アーカム・1
白々と明けた朝。
村のあちこちに死体や血痕が散らばり、盗賊達が着けた火が燃える物を全て焼尽に帰した村。
鼻孔をつくのは空腹をくすぐる香ばしく焼けた肉の臭いにブレンドとして死臭が混じっている。
生者の気配こそ僅かに感じ取れるが、どれも精根尽きてしまっているせいで未だ死の影が色濃く残っていた。
「うん、とても良い朝ですね。空気が多少、脂っぽいですがむしろ良いアクセントです。それでハワトさん。貴女どうしてどけ座をしているのです?」
地に伏せたハワトはわなわなと震えながら身を縮める。
「その、あの後『ネクロノミコン』を読んでおりまして。その、ナイアーラトテップ様が如何に偉大な神であるかをうかがい知る事が出来ました。こんな矮小な身が御身の従者になるなど畏れ多くて」
あぁ。なるほど。昨日の晩餐会が終わった後、私は家族団らんの邪魔をしないように両親の寝室に退避していたのだが、その間にあの本を読みふけっていたのか。
よく見れば彼女の目元に隈が出来ている。よほど熱心に読んでいたのだろう。それで何かしら、私の事を知ったのか?
「ハワトさん。頭を上げてください。そう畏まられてもやりにくくて仕方ありません。最低限の敬意さえ払って頂ければそれ以上は言いません」
「しかし――」
「私は頭を上げて最低限敬えと言ったのだ。聞こえなかったか?」
「す、すみません!」
ハワトが勢いよく立ち上がり、背筋を伸ばす。その愚直な姿に思わず微笑みが漏れてしまった。
「くすくす。さぁ出立しましょう」
「はい、ナイアーラトテップ様。あの、それでこの馬車使っても良いんですか?」
ハワトが指し示す先には盗賊達の使っていた幌も無い簡素な馬車があり、そこに繋がれた一頭の馬が不安そうにこちらを見ている。
「ふむ、確かにこれは盗賊さん達の持ち物ですが、生憎その盗賊さんが居りませんし、村に居る盗賊さんは死んでしまっています。死んだ人に馬車は必要ないではありませんか。ならば今どうしても使いたい私達がありがたく使うほうが馬車のためになると思いますよ」
「ですがまたシャンタク鳥をまた呼べばよろしいのでは? お空を飛ぶ方が馬よりも早いと思いますが」
「おや、そうですか? ですがあのシャンタク鳥には少しお使いを依頼しているので呼びかけに応えてくれるかどうか」
そう言えば盗賊の頭領を乗せたシャンタク鳥は今頃どこを飛んでいるのだろうか。楽しい宇宙旅行になってくれたら良いのだが。くすくす。
「それに今の貴女にはシャンタク鳥を招来させる力は無いでしょう。昨晩は遅くまでご家族と食事をしていたようですし」
「……申し訳ありません。ナイアーラトテップ様の忠告を無視して魔法を使っていたせいですよね」
「そう自分を責めないでください。それに昨夜は楽しい狂宴を過ごせましたので言う事はありません。ですが夜更かしは健康によくありませんのでほどほどに。人間は脆いものですから」
人間の虚弱性は時に辟易を覚えるが、それ故に愛おしくもある。
彼らの生は短く弱い。だからこそ命を懸命を美しく燃やし、足掻いてくれる。
その無様な姿が愛おしい。その必死さが愛らしい。
だからこそ、彼らを壊したい。彼女らを惑わしたい。
大事に手塩にかけて、ゆっくりと狂わせて壊れている光景を見ていたい。だから私は人間を愛しく、価値がある生き物だと思っている。
もっとも皆が皆、愛おしいという訳ではない。絶望を乗り越えられず、安易にも精神を壊し、己の命を自分で吹き消す愚か者も居る。
その点で言えばハワトは現状、満点だ。非の打ち所がない生き様をしていると言えよう。
このような者は実に七十年ぶりだ。あのアメリカの作家以来の逸材だ。
ならばその命の輝きを最後の最後までこの目に焼き付け――。おや?
「おや? よく見ると髪の色が変わっていませんか?」
「髪ですか? 申し訳ありません。鏡が無くて確認しておりません」
「そうでしたか。ですがよく見てください。確か昨夜までのハワトさんの髪の色は金色だったように思うのですが、今は三割くらい白くなっていますよ。私の思い違いですか?」
人間というのはどうも同じような顔ばかりで見分けがつきにくいが、ハワトをよくよく観察すると寝不足特有の隈に乾いた肌が見て取れた。
その上、彼女の黄金色だった髪に白髪が混じっている。
「あれ? 本当だ。白くなってる……。おかしいです。わたしの神はお母さんのと同じ金の髪だったはずなのに……」
髪を一房掴んでハワトが首をかしげる。
ふむ、恐らく原因は昨夜のゾンビカーニバルのせいだろう。ハワトは私が付与した魔力の多くを使い切ってしまっていた。人ならざるモノの力を人の身で行使し、這いよる混沌たる私の姿の一つを直視した上、家族の死と言う正気を失う行為によって積み重なったストレスが彼女の髪を一晩にして白を混じらせてしまったのだろう。
これではシャンタク鳥の招来は不可能だろうし、何より体に負荷をかけ過ぎている。この調子では早晩人の身ではいられなくなるだろう。
「分かりましたか? これが力を使い過ぎた代償です。これからもこの力を使うのなら異変は髪に留まる事は無いでしょう。それを忘れぬように。さて。では行きましょう。手を」
「はい!」
馬車の荷台にハワトを引き揚げ、鞭を打つ。
もっとも鞭を打たれた馬はただ怯えるようにその場で足踏みをするだけだった。
「おや。怯えて使い物になりませんね」
「でも替えの馬なんて居ませんよ。一応、村長さんの家で農耕馬が一頭おりますが」
「取り換えるのも面倒です。仕方ないので動物に命令する呪文を使いましょう」
「ではわたしが――」
「それには及びません。では――。 」
呪文を唱えれば馬はすぐに静かになり、指示するがままに足を進ませ始めた。
やはり呪文を使いすぎるとぬるくなっていけないのかもしれない。出来るだけ自分を戒めながら使っていくとしよう。
あぁそう言えば――。
「ハワトさん。そう言えば昨夜は随分と魔力を使いましたね。腕を出して御覧なさい」
「はい、ナイアーラトテップ様」
彼女が差し出した右手に刻まれた星を崩したような形の印の上に手を重ね、魔力を流し込む。これでよし。
「――ッ、あ……! す、すみません。変な声を出してしまって!」
「くすくす。気にしていませんよ。それよりアーカムまで徒歩で三日でしたね。馬車ですから明日には着きたいところです。向こうに着いたら宿を探して積荷を買い取ってくれる質屋を探しましょう」
「そうですね。久しぶりの町なのでわくわくします」
盗賊達の馬車を使うついでにそこに積載されていた積荷もありがたく頂くことにした。
まぁ村人が全滅していた訳では無いだろうが、どうでも良い事だ。
取りに来なかった事だし、要らないと言う事だろう。ならばありがたく使わせてもらうまで。
それにお金に関しては石ころなんかに幻惑の呪文をかけて金に見せかける事も出来るが、魔法ばかりに頼りすぎては難易度が下がってしまう。
ふと、隣を見るとハワトが名残惜し気に村を見ていた。ふむ、二度と帰る事の無い村だ。哀愁にかられるか。
「お父さん、お母さん、アリス。さようなら」
おや、違ったか。郷里の想いではなく家族との別れを惜しむとは、人間の思考は複雑で面白い。いや、彼女に限って言えば擦り切れた心に残った搾りかすの思いが家族なだけだからなのかもしれない。
あの死体――特に母と妹の方は性的な暴行を受けた形跡がありありと残っていた。恐らく母は死してから、妹は行為の最中に死んだのだろう。
時系列を考えればハワトはそれを見た後に森にて私と邂逅を果たしたと考えるべきだ。
そう考えると這いよる混沌たる私を見たのはダメ押しも良い所だったか。
おかげで彼女はゾンビが徘徊する死した村に哀感を覚えることなく残した家族を思っているのだろう。なんと健気で狂気に犯されていることか。笑いがこみ上げてしまう。
それから一日。街道で一夜を明かして馬車に揺られる事しばし。ある丘を越えた先には大河を挟むように広がる町――アーカムが広がっていた。
「立派な町ですね」
「はい、アーカムはクセス地方で一番大きな町なんです。年に一度、村で獲れた毛皮を売りに来りしていました」
ハワトの楽しそうな昔語りを耳にしながら丘を下ると街道はより大きな街道と交わり、一気に賑やかさが増した。
往来を行くのは馬車の他にも大きな背嚢を背負った行商人や武具に身を固めた者など多彩を極め、それはアーカムに近づくほどより雑多になっていく。
中でも異彩を放つのは明らかに人間では無い者達が混ざっている事だ。ある者は人間の顔つきでありながら進化論を嘲笑するように犬や猫を思わせる動物的な耳を頭部に生やしている。だがそれらはまだ良い方であり、中には忌まわしきことに獣の頭部そのまま人に移植したかのような名状しがたき生物まで大手を振って闊歩している。
だが中には見慣れた容姿のモノも混じっており、猫顔人体の生き物と言う旧神のバーストさんを思わせる連中も居れば、蛇やトカゲのように出張った鼻先と口元を持つ蛇人間のような連中も見かける。旧支配者の一柱たる蛇達の父ことイグ君が創造した眷属と関係があるのだろうか?
「何か珍しいものでもありましたか?」
「いえ、あの方々は?」
「……? 獣人やリザードマンの方がどうしましたか?」
ふむ、ハワトが何の疑問を浮かべないあたり、アレはあれで普通に世界に溶け込んでいるのか。地球圏での蛇人間は今や滅亡に瀕しているからイグ君がこれを見たら喜ぶだろう。彼の信者に報いる姿は見ていて好感が持てるからいつか彼をこの世界に呼んでみるのも面白いかもしれない。
「それにしてもこの賑わいには驚きますね。今日はお祭りの日ですか?」
「わたしも最初は驚きましたが、アーカムはいつもこのような感じだそうです。クセス地方自体が田舎ですからアーカムに集中して人が集まると父から聞きました」
「物流拠点と言うべきですか。なるほど」
「ぶつりゅうきょてん?」
「何でもありません。おや? 城門をくぐるにはあの検問を通過せねばならないのですか?」
切り出された石を積み上げた堅牢な城壁は一五メートルを超えるほどもあり、その根元の大扉に向かって列が形成されている。
「積荷を検められるのですか?」
「それもありますが、入市税と関税が取られるんです」
「困りましたね。私はお金を所持していないのです」
「あ、それは大丈夫です。手持ちがありますので」
「それは助かります。では手続きに関してはハワトさんにお任せしましょう」
ゆっくりと列に紛れ、のろのろと順番待ちをしながら城門を見ていると二種類の人間が居る事に気がついた。
一つは私達のように列に並ぶ者。一つは列に並ばずに何かしらのタグのような物を門番に見せてそのまま素通りで入って行く者。
どうやらフリーパスが存在するらしい。
「ハワトさん。あの人達が見せているものはなですか?」
「ギルドが発行しているカードだと思います。ギルドに加盟している人はあのカードが配られるらしくて、それが身分証になるそうです。父の話だとギルドが入市税と関税を肩代わりしているらしくてそのまま入城出来るんだとか。ですからギルドへの加入費はとんでもなく高いと聞いています」
そう言ったシステムか。と、なると城門の管理者とギルドは親しい組織と言う事が伺える。
だが入市税や関税を他者が肩代わりすると言う事は密貿易の温床になってしまうのではないだろうか。それはそれで面白そうだが。
「そう言えば盗賊もギルドが云々と言って居ましたが、どのようなギルドがあるのですか?」
「商人のギルドや冒険者ギルドがもっとも大きいギルドだって聞きました。他にも工房が寄り集まってギルドを名乗っているようですが、ギルドと言えば商人か冒険者ギルドだと思います」
「なるほど」
ならばどちらのギルドに入る方が面白いだろうか。商売くらいなら地球で好事家に魔導書を売り歩いた事もあったし、商業系ギルドと言うのは地球にあったものだ。どうせなら地球に存在しなかった冒険者ギルドに入る方が良いかもしれない。
そんな事を考えているうちに遅々としながら列は進み、いよいよ私達の番になった。
「よし、次。行商だな? 二人か?」
「はい。積荷を売りに来ました」
「それじゃ通行手形出して」
手形? まぁ身分の曖昧な者を招くわけにはいかぬと言う事か。だがそんな物は無い。だがハワトはそれに頷くと荷台に行き、彼女の私物を詰めたバックから古びた羊皮紙を取り出した。それと同時に彼女の口が小さく動くのを視界の端に見つつ、口元が緩むのを隠すように頬に手をかける。
「どうぞ」
「うむ、確かに。ん? お前どうした? 鼻血が出ているぞ」
「あれ? だ、大丈夫です。お気になさらないでください」
ハワトは鼻もとを手で摘みながら御者台に戻ってくる。仕方ないので背広の胸ポケットから墨を流したかのような色のハンカチを取り出し、彼女の鼻に押し当てる。
「な、ナイアーラトテップ様! ハンカチが汚れてしまいます!」
「知ってますよ。さぁ、お使いください。袖で拭う訳にも行きませんし、私のために幻惑の呪文を使ってくれたのです。ハンカチくらいどうでもありません」
ハワトは門番に見せた羊皮紙は手形では無かったのだろう。だが幻惑の呪文をかけた事で門番はそれを通行手形だと誤認してくれた。
「しかしどうして幻惑の呪文を?」
「手形が無いこと昨夜気づきまして。どうすれば良いか困って『ネクロノミコン』を開いたら幻惑の呪文と言う物が載っていましたので」
「なるほど。しかし求めれば読めるとは言え、出来るのなら素で読める事が望ましいです。時間があれば読み書きを教えましょう」
「本当ですか? わたし、名前くらいしか書けないので嬉しいです」
花が咲き誇るように笑う彼女に再度ハンカチを渡しつつ、馬を進めると次の検問がやってきた。
そこでまた積み荷を検ためられると今度は入市税と積み荷に関しての関税を求められた。それに関してはハワトが手持ちの金を支払い、足りない物は積み荷の一部を差し出す事で解決した。
「よし、通れ!」
「ありがとうございます」
朗らかに会釈を門番に送りながら馬を進める。さぁいよいよアーカムだ。




