這いよる混沌と旧支配者
東京は台東区秋葉原。東京メトロ末広町駅から大路を挟んだオープンテラスの喫茶店。
そこに大学生ほどの黒髪黒目の青年がスマートフォンを弄りながら一人ほくそ笑んでいた。
白いパーカーにジーンズとえらくラフな格好は人ごみの中で目を離すと消えてしまいそうなほど平凡な見た目をしているが、その顔に張り付けた邪悪な笑みが異様に目を引く存在。
そんな彼がスマートフォンをタップする直前。喫茶店のウェイトレスが歩み寄ってきた。
「お客様」
「――ん?」
お楽しみの瞬間を突如妨害された青年はムッとした怒りを表す様に『ん』に濁点を含ませるように顔を上げれば清潔そうなシャツを着たウェイトレスが申し訳なさそうに頭を下げてきていた。
「只今、店内が混んでいるため相席の御協力をお願いしたいのですが……」
「いや、無理――」
自分のパーソナルスペースを侵害する者を許せない青年はウェイトレスに即答で断りの文句を呟こうとして、その背後に控えたトレーに湯気の立つマグカップを手にした少女に気がついた。
プリーツの入った黒のスカートから伸びるほっそりとした生足。インナーに草色のゆったりとしたシャツ。それを覆うようなだぶだぶの濃紺色のパーカー。
サイズのあっていないパーカーを着ているせいで青年は少女が見た目よりも幼いのではと思ってしまった。
だがそれ以上に目につくのがその髪だ。さらりと肩口まで延ばされたそれは見事に白一色。だがそれほど手入れされていないらしくぼさぼさと乾いている上にその白は清潔そうな白と言うより病的な濁った白――まるで老婆の髪質をしている。そこまでなら安物のウィックでコスプレしているか若さ故に弾けて髪染めをして失敗した中高生だと見過ごす事ができただろう。
しかしその生気の薄れた不健康そうな肌や落ちくぼんで隈の出来た瞳からただの弾けた奴というよりドラックにでも手を出したティーンエイジャーなのではと青年に思わせた。
若さが生み出す好奇心と悪徳への憧憬が重なって違法・合法問わずクスリに手を出す若者は数知れない。
大人から見ればバカな行いだが、青年はそんな無謀な悪に走ろうとする彼女に興味が引かれた。
その上、薬物依存者のような見てくれを差し引いてもその面の可憐さには目を見張るものがあり、容姿を十八点満点で考えたのならまず間違いなく十五点以上の美少女だ。
「――どうぞ」
「御協力ありがとうございます。ではごゆっくり」
一瞬で気を変えた青年に白髪の少女はぺこりと挨拶しながら椅子を引き、ウェイトレスが居なくなるのを見届けて小動物のように紅茶の入ったコップに両手を当てて息を吹きかける。そんな彼女に青年は早速「ねぇ君――」と気さくに声をかけた。
「それ、なんて麻薬使ってるの?」
「……え?」
「その顔色を見ればキめてる奴かどうか分かるさ。大丈夫、大丈夫。安心して。警察に突き出すとかそんなの考えてないから。オレも色々使ってるけど、最近パッとしたのが無くてさ。良かったら教えてくんない?」
「………………」
「そんな警戒しないでよ。なんならオレが使ってるの少し分けてあげようか? いまいちだけど少しで飛べる代物なんだぜ」
先ほどまでの陰鬱とした青年とは思えぬ口調に白い少女は硬直するように押し黙っている。
それがより青年の心を刺激したのか、より口元に獣欲を抱くように歪め――。
「あの、やめてください。吾郎さん」
「――は? 吾郎? 誰それ? それにオレ、そんな名前じゃ無いし」
「いえ、でもわたしは貴方が“吾郎”さんだと教えていただいたのですが」
「――ッ!」
青年はその時になってやっとコツコツと言う革靴の足音に気づき、顔を上げる。その彼が言葉を紡ぐ前に私は先制を取らせてもらう。
「お久しぶりです、吾郎君」
「――!? に、ニャルラトホテプ!? どうして貴様が!? 旧神のクソ爺に封印されたはず――!」
少し前、地球を管理する神――ノーデンスの策略でこの私、這いよる混沌は異なる世界に幽閉された事があったが、旧神如きが宇宙の法則たる外なる神に対抗できるはずも無く、力技で封印を突破してきたのだ。
その結果、あの世界とドリームランドを父たる盲目にして白痴の王――アザトース様につなげてもらったり、ドリームランドで従者を探したりと色々やっていため私をあの世界に送る原因となった吾郎君を探すのが遅くなってしまった。
「いやー。あの事件は酷かったですね。君を助けるために迫りくるトラックから身を挺したというのに。私はね、君がハスター君を復活させるというから色々と協力してあげたのに全てやらせだったとは悲しいかぎりです。ねぇ吾郎君。いや、旧支配者イゴーロナク君と呼ぶべきか?」
ビクリと肩を震わせる旧支配者。イゴーロナクは悪徳と背徳の神であり、その召喚の方法は二つある。一つは悪の素養を持つ宗教者を見つけては更なる悪行をつませて堕落させ、その堕落が行きついたところでその者の肉体に乗り移って支配する事で彼はこの世界に降り立つ事が出来る。
故に異世界にて拾った我が従者はまさに彼のストライクゾーンを直撃した存在といえたから、イゴーロナク君が彼女に夢中になっている隙に近づく事が出来た。
ふむ、どうやら大いなる戦争の前と変わりない趣味をお持ちのようだ。
「君も大いなる戦争の時に私自ら知性を奪ったはずだが、その様子だと旧神から身も心も解き放たれたようだな。私の封印に際して司法取引でもしたか?」
旧神と旧支配者の雌雄を決した大いなる戦争において私は旧支配者から知性を奪い去った結果、戦争に勝利した旧神によって彼らは永い封印につくことになった。もちろん旧支配者の一柱であるイゴーロナクも例外なく封印されたはずだ。
それなのに知性を取り戻しているのだから今の肉体も含めノーデンスが彼に与えたモノだろう。
「うるせえ。裏切り者――。あ、って、テメェー! オレのスマフォ返せ――。あ!?」
彼が手にしていたスマートフォンを華麗な指使いで取り上げ、液晶を一瞥する。
ふむ、SNSの画像投稿ページだ。そこにアップされているのは――。おやおや。どうやら『グラーキの黙示録』の十二巻目のとあるページだな。
『グラーキの黙示録』とは十九世紀のイギリスにて書かれた魔導書であり、そこには人の夢に干渉出来るグラーキ君という旧支配者が己の信徒達に夢や幻視を通して見せた冒涜的な事物をまとめた書物だ。
その十二巻目にはイゴーロナク君の事が仔細に記されており、それを目にした者に悪徳の心を芽生えさせたりその者の前にイゴーロナク君自体が降臨出来たりするのだ。これが彼の二つ目の召喚方法である。
「おやおや。この邪悪な画像を情報の海にばらまくつもりだったのですか? さては早々に信者を作ってその体からお暇しようとでもしていましたか? はい、残念」
我が従者――ハワトが店員に注文していた熱々の紅茶に彼のスマートフォンを沈める。昨今のスマートフォンには防水機能が標準的についているものだが、その多くは常温における水道水――真水における防水を謳っているもので、紅茶のような余計な成分の溶け込んだ熱湯に漬かる事は想定されていない。
「これでよし」
「何が“これでよし”だ! ふざけんなよ! おい!」
次から次へと吐き出される呪われた悪しき言葉をニコニコと受け流しながらウェイトレスにハワトへ新しい紅茶を持ってくるようオーダーを出す。それが済む頃になってようやくイゴーロナク君は恨み言を言うのを止めてくれた。
「で、オレに何用だよ。テメェの事だ。ただ復讐をしに来たって訳じゃないんだろ。それにその娘はどうした? お前にそんな趣味があったなんて知らなかったが」
「まず彼女に関してですが、彼女は優秀な従者です。自己紹介を」
「ハワトと申します。偉大なる旧支配者イゴーロナク様」
その時、替えの紅茶が運ばれてくると共にウェイトレスが水没したスマフォに目を奪われ、口を開こうとするが即座に問題ないと彼女の入り込む余地をたつ。
そして何か言いたそうなウェイトレスが去るのを待ち、本題を告げる事にした。が、今度はイゴーロナク君に先手をとられてしまった。
「へぇ。よく見れば魔力も申し分無いし、何より好みの臭いがするな。それに顔立ちも良い。贄として食っても良いし、新しい肉体としても馴染みそうだ」
「こらこら。ハワトは私の従者ですよ。勝手にとらないでください」
「良いじゃねーか。それにお前の願いをきくのは業腹だ。余計に手を出したくなるぜ」
ふむ、ハワトを使ってイゴーロナク君を釣る作戦は成功したが、変な虫がついてしまった。
まぁ必要な損害と割り切るしかないな。それに交渉の材料になるか。
「それで本題なのですが、あなた、夢の異世界に渡るつもりはありませんか?」
「は? なんでそんなとこ行かなきゃならねーんだよ。あんなのテメェ等が作ったただの箱庭だろ」
「話せば長くなるのですが、実は私の封印に関してノーデンスさんと一戦交えましてね。その結果、私が封印されそうになっていた世界が崩壊しそうだったのでドリームランドを繋げました。そのせいでドリームランドは様変わりしたのであなたも気に入るかな、と思いましてね」
器用にもイゴーロナク君は口笛を吹き、より邪悪な笑みを浮かべる。
「あのクソ爺をやったのか! そいつは良い。キヒヒ。傑作だ!」
「ですがノーデンスさんを消滅させた訳ではありません。完全なる破壊は趣味ではありませんので」
するとイゴーロナクの顔にありありと不快が滲む。
やはりノーデンスを警戒していたのか。
最終的にノーデンス達――旧神の悲願は悪しきモノの永久追放し、奴らが言うところの平和と安寧をこの世界にもたらすのが奴らの存在意義だと思っている。
そんな連中がやっと封印した旧支配者の一柱を旧神に協力したとは言え野放しにするとは思えない。
だからこそ彼はSNSを駆使してまで無理やり信者を作って別の肉体に乗り移り、ノーデンス達旧神の目を掻い潜ろうとしていたのだろう。
「さて、本題です。イゴーロナク君。私はあなたを新しくなったドリームランドに匿おうと思っております。どうでしょう?」
「ハッ。ヤなこった。そもそもテメェの言いなりになるつもりもないし、テメェの口車にのったら旧支配者も最後ってのをオレは学んだぜ」
「やれやれ。言葉が迂遠すぎましたね。言いなおしましょう。私と共に来い、イゴーロナク」
「……イヤだと言ったら?」
「お前を痛めつけてドリームランドに連れ込む」
「キヒヒ」とイゴーロナクは邪悪な笑みを深め、立ち上がる。
「おや? あなたは戦闘があまり得意ではないように思えましたが、残念です。互いに力に訴えるのを潔しとしない趣味の持ち主だと思っていたのですが、封印されている間に性格が変わりましたか?」
「ッけ。確かに直接戦うんじゃオレは分が悪いし、何よりテメェの言う通り殴り合いは趣味じゃない。だが束縛されんのも趣味じゃない。テメェもそうだからノーデンスの封印を破ったんだろ? 管理するのが旧神からテメェに変わっただけの世界に興味はねーんだよ。せっかく取り戻した理性と体だ。オレは好きにやらせてもらうぜ」
まぁそうだろうな。
永劫に似た闇の時間の中。理性を奪われ、神としての尊厳を奪われた彼は私の事を許しはしないだろう。故に私の提案が聞き届けられるはずもなかった。
だが――。
「まぁ、待ってください。最後にこれを差し上げましょう」
漆黒を思わせるスーツの内ポケットから一二センチほどの銀色の鍵を取り出し、それを一瞥してからイゴーロナクに差し出す。
そこにはイスラム美術で用いられるアラベスク模様と呼ばれる幾何学的な文様が反復的に掘られており、陽光を受けると細やかな凹凸に光が乱反射していた。
「どうぞ」
「銀の鍵、か。んなもんいらねーよ」
「どうぞ」
有無を言わさずに鍵を突き出すとやっとイゴーロナクは根負けしてくれた。
奪うように鍵をひったくり、喫茶店を後にする。そして数瞬目を離した隙に人ごみの中に紛れて消えてしまった。
「あの、ナイアーラトテップ様。あの鍵って確か時空を結ぶ鍵ですよね」
「正確に言うならば遍く時間と空間に接している我が兄――ヨグ=ソトースを解き開く神代の遺物。それが銀の鍵です。そのおまけとして矛盾を無視して空間や時間を行き来する効果があるにすぎません」
もっとも彼に渡した銀の鍵は私が作った贋作だ。真作は七十年ほど前のアメリカのとある海産物の嫌いな作家の手に渡ってしまい、その後彼は鍵を使う事で兄上を通して宇宙の真理を知りえた後、深淵の彼方に旅立ってしまったため鍵と共に行方不明となっている。
私の手にかかれば銀の鍵の精巧な複製を作れただろうが、あえてイゴーロナクに渡した鍵は真作にアレンジをかけて通行できる世界をドリームランドだけに絞っている。
「わたしのようなものが神意を推察するのはおこがましい事ですが、あのご様子ですとイゴーロナク様はドリームランドに来られないのではありませんか?」
「彼は必ず来ますよ。どちらにしろ彼が地上を謳歌出来るのは今のうちです。ノーデンスが力を失い、行方をくらましたとて他にも旧神は数多く存在しますから逃亡は必須です。
それに彼は駒であるハワトと違い、私と同じ指し手です。一人遊びに飽きればおのずとドリームランドを訪れるでしょう」
そう、ハワトは愛おしい従者であるが、所詮盤上に並ぶ駒の一つでしかない。だがイゴーロナクは駒を動かす側の神だ。そしてなおかつ彼は私に似ている。
だからこそ彼はドリームランドの地を踏む事になるだろう。
あぁ楽しみだ。くすくす。
後書きをここで終わらそう。
冒涜的にもモーニングスター大賞のホームページより音が聞こえる。何かぬるぬるふわっとした本作が、一次選考を通過したような音だ。
こんな過疎ジャンルの低ポイントの本作が見つかることはないだろう。
読者よ、あの本作が! あぁ通知が! 通知が!
という訳で星辰が揃い、連載再開です。一応、地味に修正をしておりますが、大きな変更点は全体のストーリーを調整するためオリジナルの邪神であるアルボルスの名前を変えました。それだけです。
それではご意見、ご感想をお待ちしております。




