エピローグ:未知なる異世界を夢に求めて
ふと、気がつくと麗らかな日差しが差し込む家の中にいた。
なんとも懐かしさを掻き立てられる小さな家。
玄関をくぐればすぐに居間兼食堂兼台所のそこには家族全員が座れるテーブルが置かれ、それを取り囲むように四脚の椅子が静かに使われる時を待っている。
いや、その四脚のうち一つを占拠するモノがいた。
黒い服の男だ。
貴族様が着られるような上品そうな黒の上下。きらきらと輝く革の靴。浅黒い肌をした長身の美形。
だが美形と分かるのに何故かその顔は目や鼻は口に代わってぽっかりと黒い穴が開いていた。何もかもをそこに吸い込みそうな不安を見るモノに与えている黒い穴がわたしを見つめて来る。
こみ上げて来るうすら寒い思いを抱かせるその黒い顔から目をそらそうとするも不思議とわたしは無貌から視線をはずせないでいた。そんなわたしに男はツィっと暖炉にて湯気を上げるポットを指さす。
わたしの体はそれに合わせるように暖炉からポットを取り外し、いつの間にかテーブルに用意されていた木杯にその中身を注いでいく。
ふわりと鼻に届くのは大好きなカモミールの香り。いや、香りはカモミールの透き通るようなものだけではない。鉄錆に似た臭いも同居している。あぁ、そうだ。家族の死体が転がっているからだ。それより今は示された通りお茶をお出ししなければ。
「お待たせしました」
「 」
黒い男はカップに手をかけながら不浄な音の羅列を口から発する。狂おしく、おぞましい音に体がブルリと震える。
――不幸にも今宵、星辰がそろう。備えよ。
男の言葉は人間が発するような言葉では無かったが、それでも意味を理解する事が出来た。
そしてその狂気につつまれた真意をわたしは理解し、冒涜的な使命感を掻き立てさせる。
そう、今宵こそ待ちわびた時が満ちる。
その悦びに思わず口元を緩めると、急に世界がぐにゃりと掠れだした。何かを掴もうと手を伸ばすが、それも叶わず世界は色を失い、消えて行く。だが最後のその瞬間――。
「くすくす」
黒い男の口からもれた嘲笑が耳朶を打った。まるで世界の全てを嘲笑うかのようなその笑みに体は震え、青ざめる気持ちになる。
そんな恐怖を覚える中、突然と攪拌された意識が一つに集約するように目が覚めた。
蝋燭の燃え尽きたホテルの一室。こんこんと降り注ぐ月光が机に倒れるように寝て居たわたしを青白く染めてくれる。
背中には冷たい汗が伝い、悪夢の残り香と共にそれが身体を震わせた。
「……寝ちゃったのか」
十日ぶりの睡眠の末に見た夢はいつも見る内容に似た懐かしい雰囲気のそれだった。
だが懐かしく思えてもそれは夢の世界の出来事。わたしには家族の記憶も生まれた家の記憶さえ無いし、何よりあのような立派なお姿の方との面識など無い。
そもそもわたしは自分の生い立ちに関する記憶が欠落している。気がついた時にはアーカムで冒険者をしており、装備と言えるものは魔女風のローブと帽子くらい。手にしていたのはギルドカードと一冊の本だけだった。
もっとも冒険者の身分と寝食を必要としない体を持っていたおかげで苦労と呼べる苦労無くこうして暮らしている。それに最近では支援者を得る事が出来たので生活の質はより向上していると言えよう。
硬くなった体をほぐす様に身を超しながら腕をいっぱいに伸ばし、机に置かれた本や白紙の紙束やインク壺などを見やる。
その中で目につくのが皮によって丁寧に装丁された一冊の本。タイトルも著者名も書かれていないそれには冒涜的な魔法や有史以前に信仰された邪悪な神々の事について異界よりもたらされた未知の言語によって書されている。その本こそわたしの唯一の私物である魔導書――『ネクロノミコン』だ。
最初こそ『ネクロノミコン』に記された冒涜的な内容に頭痛と吐き気に襲われながら読んでいたが、今では新たな知識を得る事にこの上ない喜びを感じるようになっていた。
その素晴らしい宇宙の真理を一人でも多くに伝えようととある酒場で朗読会をしたところ、たまたま居合わせたミスカトニック大学の教授にも絶賛され、彼の勧めで翻訳本を作る事になったのだが――。
「欲しがる人が減らないってのは嬉しい悲鳴よね」
残念ながら『ネクロノミコン』に記された言語を理解出来るのはわたしだけのため翻訳本をせっせと作って早五冊目。
ミスカトニック大学の教授の助力もあり資金面に不自由する事無く原稿を書けるので非常に助かっているし、何より同志達の協力もあってわたしの訳本を基に数十冊の写本が作られている。
だがそれでもわたし個人に『ネクロノミコン』の翻訳を頼んでくる同志は数知れない。なんでも翻訳本の写本には書き手の省略や言い回しの変換があるためより正確なわたしの本を得たいのだと言う。
それはそれでむず痒いものがある。
だがいささかそれが苦になり始めている。深淵なる教えを広めるのは良いが、同志達との語らいに参加する暇も無くなってきているのがどうしても悩みどころだ。
その上、わたしの書く写本には本来『ネクロノミコン』には記載されていない話が巻末に差し込まれる。それがより手間を増やしてしまうのだが――。
「でも仕方ないよね。あのお方の事を書き記さないなんて」
黒い無貌の神。そのお方と過ごした僅かな日々と世界の創造――元の世界をドリームランドに繋げるという創世の話を挟まずにはいられない。
ふと月明りの差し込む窓の向こうにはアーカムの街並みが広がり、その奥には町を守る城壁が立ち並んでいる。そしてその先。黒い森のさらに進んだところにある狂おしいほど高いカダスの山が闇の中に黒々と浮かんでいた。
誰もが口をそろえてアーカムから見えるその狂気染みた山が天地創造の御代より存在したと信じている。だがわたしが覚えている限り本来、アーカムの近くにあのような山は存在しなかった。
だが周囲と同様にわたしもカダスの山が不変にそこに広がっている事を知っている。
相反する知識があの夢からやって来るのだと時をおかずして理解した時、あの夢は現実に起こっていた世界――この世界とは違うどこか別の世界の一幕だったのではと思い至った。
わたしには山間の村で暮らす家族が居てそれを盗賊に殺され、月に吠えるモノと邂逅し、闇をさまようものとの従者となり、黒い男より『ネクロノミコン』を授けられた。ただの村娘だったわたしを大いなる使者は冒険者として、魔法使いとして服を、知識を与えてくださった。
そして這いよる混沌は世界が彼の神のために作られた事を察し、真の世界の創造主であった深淵の大帝とその自由をかけて戦い、世界を創り直して消滅された。
だがそれを証明する手立てなど持ち合わせていない以上、それが精神を病んだわたしの他愛ない妄想である事も否定できない。むしろそちらの方が実は正解なのかも。
アレがただの微睡の中に見た異なる世界だったのなら、願わくば狂気に導かれるままに再訪を目指し、あのお方より授けられたご恩をお返ししたい。
その想いを乗せてあの方から教えてもらった賛美の呪文を心の中で唱える。
クトゥルフ・フタグン。
ニャルラトテップ・ツガー。
シャメッシュ、シャメッシュ。
ニャルラトテップ・ツガー。クトゥルフ・フタグン。
なんの慰めにもならぬおぞましい祝詞を唱え、ふと窓を見やる。時が止まったのではと錯覚するほど完成された静けさに彩られた世界。禍々しく瞬く無数の星々。
そこから夜空の闇よりもさらに濃い深淵がこちらに向かってくるのが見て取れた。
あぁ! そんなはずはない。あの名状し難きうねる様な体。世界の全てを嘲笑するかのような吠える声。
だが確かにアレは――! あぁ!
わたしもそんな無貌の神に心を奪われた哀れな犠牲者の一人に過ぎないのかもしれない。
あぁ! 窓に! 窓に!
これで一章と言いますか、このお話は終わりになります。
二章以降の更新は星辰が揃った時に再会いたします。
皆さま、稚拙に御付き合いくださりありがとうございました。




