突き刺さる視線
「ナイアーラトテップ様。このシャンタク鳥はどうしま――。ずず、どうしましょうか?」
鼻血をすするハワトがローブの袖口で血を拭おうとするのでそれを押しとどめてスーツのポケットから白いハンカチを引き抜いて彼女の薄い鼻に押し当てる。
「な、ナイアーラトテップ様! 血で汚れてしまいます!」
「えぇ、そうですね。ほら、動かない」
ガラス細工のようなハワトの顔から深紅の液体を拭い取ってやると不気味な声が酒場を揺らした。
そうだ、シャンタク鳥を呼んだはいいが、どうするか。このまま帰すのも味気ない。
「アウグスタさん。捕らえられているダゴン秘密教団の御仲間はどちらにいらっしゃるのでしょう?」
「たぶん教会。今日、異端審問をして、明日には処刑」
「それは良い。ではシャンタク鳥には教会を襲撃してもらいましょう。そして適当に暴れて帰ってもらう。運が良ければ混乱に乗じて捕らえられた方々が逃げ出せるかもしれません。これでどうでしょう?」
アウグスタの瞳にはそんな事ができるのかという疑問が見て取れたが、これも説明するより見せた方が早いだろう。
それを察したのか、ハワトがハンカチから顔を話して人の声とは思えぬ音を発する。
するとシャンタク鳥は醜く一鳴きするやどこかへと飛んで行った。これでまた楽しい事が増えたな。
だが……。
「さて、シャンタク鳥を大勢の人に見られてしまいましたね」
いくら闇の帳が下りた中とはいえ、人通りの多い大路に面した店だ。多くの不運な者達がシャンタク鳥を見た事だろう。
もしかするとシャンタク鳥を招来させたとしてこの場の面々が邪教徒の一員と見なされないだろうか?
まぁ私はすでに邪教徒の嫌疑をかけられているから別段、状況が変わらないが。
「だ、大丈夫でしたか!?」
その声は階段を駆け上がって来たマスターだった。冷や汗を吹きだした彼が二階を見渡すが目立った被害が無い事に安堵のため息をついた。
「ごめんなさい。マスター。少し、皆様に御業をご披露したところで……」
「あぁ……。なるほど。それじゃ、みんな何も知らないということで良いですね?」
「それが良いと思います」
ハワトの言葉にマスターが頷きながら階下へと消えて行く。
なんともあっさりとしているが、まさかこれが初めてではないのかもしれない。
そう言えばハワトは酒場で『ネクロノミコン』の朗読会をしたそうだからマスターも案外慣れているのだろう。
やれやれ。慣れとは人の心を鈍化させる悪しき薬だ。我が従者には困ったものだな。くすくす。
「さて、騒ぎに乗じて我らは帰るとしましょうかね」
「分かりました」
「アウグスタさんはどうされます?」
「ん、帰る」
まだ注文の品は運ばれてきていないが、もう起こるべき事は起こしてしまったから長居は無用だ。
それよりこれからどうするかを考えよう。
あぁ楽しくなってきた。やはり陰謀を巡らすこの時は心を楽しませてくれる。
「では参りましょうか」
秘密の会合を抜け出し、騒然とする通りを足早に抜けて行く。
その中で隣を歩くアウグスタが小さく言った。
「それで具体的にいつ正しい儀式を執り行うの?」
「いつでも構いませんが……。そうですねぇ。場所は森の中ではなく海がよろしいですね」
「海?」
「彼は海の中に封印されています。クトゥルフが封印の中で寝ている間に見る夢は人間にとって害悪そのものであり、芸術家や子供のような感性の強い者に悪夢を見せてしまいます。しかしそうした思念は膨大な海水によってかき消され、無効となってしまうのですよ。ですので彼の居城たるルルイエが海面に浮上すれば思念を遮るものがなくなり、悪夢を見る者が増えるのです」
「まさかクレアが見た悪夢は――」
「その通り。クトゥルフからもたらされた福音そのもの。よって彼の神が復活する準備はすでに整っているとも言えましょう。そして最後の枷を外し、目覚めさせるには凄まじい魔力が必要となりますので少しでも魔力を節約するために陸ではなく海で儀式をするべきだと思います」
「分かった。良い場所がある。ダイヤー・ストリートの七五〇番地って分かる?」
ちらりとハワトを見ると彼女も地理に覚えがないらしく首を傾げていた。そう言えば彼女の鼻血はもう止まっているようだ。思ったより早く止まったな。
「アーカム刑務所の向かいの公園。その近く」
「あー。あの辺りですか。分かりました」
ふむ、どうやらハワトには土地勘があるあるらしいな。ならば彼女に案内を任せてしまおう。
「ん。そこに朝の八時か、夕方の五時の鐘が鳴る時までに行って。馬車の定期便が出てる」
「馬車ですか。どこ行きなのですか?」
「インスマス」
――!
まさかここであの寂れた漁村の名前が出て来るとは思わなかった。
アメリカはマサチューセッツ州エセックス郡に属する港町が異世界にもあるのは感動的である。
ハワトの出身地であるダニッチやここアーカムと二度程度ならそんな事もあると思えたがこれは――。
「インスマスはボクの実家がある。ボクの事を話せば父が助けてくれる」
「本当ですか? それは助かります。して、なんというお名前なのでしょうか」
「父はオーベット。オーベット・マーシュ」
「……それは、何かの冗談でしょうか?」
疑問を浮かべるアウグスタに思わず口元が引きつってしまう。
地球のインスマスにおいてもオーベット・マーシュという男はいた。その男は船乗りでもあり、南太平洋まで交易のために船を出す男であったが……。
ここまでの偶然が起こり得るだろうか? 確かにこの世界を創造したのは私だ。私の思念が入る事もあるかもしれないが、それでも出来過ぎだ。
いや、そもそもこの世界は私を閉じ込める檻として作られたがために作りが雑だったな。ならばある程度の設定の流用が起こっていても不思議ではない。
「――? なにか?」
「いえ、勘違いでした。お気になさらず。では私達はこのままミスカトニックホテルに帰るつもりですが、アウグスタさんも一緒に戻りますか?」
「一緒に居るところを見られたくない。ここで別れる」
「分かりました。あぁ、決して私達の同志から『ネクロノミコン』を奪う様な事は考えないでくださいね」
「ん。理解してる」
するとアウグスタは闇に溶けるように気配を消してしまった。
もっともハワトのような常人に感知できないだろうが、私にかかれば彼女がどこに居るのか手に取るように分かってしまう。
ふむ、ただ単に歩行方法を変えて気配を消しているのでも、魔法によるそれでもない。強いて言うなら存在感が薄まっているような気がする。
そう言えば前の世界には“スキル”とかいう謎の能力があったな。それの一種だろうか?
「さて、ハワトさん。帰りましょう」
「はい、ナイアーラトテップ様」
ふらふらと闇を彷徨いながらミスカトニックホテルを目指していると通りの方から人々の賑やかな声が聞こえて来た。
悲鳴、怒声、叫喚。
感情が暴れる声に足は自然と帰路を外れ、祭りの会場へと向いてしまう。
いくつかの裏通りを過ぎて大路に戻るとそこは赤々と燃える教会があった。“あった”と過去形なのはその神の家が燃えるばかりでなく半壊しているからだ。
ふむ、恐らくだがシャンタク鳥に教会を襲われ、その際に燭台などから出火したのだろう。
まったく、自らを信仰する者達の拠点が焼かれたと言うのに雨も降らせない神をどう思う? とここの聖職者に説いてみたい。
「うわ、派手な事になってますね。シャンタク鳥は……。もう居ないようですが」
「そのようですね」
周囲には聖職者やら冒険者らしき人達が教会に手を向けて水魔法を放っている姿が見て取れたが、やはり稚拙な魔法だ。見ていて不快でさえある。
そんな中、見慣れた人影がその中にある事に気がついた。冒険者ギルドに邪教徒討伐のクエストを申し込んできた神父――ヨハネだ。
柔和な顔が紅蓮に照らされ、どこか虚ろに炎を見ている様から察するにどうしてこのような悲劇が起こってしまったのか分からないと思って居そうだな。これは面白い。
「ハワト、付いてきなさい」
「かしこまりました」
茫然自失とする神父の元に行くとこの喧噪の中でも彼は私達の事に気が付いてくれた。
「これは……。確かナイさんでしたね」
「えぇ。こんなにお早く再会できるとは思いませんでしたが、今は再会できたことを喜びましょう」
ひりひりとする熱波を吹き出す教会を一度見やり、落胆を顔に滲ませつつ「これは酷い」とつぶやけば神父も俯いて事の起こりを話してくれた。
「突然、邪竜が現れて……。暴れるだけ暴れて逃げて行ってしまったのです。冒険者を呼ぶ暇もありませんでした」
「それはなんと災難な。しかしお怪我がないようで何より」
「えぇ、そうですね。私以外も皆、宿坊にいたので難を逃れられました。まさに主は我らに乗り越えられる試練しかお与えにならないです」
ふむ、ポジティブなことだ。
おっと、ハワトが私の後ろで笑いをかみ殺している。気持ちは分かるがもう少し我慢してほしい。
「皆様がご無事で何よりです。そう言えば風の噂で邪教徒を教会で監禁していたそうですが、そちらは?」
「いえ、なんとも。聖堂の地下室に閉じこめていたのでどうなっているのか定かではありませんが、おそらく助かりはしないでしょう」
「では明日の裁判は――」
「えぇ。教会がこの有様ですし、もし邪教徒が生きていようと審問は延期ですね」
まぁそうなるか。
「それにしてもあのようなモンスターがアーカムに飛来する事はよくある事なのでしょうか? 私はダニッチから数日前にアーカムに来たばかりでして、このような襲撃が頻発するのなら拠点を他所に移そうかと」
「いえ、このような事は初めてです。街道や町には邪悪なモンスターがやってこないように結界を張っているので滅多にモンスターがやってくる事はありません。ただLvの高いモンスターは結界を無視して侵入してくる事はありますが、そういったモンスターは固有の縄張りをもっているもので本来ならこんな町中に姿を見せる事などありえないのですが……」
「――と、言う事は誰かが町中に呼んだのですかね」
「――!? そ、そんな事出きるわけがありません! 主より賜った魔法を歪めて使う悪しき者も居るには居るでしょうが、あのような化け物を召還させる魔法の使い手など――」
「確か……。【解放者】にはミスカトニック大学を最年少で主席卒業した才女がおりましたね。まさかとは思いますが彼女が邪教徒に通じていて、仲間を逃がすために――。いや、なんでもありません。かの高名な【解放者】に限ってそんな浅ましい事をする訳がありませんよね」
おっと、背後のハワトが肩をふるわせている。これは早急にケリをつけないとハワトが笑い死にしてしまいそうだ。
「ま、まさかそんな訳――」
「そう言えば【解放者】のクレアさんと我が従者ハワトさんは個人的な確執がありましたし、リーダーのジークさんもそれを知っていましたね。あぁ、話は変わりますが、先のクエストの最中に前衛組の存在を邪教徒に暴露した者がいたとの事ですが、それを報告したのは、どなたです?」
優しげな神父の顔が凍り付き、氷のような視線が私に向けられている。
思いついた事をぽんぽんと並べてみたが、我ながらにザル理論の塊だ。
そもそもクレアがシャンタク鳥を呼ぶという前提が成立しなければこの論理はすぐに崩壊するし、何より有名パーティーである【解放者】をぽっと出の私が僻んでいるだけと考えるのが普通だ。
だが状況が状況だけに神父は私の言葉を信じているように思えた。
なんといっても火災というのは人の心を浮つかせるものであり、ありえないシャンタク鳥の襲撃に神父の心にはどうしてこのような事が起こったのかという主への疑念が渦巻いている。
だからこそ、その疑念に息を吹き込んで燃え上がらせてあげればあとは勝手に燃え広がっていってくれる。
「くすくす。まぁ私の下らない妄想です。それでは私達はこれにて」
人を陥れるだけ陥れて去るというのは気分が良い。私にとって睡眠は必要ないが、それでもぐっすり眠れそうだ。
それはハワトも同じらしく、先ほどから魔女帽子を深く被って表情を隠している。
彼女も十分満足してくれたようだが、満足しているだけではダメだ。彼女の役割は私を楽しませる事であり、自ら行動してほしいが……。そこは成長を願うしかないな。
あぁそれにしても良い気分だ。軽い足取りで大路を外れ、今度こそホテルへと足を向ける。
夜の火事を見てきたせいか、この路地はいつもより暗く感じる。
そんなどこかに何かが潜んでいそうな心地の良い夜道を歩いているとふと、突き刺さるような視線を背後から感じた。
敵意と殺意、悪意もある視線だ。
はて、どなただろう? もしかして『ネクロノミコン』の強奪を画策した愚かなアウグスタか? それとも先ほどの神父が放った追跡者か?
くくく、くすくす。今宵の私は気分が良いから直接相手してやるのもありだな。
一歩、二歩、そして振り返る。
するとそこにはただ暗闇が広がるばかりで視線が霧散してしまっていた。
どこだ? どこに潜んで――。いや、外なる神たる私から逃れる人間が存在する訳がない。つまり視線の主は煙のように掻き消えたということになる。そんなバカな……。
「――ナイアーラトテップ様? どうされましたか?」
「………………。……いえ、なんでも」
もし私に気づかれずに逃げられる存在が居るとすればそれは既知の存在でなく、神話生物に違いない。
それにここは元々ドリームランドである。私に気づかれない神話生物が居てもおかしくはないし、何より私はこの世界への鍵を一柱へ託している。
「ふむ、どうやら完全に動き出したようですね、イゴーロナク君は」
「――?」
「なんでもありません。しかしさらに気分が良くなりました。今日は一段と激しいレッスンをしましょう」
「は、はいッ!!」
光が無くても分かるほど頬を染めるハワトに笑みを返し、帰路につく事にした。
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