這いよる混沌、異世界へ・2
気がつくと私は木々に囲まれていた。
森の中と言っても大地は踏み固められた道であり、その端には固まった轍があるのが見て取れた。その轍は空気入りタイヤ特有の滑り止めの無い滑らかなものであり、鉄輪や木輪のようなものが通った事を伺わせた。
ふむ。この轍を見るにこの世界の時代背景は空気入りタイヤの普及前――近代以前か、遅くても初期近代と考えるべきか。
「しかし轍があるものの人の気配はありませんね。さて、装備品は――」
ファンタジーゲーム風の世界とノーデンスは言っていたし、それに合わせて言うならば装備品は高級感溢れる革靴、黒のスラックス、清潔な白のシャツと黒のベストに黒のネクタイ。そして全体を引き締めるために黒の背広。パンツは優しさを求めて白。
「他に荷物はありませんし、武器も無い。まぁ必要ありませんが」
あとはどの方向に歩を向けるか、か。
あ、こんな所に使ってくれと言わんばかりに枝が落ちているではないか。
「これを倒して、と。ふむ、なるほど。そちらですか」
枝が倒れた先は道から外れ、黒々とした森が広がっていた。そこに向かい足を踏み出すとなにやらチリチリとした違和感を覚えた。
これは――。稚拙ではあるが結界か。
「剣と魔法の世界と言うのは本当のようですね。くすくす。楽しませてもらえると何よりなのですが」
森から街道に向けて手を伸ばすと静電気を思わせる衝撃が指先を襲った。
ふむ。どうやらこの結界は魔除けのためのものか。道から森に入る際は発動しないが、その逆――森から街道へ悪しきモノが出るのを封じるようになっている。
試しにもう一度手を伸ばし、先の痛みを無視して街道に戻ると一瞬だけ空気が震えるのを感じた。
「おやおや。結界が負荷に耐えられずにショートしてしまったようですね」
もう少し観察すればどの程度の魔法が普及しているのか調べられそうだが、この世界に居ればいずれ知る日も来よう。楽しみは最後までとっておくに限る。
「さて、では行くとしましょう」
踵を返して暗い森の中を歩くと言うのはどこか安堵を覚える。そう言えば地球に転移する入り口の一つであったンガイの森と似た雰囲気がこの森にはある。そう、どこか悪意ある瘴気の滞留する空気。おそらく地球よりも魔素が豊富だからだろう。実に私好みだ。
「ん? 早速ですか」
まだ姿は見えない。だが森の木々の間を縫うように走る事で私の視覚から隠れる連中が居る。この素早い身のこなしは人間では無いだろう。それよりも理性と知性に欠け、凶暴性に秀でる生き物。
「ほぅ」
そのうち一頭が眼前に飛び出してきた。大型犬ほどのサイズを誇る狼だ。だが地球のそれとは違い、頭部に十センチほどの円錐形をした角を持っている。
その角の生えた狼は口元から美味そうな獲物を見つけたと言わんばかりに唸りながら涎を垂らす。もっとも私を追う気配が一つで無い事くらい気がついている。背後に振り向きながら裏拳を叩き込めばちょうど大口を開けながら飛びかかってきたもう一頭の狼の横顔を拳が捕らえた。
瞬間。顎が砕かれる音と共に狼は投げ出され、樹木に激突する。まだ生きているようだが、戦闘不能だろう。
「ふむ、あの敵意をむき出した派手なアクションは囮で本命は背後からでしたか。狡賢い事を――」
が、さらに側面から一頭が飛び出してきた。なるほど、保険をかけているとは。知性が欠けていたと言う評価は取り消そう。中々用意周到なハンター達だ。
「これは――。避けられないか」
三頭目は寸分も違わずに私の首筋を捕らえ、顎に並んだ鋭い牙が肉を、気管を、血管を瞬時に噛み潰す。
呼吸が出来ず、声を出そうにも「ひゅー、ひゅー」という空気の漏れる音しか口に出来ない。
深紅の液体があふれ出してせっかくのシャツを赤黒く染めていく。それを阻止しようと両手で狼の口元を無理矢理開こうとするが、ガッツリと噛みついたそれを引きはがすことはできなかった。
やれやれ。犬畜生と嘗めていたな。血を失い過ぎて眩暈がして来た。このままでは死は避けられない、か。
まぁこのまま喰われてやっても構わないほど素晴らしい連携だが、それではきっと全力で挑んできた狼が報われない。ここは好き嫌いを捨てて少しだけ本気を出そう。
「 」
潰れた喉が人間には発音不可能な忌まわしき音を正確に歌い上げる。狂気染みた音階はどの国の言語にも無いような呪われた響きがあり、人間が聞けば即座に嫌悪に打ちのめされることだろう。
そしてその音と共に血が泡立ち始め、次いで体の内から黒い粘着質な物体がボコボコとあふれ出す。
ここに来て異変に気がついた狼が即座に首から離れ、三頭が取り囲むように距離をとる。もっとも尻尾が内股に巻かれている事から彼らの本能が根源的な恐怖を感じているのかもしれない。
「おやおや? 意気地のないことで」
すでに勝敗はついたようなものだが、この状態から人の身に巻き戻るのはもどかしい。一度本来の姿に戻るとしよう。
ついに脱皮するように人の皮を脱ぎされば、円錐形の三本足、鋭い爪のついた触腕、そして深淵に染まった虚が張り付いた顔。
生物進化の上ではありえない冒涜的な形状の存在。外宇宙より飛来したとしか思えぬ既存の生物とかけ離れた姿。
あぁ我ながらになんと醜く浅ましい姿か!
「くくく、くすくすくすくす――」
醜悪な我が身に思わず嘲笑がもれてしまう。この身を授けてくれた我が父――盲目にして白痴の王アザートスや我が忌まわしき兄姉達さえも含めた全てに対し嗤いがこみ上げてくる。
「さぁ第二ラウンドだ! 愉しもうではないか! ――おっと。逃げるつもりか」
文字通り尻尾を巻いて逃げるなどなんと他愛のない。だが外なる神をこの冒涜的な姿にさせてしまったのだ。無事に逃げられると思うな。
まずはちりじりに逃げたうち、もっとも近くにいた個体――首に噛みついたそいつに向け、触腕を振るう。鞭のようにしなるその先端の鍵爪が狼の腹部に触るや、熱したナイフでバターを切るようにすっぱりと傷口が開き、続いて襲った衝撃波がその傷を広げて破裂するように狼から半身を奪い取った。
「まず一頭」
木々を縫うように逃走を図る二頭。連中は素早い身のこなしと木々を盾にしているようだが、無駄だ。
「 」
貌に戴く虚から新たな呪文が紡がれる。今度は束縛の呪文だ。
宇宙的恐怖を孕んだ呪文により二頭の狼は見えぬ手に捕まれたかのように地に縫いつけられた。
あぁキャインキャインと慈悲を乞うような鳴き声が煩わしい。それでも先のような妙技を見せた森のハンターか。
「見苦しい。見苦しい見苦しい――!! それほど慈悲を乞うならば最初から外なる神に戦いを挑まなければ良かったものを! それともこの私がか弱き人間に見えたか? ”狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い”常に安易な道を求める者は大成しないものだ。まぁ犬畜生に教えを授けても無駄か。ならばこの外なる神が最後に深淵に染まりし慈悲をくれてやろう」
触腕が唸りを上げ、空気を切り裂く。
しばらくみずみずしい破砕音と命乞いの叫びが森に木霊したが、すぐに静かになった。
補足
ナイアーラトテップ(ニャルラトホテプ)
魔王アザトースより使者として生み出された外なる神。アザトースに仕えているものの、人間はもとより他の神々をも嘲笑し続けている。
顔がないため千の異なる顕現を持ち、古代エジプトでは暗黒のファラオと呼ばれ、サバトに現れる黒い男であり、預言者であり、核兵器を開発した科学者としても姿を現している。
日夜、人間に狂気と混乱をもたらすために暗躍している。
”狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い”
マタイの福音書7:13