという新たな港街が出来たせいでインスマスに工房を構えていた人たちが離れてしまったと聞きました」
「新興の都市に産業を吸い込まれたわけですか」
「その上、不漁が続いて寂れるばかりと……。今では一軒だけ金の精錬所が残るようですが、稼働はしていないらしいです」
ハワトが指さした先には二階建ての家の屋根のさらに上にちょこんと見える煙突があった。彼女の言葉を裏付けるように煙突からは煙が出ておらず、ただそこに鎮座しているだけのように見える。
なるほど、インスマスの産業は今や漁業だけ、という訳か。
「終わりゆく町という点ではインスマスは変わらないな」
それからしばらくして馬車は町の中心で停車した。ギルマンハウスと書かれたホテルの前だ。ここに来る途上、アーカムにあった教会を見かけたが、非常に小さく、寂れ行く港町に似つかわしい外見をしていたのは言うまでもない。
「到着だ」
ぶっきらぼうな御者の言葉に馬車を降りる。私に続いてハワトも降りようとするが、悪路を走って来たせいか、ふらふらと危なっかしく立っている。
「ハワトさん。手を――」
「あ、ありがとうございます!」
ひんやりとした手を握り、さてどうしたものかと周囲を見渡す。
「そう言えばアウグスタさんのお父上は町長をしていると話していましたね。会いに行きましょうか」
「分かりました。では――」
ハワトは御者にアウグスタの父であるオーベット・マーシュの住居を聞きだす。御者は面倒くさいと言わんばかりの表情で道を教えてくれた。
これで目的地は決まった。
「では参りましょう」
「はい!」
そうしてインスマス探索が始まった。
インスマスは東北にもあるくらいですから異世界にインスマスがあるのは当然(暴論)
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